2007年5月28日月曜日

ホナーズヒル軽井沢




国道18号線の追分の信号から車で10分足らず下ったところに「オナーズヒル軽井沢」という小さな温泉旅館がある。ここにはレストランもあり、浅間山を遠くに眺めながら食事をとることもできる。私たちがこの施設を訪れるのは昨日が初めてであった。

宿泊のための部屋はわずかに4部屋。しかし建物は新しく清潔で、職員の応対もいい。私たちはここで昼食をとり、30分ほど山歩きをした後、温泉につかった。ゆっくりと心身の疲れを癒すことができた。おそらくこれからはたびたびこの施設を訪れることになろう。

2007年5月25日金曜日

息子が生まれた日

今朝6時過ぎに鳴った電話の音で目が覚めた。きょう予定されていた息子の遠足が天候が悪いために中止になったという父兄からの連絡であった。まだ雨は降っていなかった。電話を切った後、家内はぼやいた。「ゆうべ遅くまで折角準備を整えたのに・・・。」しかし、その30分後に雨が降り始めた。間もなく本格的な雨になった。

息子が生まれた日もきょうのようにはっきりしない天候であった。もう9年前になる。その日の朝5時過ぎに私は家内のささやき声で起こされた。これから病院に一人で行ってくるという。家内はその数日前から入院の支度を整えていた。

私はすぐに起き上がり、急いで身支度をした。そしてタクシーを拾うために家の外に飛び出した。当時、私たちが住んでいた家の向いは病院であった。したがって常時タクシーが停っていた。しかしそのときに限っては1台のタクシーも停っていなかった。午前5過ぎという時刻もタクシーを最も拾いにくい時間帯であった。またその日はちょうど祭日でもあった。私は走って大通りまで出た。しかしタクシーがなかなか来ない。

やっとタクシーを拾ってそのタクシーに飛び乗り、自宅の前にタクシーを着けたのは、15分ほど後であった。

そのタクシーの運転手は病院までの道順を知らなかった。地方育ちの私も都内の道路はほとんどわからなかった。お腹をかかえながら家内がナビゲートしていった。

病院に着いたのはちょうど午前7時であった。病院の救急外来は静かであった。産科の当直医がほどなく診察をしてくれ、すぐに入院ということになった。

案内された病室はいつ建てられたのかもわからない古い病棟の4階にあった。部屋に入ると湿気のためにむっとした。エアコンをつけようとしたが壊れていた。家内はすぐに陣痛室に移動した。残された私は蒸し暑く狭い病室のなかでじっと時間が経つのを待った。外は曇り空であった。時折、霧雨が降った。

午後4時頃であっただろうか。家内が分娩室に移ったとの連絡があった。男である私には出産に対する現実的な感覚が全くなかった。その報告を聞くと間もなく眠りに落ちた。

どれほどの時間、眠っていただろうか。電話の鳴る音で目が覚めた。分娩室からの電話であった。子供が生まれたという。私は急いで5階にある分娩室に駆け上がった。

分娩台にはまだ家内が横たわっていた。しかし苦渋の表情はなかった。傍にいた助産婦がタオルケットにくるんだ生まれたばかりの赤子を私に手渡した。男の子であった。私はぎこちない手つきで息子を受け取った。息子は私の手に移ると泣くことなく、いったいどこにいるのだろうという表情を浮かべてキョロッ、キョロッと左右に目を動かせた。「目と目が離れたずいぶん垂れ目の赤子だなあ」というのが私の第一印象であった。

2007年5月21日月曜日

ちんどん屋




私の自宅の近くにある巣鴨地蔵通商店街は、週末は大勢の人手で賑わっている。きのうの日曜日、この商店街で巣鴨商人祭りが開かれていた。天気がよかったので息子と一緒に祭りに出かけた。

息子の目的はスタンプラリーであった。商店街の7か所に設置された中継所でスタンプをもらうとともにクジを引く。当たりクジを引くとそれぞれの中継所で記念品がもらえる。スタンプが7つになると最も高価な記念品が用意されているクジを引くことができる。

