2019年7月28日日曜日

いじょう、もどらん

「いじょう、もどらん」は土佐弁である。「もどらん」は戻らない、帰らないという意味である。ただ、「いじょう」という副詞の持つニュアンスを正確に伝えるのは難しい。「いじょう」というのは「全然」という意味であるが、時間の概念を含んでいる。「いじょう、もどらん」には、例えば、誰それがどこそこに引っ越して以来、全く帰って来ないといったニュアンスが込められているのだ。

2019年5月12日日曜日

マスオさん

私は、留学から戻った1995年秋から数年間,家内の実家に住まわせてもらった。留学中に帰国後の住宅を探すのは、インターネットが発達していない当時は困難であったからである。生活が落ち着き次第、家内の実家を出るつもりであった。しかし家内の両親は思いの他、私を歓待してくれ、実の娘である家内とも一緒に暮らせる生活を喜んだ。家内の兄夫婦も一緒に住んでいたので、家内の両親は実の息子と娘家族と一緒に住むことになったわけである。家内の実家は5階建てのビルディングである。3階に義兄夫婦が、4階に義理の両親が、そして5階に私たち夫婦が住んだ。
 
私は、ただで家内の実家に住まわせてもらうのは申し訳ないと思い、ボーナス月である7月と12月に百万円ずつ両親に手渡した。つまり、毎年、二百万円を義理の両親に支払っていた。
 
 
年間二百万円の家賃が安いのか高いのか、それとも妥当であったのかはわからない。ただ、義理の両親は実の娘と一緒に住めることを心から喜んでいたので、家賃として支払った金額がたとえ少なすぎたとしても、義理の両親には不満はなかったのではないかと思う。
 
 ところが、私たちがただで家内の実家に住まわせてもらっていたと思い込んでいた人がいたという。そしてその人は私の義理の母親にそう言ったらしい。驚きである。その人は、「自分ならばお金を支払わない」と考えたのであろう。私たち夫婦は、少なくとも金銭に関しては潔癖な人生を送ってきた。ただで住めれば得であるといった発想は私たち夫婦にはない。
 

姉 10 お年玉

私と私の家族は、年末年始には毎年、高知に帰省した。正月には姉(池友子)の家族も実家を訪れてにぎやかな正月になった。私と私の家内は、小額ではあったが、姉(池友子)の4人の子供たちにお年玉をあげた。(当時、私たち夫婦にはまだ子がいなかった。)
 
ところが、私の家内が姉(池友子)にお年玉を手渡すと、姉(池友子)は次のように言ったことがあったという。「このお年玉は生活費に充てさせてもらう。」このことを聞いた私の家内は驚いたという。自分の子たちに対するお年玉まで取ってしまうのかと。
 
このことを私はまったく知らなかった。数年前に初めて家内からこのことを聞かされた。家内は他人の悪口をほとんどいわない。私の両親の件で私の家内は、姉(池友子)と姉(池友子)の長女からひどい目に遭わされてきた。私は私でぎりぎりまで私の家内に伏せていたことも数多くあったが、姉(池友子)との間で裁判が持ち上がったときには、それらを伏せておくことができなくなったので、家内に話した。家内も姉(池友子)について腹に据えかねていたことを私に話すようになった。
 
家内は、今、私が少しでも姉(池友子)と姉(池友子)の長女の話を持ち出すと、めまいと頭痛と吐き気がすると言う。

姉 9 無言電話

2013年7月28日の午後、姉(池友子)は私に3つの留守番メッセージを残した。このメッセージの内容は既に書いた。その晩、正確には2013年7月29日の早朝(1:30〜1:48)に姉から7回無言電話がかかってきた。かかってきた電話は業務に使っている電話であったので、夜中でもマナーモードには切り替えていなかった。
 
私の寝室は2階にある。私は既に眠っていたが、けたたましい音で鳴る電話の音で起こされた。最初は頭がぼーっとしておりすぐには反応できなかったが、両親に何事かが起きたのかも知れないと考え、階段を駆け降りた。そしてリビングに置いてあった携帯電話の受話器をとった。聞こえたのは姉(池友子)の息遣いであった。発信元は姉(池友子)の夫の携帯電話であった。2013年7月15日の晩、姉(池友子)が一方的に電話を切った後、姉(池友子)の長女からもあのように非常識な言葉を投げられたため、姉(池友子)の夫と何度か話をしていた。姉(池友子)は夫の携帯電話の記録を見て私と自分の夫とが連絡を取り合っているのを知り、あのような無言電話と留守番メッセージを残したのだろうと私は思った。
 
さて、私は受話器を取るや否や「もしもし、もしもし」と何度か呼びかけたが、姉(池友子)の息遣いが聞こえてきただけであった。私が何度呼びかけても姉(池友子)は返事を返さなかった。そして30秒ほどで電話は切れた。私が携帯電話を元の場所に置くと、また電話がかかってきた。このときは私が電話で応答しようとすると同時に電話が切れた。
 
