2016年6月24日金曜日

知覧 いのちの物語

さきほど鹿児島から帰ってきた。鹿児島空港で「知覧 いのちの物語」という本を買った。飛行機のなかで一気に読み終えた。本書は「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメ氏の生涯を描いた書である。涙なしには読めない。私の期待する日本人女性の理想像がここにあった。


2016年6月23日木曜日

2度目の知覧

昨日から鹿児島に来ている。きょうの午後、名古屋市立大学医学部の村上信五教授ご夫妻と3人で知覧に行った。知覧特攻記念館を訪れるのが目的であった。私は数年前に一度、同記念館に行ったことがあったが、村上教授ご夫妻は初めてということであった。

知覧からは20歳前後の多くの若者が特攻隊員として飛び立った。そして二度と戻ってくることはなかった。

記念館には、彼らの写真と彼らが家族に宛てた手紙が陳列されていた。手紙の中で彼らが最も訴えたかったのは、「死にたくない」という思いであったにちがいない。しかし手紙の中に綴られていたのは、両親への感謝の言葉と自分の妻や子、そして兄弟たちに対する別れの言葉だけであった。

母国のために特攻隊員の一人として恥ずかしくない最期を遂げるという決意も述べられてはいた。逃れることができない死。その死が目前に迫ったとき、自分の命を捨てることの意義を彼らはそこにしか見出せなかったのだろうと思う。

今の日本では、このような彼らの死に方は犬死であると言われるであろう。確かに犬死であったかもしれない。残された彼らの肉親の悲しみもどれほど深かったことか。

彼らの死に意味を持たせることは、今を生きる私たちの務めであろう。

記念館から出てきててとき、村上教授の奥様は涙ぐんでいた。村上教授も沈鬱な表情を浮べていた。

帰路の車の中で、村上教授の奥様が記念館から出てきたときに涙ぐんでいた理由を語った。特攻隊員たちとほぼ同年齢のご自身の子とが重なり合ったということであった。ご夫妻には、お嬢さんが一人、息子さんが一人いらっしゃる。奥様は、母親である奥様に息子さんが語った恋愛感と結婚感は男として情けないと嘆かれた。

しかし、国のために死んでいった特攻隊員を尊敬しつつも、周りから「卑怯」だとか「男らしくない」などとどんなに批判され侮蔑されても、我が子には彼らと同じ運命を歩ませたくないと思っているはずである。

私の父方の伯父は終戦の一か月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。この伯父の死は妻と生まれたばかりであった一人息子の人生を大きく狂わせた。

伯父の親である私の祖父母は、私が幼い頃は毎年、終戦記念日に高知市内で開かれた慰霊祭に参列した。私も祖父母についていった。そして見よう見まねで参列者たちと一緒に黙祷を捧げた。暑かったという記憶だけは今も鮮明に残っている。

しかし祖父母からその叔父の思い出話は聞いたことはない。息子である私の伯父を亡くした悲しみを祖父母は決して私に語ろうとはしなかった。

2016年6月16日木曜日

腕時計

数日前に息子の腕時計が見当たらなくなった。その腕時計が息子の布団の中から出てきた。腕時計を見つけた家内が「よかったー」と大声で喜んだ。

そのとき、私はしばらく書斎の小物入れのなかにしまったままになっていた父親の腕時計のことを思い出した。そしてその腕時計を慌てて探した。腕時計は窓際の小物入れのなかから見つかった。埃にまみれていた。そして止まっていた。十時ちょうどを指し示していた。

この腕時計は、父親が私の家に来たとき、私が腕にはめていたのを見て、「その腕時計をくれ」と言って、私がいいとも言わないのに勝手に実家に持って帰ったものであった。私が実家に帰ったときには、父親はいつもその時計を左手にはめていた。

3年前、父親が二度目の出血性脳梗塞で倒れた後、実家でその腕時計を見つけた私は、それを東京に持って帰った。その時には、それが間もなく数少ない父親の形見になろうとは思いも寄らなかった。