商店街を息子とゆっくり歩いていると前方から奇妙な音楽が流れてきた。太鼓とトランペットの音色が聞こえる。ちんどん屋であった。彼らは巣鴨商人祭りの宣伝用のプラカードを胸から下げていた。

この辺り一帯は戦災を免れたのであろうか。古い街並みが今も残る。まだ街全体が生きている。人情もある。車の通りの激しい白山通りのすぐ裏で日本の伝統が生き続けている。

2007年5月17日木曜日

いい言葉

1週間ほど前、大学時代のクラスメートに電話をかけた。ちょっと頼みたい用件があったのだ。大学では彼女と私とは出席番号が近いこともあってグループで国家試験の勉強を一緒にしたこともあった。

その日は用件だけ告げてすぐに電話を切るつもりであった。しかし思わず話がはずみ長電話となった。彼女とは数年前からたまに話すことがあったが、近況を簡単に告げる程度であった。

私は、大学卒業後、彼女がどのような人生を歩んできたのかほとんど知らなかった。その日、彼女が経験してきたいくつかの挫折を聞かされて驚いた。人生は過酷だ。男女を問わず、次から次へと新たな試練が襲ってくる。

その日、彼女の話し方はいつになく穏やかであった。

電話を切る直前、彼女は次のようなフレーズを私に告げ、「いい言葉でしょう」と笑った。

"When one door closes, the door on the other side opens."

彼女は海外留学のために旅立つ飛行機の中でこのフレーズを目にしたという。

2007年5月16日水曜日

あきみ

私には「あきみ」という名の従兄がいた。私はこの従兄を「あきちゃん」と呼んでいた。「あきみ」と漢字でどのように書くのかは知らないままで終わった。この従兄は10年ほど前、膀胱ガンで亡くなった。

この従兄の父つまり私の伯父は、終戦の1か月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。この伯父が出征したとき、この従兄は生後2週間にしかならなかったという。従兄には自分の父親の思い出は全くなかった。母は再婚し父が異なる妹がひとり生まれた。しかしその義理の父親もすぐに病死した。

この従兄は中学校を卒業すると同時に大阪に働きに出た。生まれ故郷に帰ってきたのは30歳近くになってからであった。そして結婚した。

いつだったか、この従兄が自分の妻と3人の娘を連れて私の実家を訪ねてきたことがある。そのとき5分ほどであったが立ち話をした。その際、その従兄は私に向かって次のようなことを言った。

「わしは子供のころひとりでさびしかったけんのう。ほんで子供を3人つくった。貧乏じゃけ3人の娘には何もしちゃれん。けんど親の愛情は子供に伝わるけんのう。」

こう話しながら、この従兄は自分の幼かりし昔を思い出したようであった。空を見やりながら心なしか涙ぐんでいるように見えた。

戦死した伯父の墓はわが家の墓地にある。この従兄は、私の家から10数キロ離れた、別の墓地に埋葬された。従兄の娘たちは県外に嫁いで皆ばらばらになった。従兄の母親はまだ存命。しかし従兄の母親が死ねば伯父の死を知る人は私の父親だけになる。私の父親の死とともに戦死した伯父の記憶はこの世から消え去る。永遠に。

2007年5月13日日曜日

グミ


グミのことを私の郷里では「しゃしゃぶ」とよぶ。私が高校を卒業する頃まで実家の庭先にグミの木が植えられていた。毎年、梅雨が明けた頃に真っ赤な実をつける。少し渋味はあったが、甘くて美味しかった。

私が高校を卒業し東京に出てきてからも夏が来るとしゃしゃぶのことをよく思い出した。しかしつい数年前まで東京でしゃしゃぶを見ることはなかった。何度か「しゃしゃぶを食べたい」と人に話したことはあったが、だれもしゃしゃぶを知る人はなかった。

私が東京でしゃしゃぶを見つけたのは偶然のことであった。職場の敷地のなかにある花屋さんで真っ赤な実をつけた鉢植えのしゃしゃぶが売られているのを通りすがりに見つけたのだ。その鉢には「グミ」という札がつけられていた。そのとき初めて、しゃしゃぶのことを東京ではグミとよぶことを知った。

