つい数日前のことである。昼休みに職場で立ち話をした女性の知人から彼女の友人の縁談のお世話を頼まれた。一人は35歳の女性。以前はスチュワーデスであったが、今は外資系の企業の役員秘書をしているという。もう一人は31歳。現役のスチュワーデス。二人とも仕事の性質上海外経験が多いので、相手の男性も商社マンか医師がいいという。
その晩、私は早速心当たりを探してみた。2人の男性を知人に紹介してもらった。ただ、その2人の男性の性格や社会的ステータスを考えると、まず女性の側から身上書を預かった方が適切だと考えた。私自身もそれらの女性とは面識がないのだ。そこで私に紹介を依頼した女性にその旨を伝えた。
ところが、ところが、である。彼女が返してきた言葉は私をびっくり仰天させるものであった。その男性たちの写真を見せろと彼女は私に言ったのだ。彼女自身も以前はスチュワーデスであったが、彼女の価値も推して知るべし。今の30代女性の異常感覚を垣間みた気がした。
2人の独身女性は社会的に高いステータスの男性を結婚相手として望んでいるという。ならば、自分自身がどれだけ社会的マナーを身につけ教養があるのかをまず示すのが先であろう。そして彼女たちが「ステータスが高い」と思う男性とつりあうだけの価値を持った女性であることをアピールすべきであろう。彼女たちは社会に出て既に10年あるいはそれ以上経っているのだ。その間の人間的な成長を証明するひとつの手段として私は彼女たちに身上書を渡してくれるようにと依頼したのだ。しかし私が知りたいのは、身上書に書かれた彼女たちの学歴でも、家柄でも、職業でも、年収でもない。「今の」彼女たちの真の価値だ。身上書を巡るやりとりのなかで見える彼女たちの人柄や教養、マナー、そして価値観である。加えて、彼女たちに紹介しようと考えている2人の男性から私は独身女性の紹介を頼まれたわけでもない。私の側からその2人の男性にお願いしなければならないのだ。私とすら面識がない縁談を依頼してきた女性側が身上書も提出しないまま、逆に男性の写真をまず見せろという感覚が私には理解できない。いや、そんな非常識を理解しようとも思わない。
世の男性よ、職業や肩書きでしか男の価値を測れない女性を叱れ!
2008年4月12日土曜日
文旦
文旦は土佐の特産品だ。毎年2月か3月になると高知に住む両親からこの文旦が送られてくる。家内も息子もこの文旦が大好きで、私が職場から帰宅するたびに文旦が1個2個と減っており、私はほとんど口にできないままなくなってしまう。
3年前からは中学・高校時代の友人も毎年文旦を送ってくれる。彼が送ってくれる文旦は彼の自宅で栽培している文旦だ。少し皮は厚いが味は最高。それに無農薬。あまりに美味しいので、今年は日頃お世話になっている方々にも送ってもらった。
ただ、彼からこの文旦が届くたびに私は少し寂しい気分に捕われる。彼のお母様が交通事故で急死したとの連絡を受けた晩のことを思い出すからだ。
彼のお母様は3年前に亡くなった。亡くなるその日、お母様はお父様が運転する車の助手席に乗って高知市内に買い物に出かけた。事故が起きたのはその帰り道であった。運転中、お父様の運転する車がセンターラインをオーバーし対向車と正面衝突した。私の実家から3キロほど離れた場所であった。お母様は即死。お父様も重傷を負った。いまも自由には動けない身である。
お母様が亡くなったことを入院中の病院で知った彼のお父様は嘆き悲しみ、「自殺したい」とベッドで泣き叫んだという。彼は1か月間ほどお父様につきっきりであった。彼から電話を受けたのは事故から数日後であった。夜10時頃、暗くなった病院の片隅から電話をかけてきた。