私は、姉(池友子)がいやがらせで電話をかけてきているのであろうと思ってその晩は携帯電話をマナーモードに切り替えて2階の寝室に戻った。朝確認すると、全部で7回、姉(池友子)から電話が入っていた。私が応答したのは4回目であったことがわかった。
 
(姉(池友子)が私に留守番メッセージを残したのは無言電話の10時間ほど前であったが、私が姉(池友子)からの留守番メッセージに気づいたのは、その無言電話があった日の午後のことであった。つまり、無言電話を受けた日の午後に姉(池友子)からの留守番メッセージに気がついた。)
 
初回、4回目、7回目の姉(池友子)からの無言電話の記録を下に掲載しておく。姉(池友子)は裁判の場で、「不在着信」であったと主張した。しかし4回目の電話の表示を見れば、私が受話器を取っていたことがわかる。姉(池友子)は常に嘘をつく。姉(池友子)から嘘をとると姉(池友子)には何も残らないのではないかと最近は思うようになった。
 
 
 
 

姉 8 「三万円」 その2

2013年7月13日から15日まで帰省した際に姉(池友子)に3万円を返しそびれたことは既に書いた。私は姉弟の間でのことであるし、父親が入院した直後でもある、それに姉(池友子)と姉(池友子)の長女から母親との絶縁を告げられて姉(池友子)との関係がぎくしゃくもしているので、頃合いを見計らって姉(池友子)に金を返せばいいだろう程度に考えていた。
 
ところが姉(池友子)は、私に金を返してくれとは要求せず、なんと両親に返却を要求したのである。姉(池友子)から私の両親に宛てた絶縁状に、私に貸した3万円を返してくれと書いてきた。しかも従姉の一人に電話をかけては「幸伸が3万円を取っていって返さない」と言っていたという。私はこのことをこの従姉本人から聞いた。
 
私は大急ぎで姉(池友子)に現金書留で10万円を送った。借りた金は3万円であったが、実家の近くに住む姉(池友子)には両親の状態をたまには見に行ってもらうこともあろうかと思って多めに現金を包んだ。(この時点では、私は、ほんとうに姉(池友子)が両親との縁を切るとは思っていなかった。)しかし姉(池友子)からは金を受け取ったという連絡は来なかった。当然、礼状も届かなかった。
 
3万円貸しただけなのに10万円送ってもらってどうして私に礼を言わなかったのかと裁判の場で私の弁護士が姉(池友子)と姉(池友子)の姪に尋問した。これに対して姉(池友子)の長女(私の姪)は「おじちゃんが送ってきた現金書留封筒には現金が入っていただけでおじちゃんの添え書きがなかったから怖かった」と陳述した。加えて、「感謝状」であったと姉(池友子)と姉(池友子)の長女が主張する手紙のなかに私が借りた金を両親が私に代わって返してくれという記述があるのは礼状としては不適切な表現ではないかという私の弁護士からの尋問には一切答えなかった。姉(池友子)は、私から10万円送られてきた後、私が金を返したことを誰にも話さなかった。金を借りて返さないと言ってさんざん私を批判したくせに、私から多額の現金が送られたことには口をつぐんだ。
 
繰り返しになるが、「この母にこの娘あり」である。この母娘は、発言内容を節操なくどうとでも変える。

姉 7 「三万円」 その1

2013年6月30日に私は姉(池友子)から3万円借りた。結果的にはその3万円は使うことなく、そのまま東京に持って帰った。次に帰省した際にその金を姉(池友子)に返したかったが、2013年7月1日に母親と絶縁すると姉(池友子)と姉(池友子)の長女から言われていたのでなんとなく姉(池友子)の家を訪れるのが憂鬱であった。そのため2013年7月13日から15日まで帰省した際には姉(池友子)に連絡をとることも姉(池友子)の家を訪れることもしなかった。姉(池友子)から借りていた3万円もそのまま東京に持ち帰った。
 
その当時はまだ、父親とも縁を切るという話は姉(池友子)から聞かされていなかった。2013年7月13日から15日に帰省して私が最も気がかりであったのは、父親が所有する不動産の始末であった。元々農家であったわが家にはあちこちに田畑や山林があった。しかし私はそれらがどこにあるのか、ほとんどわからなかった。母親は慢性関節リウマチを長年患い、歩くことすらままならない。
 
私は高知から帰った2013年7月15日の晩に姉(池友子)に電話をかけた。そして、父親の不動産が欲しいかどうかを尋ねた。姉(池友子)は不動産は要らない。金だけ欲しいと言った。しかし身体の不自由な母親に不動産を相続させるわけにはいかない。父親の所有している田畑や山林はできるかぎり私が処分するが、父親が亡くなったときにもし不動産が残っていたならば、姉(池友子)と私の二人で折半しようと提案した。しかし姉(池友子)は、「要らないものは要らない」と言って、不動産を相続することを拒否した。私は「そんなことを言うても、身体の不自由な母親に不動産を相続させるわけにはいかんじゃいか」と声を荒立てた。そうしたら、姉(池友子)はがちゃっと一方的に電話を切った。
 