しかしそのときは買いそびれた。その鉢植えのしゃしゃぶの木はいつの間にか店頭から消えてしまっていた。1年待って昨年の夏、やっと鉢植えのしゃしゃぶの木を手に入れた。そして自宅の庭に植え替えた。

一昨日の朝、出勤する際に、そのしゃしゃぶの木が3個の実をつけているのを見つけた。まだ青く、注意して見ないと見逃してしまう。しかしあと1か月もすればこれらの実は赤く熟し、私の目を楽しませてくれるに違いない。


2007年5月10日木曜日

海のマリー




北軽井沢の交差点から数百メートル北に行ったところに「海のマリー」という名のレストランがある。軽井沢に行った際には、よくこのレストランで昼食をとる。ここでは上品な老婦人がおいしい食事と暖かいもてなしで私たちを迎えてくれる。

この夫人のご主人に会ったこともある。二人はご主人の定年後にいま住む北軽井沢に移り住んだという。老婦人は自宅の広い庭で花を育てるのが楽しみだそうだ。ご主人は今も仕事を持ち、高崎で働いている。週末だけ北軽井沢の自宅に帰ってくるという。

先日の連休にこのレストランを訪れたときには、食事の後、大分から届いたばかりだという新緑茶を私たちにふるまってくれた。私は日本茶はほとんど飲まないが、ここでいただいたお茶は甘味があり風味も最高であった。料理はいつも薄味。四国で育った私は、この薄味にはほっとさせられる。

浮世を離れたような静かなこのレストランでこの老婦人と会話を交わしながらとる昼食は最高である。

2007年5月1日火曜日

久しぶりの飛鳥山公園


一昨日の日曜日は朝から快晴であった。昼食をすませた後、自転車に乗って息子と近くの飛鳥山公園に出かけた。息子と飛鳥山公園に行くのは3年ぶりであった。多くの家族連れで賑わっていた。

3年前の夏には、夜、ふたりでよく飛鳥山公園に行った。ほとんど人はいなかった。薄暗い公園のなかで二人っきりということも珍しくなかった。午後8時5分前になるとノクターンの音楽が流れ始める。そして午後8時ちょうどに公園内の照明が消える。それまで公園内にあるコンクリートの山に登ったり、すべり台を滑ったりして息子と遊んだ。

その頃、息子は小学校受験を目前に控えていた。息子に公園で遊ばせることによって少しでも息子の運動能力を高めること。父親である私ができることはそれぐらいしかなかった。

家内は息子がずっと幼い頃から小学校受験をさせる心づもりであったらしい。息子が3歳になったころから代官山の塾に週一回息子を連れていっていた。しかし家内は、私にはそれが塾であるとは言わなかった。ただ、幼児教育に優れたノウハウを持っているところとだけ行った。私も特に詳しく尋ねることはなかった。

息子に小学校受験をさせたいと家内が私に最初に言ったのは、受験の年の8月であった。私は驚いた。最初、私は反対した。しかし息子に小学校受験をさせるという家内の決意は固そうであった。すでに模擬試験も受けさせたという。しかしその模擬試験の成績はさんざんであったらしい。訊いてみると、何と27人中24番であったという。下から4番目だ。家内はひとりで頭を抱えていたようだ。通わせていた塾ではどうも学業は習っていなかったらしい。

私は「それは大物だ」と家内に言った。私のなかに変な闘志が湧いてきた。くだらぬ受験技術を身につけていない息子をそのまま伸ばし、試験に合格させてみたい・・・。私は家内に「もし縁があるなら合格するだろう。もし縁がなければどんなに能力があっても合格はしない。受験するだけさせてみてもいいのでは」と答えた。それから息子の本格的な「受験勉強」が始まった。

息子は目を見張るほど急激に成績を上げていった。試験の直前にはどの模擬試験でもトップクラスの成績をとるようになった。大人にも難しい問題をすらすらと解いていく息子の姿を見て、ひょっとしたら息子は学問で生きていくこともできるかもしれないと感じた。

わずか3か月間ではあったが、息子の受験勉強の期間中、私と一緒に毎晩のように飛鳥山公園に出かけてきたことを息子はまだ憶えている。