彼は冷静に事故の模様を私に語った。そして、父親は急に目の前が真っ暗になったと言っている。それは嘘ではないと思われるが、そのようなことがなぜ起きたのか医学的に説明できないかと私に尋ねた。彼のお父様は不整脈があった。私は、医師の立場から私の推察を述べた。私が述べたことも少しは役立ったのであろうか。彼のお父様は不起訴処分になった。
お母様が亡くなって以来、彼は2週間に1回、週末を利用して名古屋から高知に帰る。そして身体の不自由なお父様を介護するとともに農作業をする。この週末も彼は高知で農作業をしているというメールを昨日彼から受け取った。
彼からはたびたびメールをもらうが、いつも母親を失った悲しみが溢れている。高知空港に降り立つと彼は母親の死から3年経った今も寂しくて仕方がなくなるという。「もんたかえ」(帰ったかね)と言って出迎えてくれるご両親の姿がないからだ。彼はバスや汽車を乗り継いで空港から一人で自宅に向かう。
私の母親は慢性関節リウマチと骨粗鬆症があり、自宅で転倒してからは腰痛のため歩くことができない。そんな母親を父親が介護している。そうであっても両親が揃っている私がうらやましいと彼は言う。
「俺は一生親孝行をするぞ!」
以前彼からもらったメールにはそう書かれていた。彼の2人のお嬢さんは今年揃って就職した。あと一人ご長男が独立できるめどが立てば、現在勤めている会社を辞めて高知の実家に帰るという。お父様の面倒をみるためである。
彼から私の自宅に文旦が届けられるたびに家内と息子は喜ぶ。それは彼も望んでいることであろう。しかし私の心情はそう単純ではない。ただ、私は私の悲しみを自分の家族に知ってもらいたいとも理解してもらいたいとも思わない。家族にはただ文旦の味覚を楽しんでもらえればいい。
3年前からは中学・高校時代の友人も毎年文旦を送ってくれる。彼が送ってくれる文旦は彼の自宅で栽培している文旦だ。少し皮は厚いが味は最高。それに無農薬。あまりに美味しいので、今年は日頃お世話になっている方々にも送ってもらった。
ただ、彼からこの文旦が届くたびに私は少し寂しい気分に捕われる。彼のお母様が交通事故で急死したとの連絡を受けた晩のことを思い出すからだ。
彼のお母様は3年前に亡くなった。亡くなるその日、お母様はお父様が運転する車の助手席に乗って高知市内に買い物に出かけた。事故が起きたのはその帰り道であった。運転中、お父様の運転する車がセンターラインをオーバーし対向車と正面衝突した。私の実家から3キロほど離れた場所であった。お母様は即死。お父様も重傷を負った。いまも自由には動けない身である。
お母様が亡くなったことを入院中の病院で知った彼のお父様は嘆き悲しみ、「自殺したい」とベッドで泣き叫んだという。彼は1か月間ほどお父様につきっきりであった。彼から電話を受けたのは事故から数日後であった。夜10時頃、暗くなった病院の片隅から電話をかけてきた。
彼は冷静に事故の模様を私に語った。そして、父親は急に目の前が真っ暗になったと言っている。それは嘘ではないと思われるが、そのようなことがなぜ起きたのか医学的に説明できないかと私に尋ねた。彼のお父様は不整脈があった。私は、医師の立場から私の推察を述べた。私が述べたことも少しは役立ったのであろうか。彼のお父様は不起訴処分になった。
お母様が亡くなって以来、彼は2週間に1回、週末を利用して名古屋から高知に帰る。そして身体の不自由なお父様を介護するとともに農作業をする。この週末も彼は高知で農作業をしているというメールを昨日彼から受け取った。
彼からはたびたびメールをもらうが、いつも母親を失った悲しみが溢れている。高知空港に降り立つと彼は母親の死から3年経った今も寂しくて仕方がなくなるという。「もんたかえ」(帰ったかね)と言って出迎えてくれるご両親の姿がないからだ。彼はバスや汽車を乗り継いで空港から一人で自宅に向かう。