姉(池友子)は何か気に入らないことがあるといつも一方的に電話を切った。この日も、再度電話をかけても無駄であろうと思い,姉(池友子)の長女に電話をかけ、姉(池友子)との電話でのやり取りの概略を述べた。
 
すると、姪はいきなり「おばあちゃんは許さん」と怒り出した。その2週間前の2013年7月1日に姉(池友子)と姉(池友子)の長女から母親との縁切りを告げられていたが理由を知らなかったので、このとき姪になぜおばあちゃん(姪の祖母にあたる私の母親)を許せないのかを尋ねた。姪は「おばあちゃんは私のお母さんによりもおじちゃんに少し多めに遺産を残したい」と言った。だから許せないと怒り出したのだ。

姉 6「あなたたち家族の3人」

2013年7月28日に姉(池友子)が残した留守番メッセージの冒頭の「あなたたち家族の3人」は私と私の両親を指しているものとずっと私は思っていた。この「3人」が私と私の家内と私の一人息子を指していたことを知ったのは、2年後の母親の告別式の晩であった。
 
父親の葬儀には出なかった姉(池友子)が、なんと母親の葬儀には参列した。姉(池友子)ばかりではなかった。姉(池友子)の長女と次女、そして彼女達の子供たちも告別式に参列したのだ。しかし彼らは誰一人として親族席には座らなかった。一般席のしかも最後部に一列に並んで座った。私も私の親族も、親族席に座るようにと姉(池友子)に言ったが受け付けなかった。
 
告別式の喪主の挨拶で、私は母親が死ぬ間際まで姉(池友子)に会いたがっていたということを述べた。ところが、少し難聴気味である姉(池友子)は最後部に座ったこともあって私のスピーチが聞き取れなかったという。(事実かどうかは不明。)姉(池友子)が隣りに座っている娘達に尋ねると、娘達は私がさんざん姉(池友子)の悪口を言っていたと話したという。
 
愚かな娘達である。百歩譲って私が姉(池友子)を批判するスピーチをしていたとしても、姉(池友子)にそのスピーチが聞き取れなかったならば、そのようなことは伏せておけばいい。わざわざ話すことではない。ましてや私は、一言も姉(池友子)や姉(池友子)の家族を批判することは話していない。
 
「この母(池友子)にこの娘あり」である。
 
結果として、姉(池友子)は私のスピーチ内容に激怒したという。その晩、親戚に電話をかけてきた。そして電話に出た従姉に次のように言ったという。私と私の家内と息子が母親の財産を全部自分たちの名義に書き換えた。私の家内は「現金が好きだから」と。姉(池友子)の留守番電話の「あなたたち家族の3人」が私と私の両親ではなく、私と私の家内と息子を指していたことを知ったのはこのときであった。しかし、当時、まだ中学生であった私の息子までこれほど憎むとは、姉(池友子)は狂っている。
 
私が姉(池友子)や姉(池友子)の家族を批判するスピーチをしていないことは参列者全員が証言してくれた。繰り返しになるが、私は「母親は死ぬ間際まで実の娘である姉(池友子)に会いたがっておりました」と一言言っただけである。悪口でも何でもない。母親が姉(池友子)に対して最も告げたかったであろう言葉を私が代弁しただけである。どんなに姉(池友子)が母親を憎んでも、母親は実の娘に会いたくて仕方がなかったのだ。
 
父親が亡くなったとき、私は姉(池友子)に手紙を書いた。その手紙の最後に、私は姉(池友子)の病気を知っている。どんなに薬を飲んでもどんな宗教に帰依しても姉(池友子)の病気は治らないと書いた。この一文をとりあげて、姉(池友子)は姉(池友子)の病気の詳細を知っていたはずだと裁判の場で主張した。私が知るはずはない。私は姉(池友子)から不眠を訴えられたことはあるが、どのような病名で通院しているのかもどのような薬を服用しているのかも知らなかった。ただ、誰が見ても姉(池友子)が精神の病気をやんでいるのは明らかであった。その心の病の原因は姉(池友子)の心の持ち方に問題があることであると考えたため私はそう書いたのだ。
 
姉(池友子)は一度でもいいから母親の生前に病院を訪れるべきであった。そして実の娘が見舞いに来てくれ喜ぶ母親の笑顔を見ておくべきであった。その母親の笑顔を見ておけば、姉(池友子)の病気は治ったかもしれない。姉(池友子)の病気は、母親の死後、更に悪化したと人づてに聞いている。当然の結果である。