私は腕時計をウェットティッシュで丁寧に拭いた。そして書斎のテーブルの上に置いた。この時計は太陽光充電式である。明日の昼になれば、また父親が生きていたときのように再び時間を刻み始めるであろうか。


2016年6月11日土曜日

小林麻央の報道を耳にして

つい先日、患者の病室を訪れると、市川海老蔵氏の記者会見の模様がテレビで流されていた。海老蔵氏の妻である小林麻央さんが進行した乳がんと闘っているという。

私は、芸能人をほとんど知らない。「小林麻央」という名前すら耳にしたことがなかった。「海老蔵」という名前は時々耳にしていたが、フルネームは知らなかった。

テレビで流されている海老蔵氏の記者会見を聞きながら、私はある一人の女性のことを思い出していた。その女性は私が勤務する慶應病院の看護師であった。当時、30歳代前半であったと思う。耳鼻咽喉科外来によく手伝いに来てくれていた。しかし私は、彼女と会話を交わしたことはなかった。

彼女には3人の子がいた。そして4人目の子の妊娠初期に彼女が肺がんに侵されていることがことがわかった。しかし彼女は治療を拒否し4人目の子を出産した。4人目の子を生んだとき、担当医から、余命は11か月と宣告された。彼女は生まれたばかりの子を思い、「この子は母である私のことを覚えておいてくれない。この子には私の思い出が残らない」と言って身近の同僚に嘆いていたという。

まもなく彼女は病院から消えた。彼女がいなくなったあと、職場の誰も彼女のことを話題にすることはなかった。私も彼女について尋ねたことはない。おそらく彼女は出勤しなくなってから程なく亡くなったのであろう。

彼女の4人目の子は何歳になったであろうか。中学生にはなっているであろう。その子は、物心つく前になくなった自分の母親の写真を首にかけて毎日通学しているのかもしれない。

2016年1月23日土曜日

大崎瀬都 再び



きょう帰宅すると、一通の封筒が届いていた。差出人は「大崎瀬都」となっていた。私の高校時代の同期生である。 彼女は歌人として名が知られている。高校時代からすでに彼女は有名であった。彼女の歌は高校生向けの雑誌にしばしば掲載されていた。学生時代、私は彼女と一度も会話を交わしたことがなかったが、高校を卒業した後も長い間ずっと彼女の記憶は残っていた。

そんな彼女と初めて話したのは10年ほど前であった。高校の同窓会の二次会の席で彼女が歌集を出したことを聞き、同窓会に出席せず自宅にいた彼女にその場で電話をかけた。そして歌集を私に送ってくれないかと頼んだ。それが彼女との初めての会話であった。それ以来、彼女と年賀状のやりとりをするようになった。また、彼女は後に出版した2つの歌集も送ってきてくれた。今回のように新聞や雑誌に掲載された自分の歌も時々送ってくれる。 

きょう届いた封書には彼女の直筆の手紙が添えられていた。彼女は私のこのブログ「私と家族」を読んでくれていたらしい。その感想が書かれていた。 私はこのところ、「死」についてよく考える。彼女もそうらしい。彼女の手紙にはこう綴られていた。「自分の死を悲しんでくれる数人の人を大切にしようという思いを私も新たにしました。」 

3年前に父親が倒れて以来、私は高知と東京を往復する生活を続けた。真っ暗い時刻に家を出て羽田空港空港に向かい、始発便で高知に帰った。そして高知で両親を見舞ったり実家の片づけをしたり、銀行や市役所に出向いたり・・・。食事をする時間もとれないことが珍しくなかった。東京への帰りもいつも最終便であった。身体に堪えたばかりでなく、孤独な3年間であった。

あのように孤独な生活を送るのは初めてであった。しかしその3年間、多くの人たちが私を支えてくれた。私はその人たちの恩を生涯忘れないと思う。その一方で、私をなじったり罵倒したり陰口をたたく人も何人かいた。私のブログを読んで「あなたは最低の医師だ」というコメントを寄越してきた親戚もいた。しかし私のこのブログ(「私と家族」)には私の医師としての仕事については何も書いていない。また私は親戚とも実家のご近所の人たちとも医師として接したことはない。50年近くほとんど会話を交わしたことすらない親戚から「最低の医師」というコメントを送ってこられる理由は見つからない。私の人生のなかで最も辛い時期に何かにつけて私の足を引っ張った人のことも同様に、私は生涯忘れないであろう。その人たちとは今後、顔を合わせることも言葉を交わすことも手紙をやりとりすることもないであろうが。私にも刻一刻と死が近づいている。彼らにかかわる余裕はない。




2016年1月7日木曜日

思い出の写真 タイ・メイホンソー

正月から、撮りためた古いDVテープの映像をハードディスクに取り込んでいる。懐かしい思い出の場面ばかりである。写真は、息子が小学校一年の終わりの春(2006年3月)にタイのメイホンソーに行った際に撮影したビデオをキャプチャーしたものである。

2015年12月8日火曜日

母が亡くなって4か月

母親が亡くなって4か月経った。まだたったの4か月か、というのが実感である。 昨夜、中学校・高校時代の友人2人と会食しながら夜遅くまで語り合ったが、話題は実家をどうやって管理していくか、先祖代々の墓をどうするか、定年後にどこでどうやって暮らすかといったことが主たる話題であった。還暦が近くなると、話題はこんなことに集中する。 こんな話の合間に、自分たちが幼かった時代の思い出話も出る。一人の友人は、毎日毎日、かぼちゃばかり食べさせられて辛かった思い出を語った。「もう食べられない」と母親に言ったところ、「なら、もうつくらん」と言われたということであった。「今になると母親の気持ちがよくわかる」と彼は言った。。私にも似た思い出があった。大きな土鍋に山のようなわらび。そのわらびがなくなるまで、おかずは毎日そのわらびであった。「もう、いや」と私は涙ぐんだことがあった。そのとき母親はじっと下を向いて黙った。しかし、他のおかずを用意してくれることはなく、母親は黙々とそのわらびを口に入れて食事を続けた。タケノコの季節には、おかずは毎日タケノコになった。 我が家だけが貧しかったわけではなかった。時代が貧しかったのだ。 私の実家は、私が小学校3年生になるまで藁葺き屋根のあばらやであった。柱は虫に食われて穴だらけ。地震が起きると屋根が大きく揺れた。夏になると大きな蛇が家の中をよく這っていた。ムカデに咬まれたこともあった。高知は毎年必ず台風に襲われる。台風が近づくと我が家はミシミシと音を立てた。家が倒れる恐れがあると思われたときには、隣の家に避難させてもらったこともあった。 こんな貧乏生活から抜け出そうと、両親は懸命に働いた。そして父親が33歳の時に実家の隣のミカン畑に新しく家を建てた。その家が完成したのは私が小学校3年生のときの夏であった。落成式の前日、私と私の姉はほぼできあがった新しい家の床の間に布団を敷いてもらって二人だけでそこに寝た。藁葺き屋根の家は私たちが新しい家に引っ越してからしばらくして壊された。そして数年後にはその土地に倉庫が建てられた。 晩年、両親は金に不自由することはなかった。都会の基準では大した財産ではないが、それでも親族の中では一番裕福であったと思う。しかし両親は決して派手な生活をしなかった。年老いた二人だけの生活に対する不安が強かったのだと思う。また、周囲からの嫉妬も恐れていたように感じる。土佐弁では嫉妬のことを「しょのみ」という。妬むことを「しょのむ」と表現する。両親、特に父親は周囲からしょのまれることを警戒していた。 残念なことに、両親とも貯めた財産を使うことなく亡くなった。