私の母親は慢性関節リウマチと骨粗鬆症があり、自宅で転倒してからは腰痛のため歩くことができない。そんな母親を父親が介護している。そうであっても両親が揃っている私がうらやましいと彼は言う。
「俺は一生親孝行をするぞ!」
以前彼からもらったメールにはそう書かれていた。彼の2人のお嬢さんは今年揃って就職した。あと一人ご長男が独立できるめどが立てば、現在勤めている会社を辞めて高知の実家に帰るという。お父様の面倒をみるためである。
彼から私の自宅に文旦が届けられるたびに家内と息子は喜ぶ。それは彼も望んでいることであろう。しかし私の心情はそう単純ではない。ただ、私は私の悲しみを自分の家族に知ってもらいたいとも理解してもらいたいとも思わない。家族にはただ文旦の味覚を楽しんでもらえればいい。
2008年3月23日日曜日
恥ずかしい記憶
誰でもひとつやふたつ二度と思い出したくない恥ずかしい記憶があるであろう。これから私が書こうとしていることもそんな思い出である。
私の医師1年目のことであった。研修医になったばかりの私を大先輩(当時、専任講師)が食事に連れて行ってくれた。場所は記憶にないが居酒屋風の店であった。ただし案内されたのは個室(座敷)であった。
その大先輩と私と2人で食事するわけではないことを席に着いたあと私は初めて聞かされた。私たちが雑談を交わしながらお酒を飲み始めた直後、ふすまがすっと開き、2人の女性が現れた。一人は年齢50歳程度、もう一人はうら若い色白の女性であった。その若い女性は鮮やかなブルーのスーツを着ていた。(彼女はブーツを履いていたので、この出来事は秋頃のことであったのかもしれない。)黒髪の美しい色白の美人であった。当時まだうぶであった私はまばゆいばかりのその美しさにどぎまぎしたのであろう、彼女を顔を正視することができなかった。したがって面長で色白の美人という印象しか残っていない。
その若い女性は私と同じ病院に勤務する薬剤師であるということであった。そして50歳前後と思われた女性は彼女の上司であった。私の大先輩とは親友であるらしかった。
その若い女性と私とはほとんど聞き役であった。彼女を意識したという理由だけではなかったが、緊張して私はほとんど口を開くことがなかった。彼女も同様にじっと大先輩2人の話に耳を傾けていた。私の大先輩と彼女の上司とはずっと前からの知人であったようだ。実に楽しそうに話をしていた。が...。
毎日忙しい研修医生活を送っていた私は少しお酒が入ったこともあって急に睡魔に襲われた。そしていつしか眠ってしまった。
「おい、起きろ! 帰るぞ」
という大先輩の声で私は目覚めた。1時間以上眠っていたのであろうか。
ところがである。私はなんと口角から少し涎を垂らしていたのだ。気づかない振りをしながら手でその涎を拭った。その若い女性は気づいてか気づかずか私の方をじっと見ることはなかった。表情も変えなかった。しかしすでに後の祭りであった。
いま振り返ると、あれはやはり非公式なお見合いであったと思う。
「私の部下にとてもいいお嬢さんがいるんだけど、お婿さんに誰かいい男性はいない?」
「おお、そうか。じゃあ、今度食事するときにうちの若いのをひとり連れて行くよ」
そんな話のなかでセッティングされた場であったに違いない。
上品でスタイルのいいうら若い女性。そして鮮やかなブルーのスーツ。今も鮮明に記憶に残っている。
これらと私の涎とを結びつけるものは単に単に恥ずかしさだけである。懺悔
(この話はすべて事実である。作り話ではない。またこの話に出てくる大先輩は後々まで私をかわいがってくれた。この大先輩は私の留学中に亡くなった。15年前のことである。留学前にこの大先輩の病室を訪れたとき、倒れる直前にこの大先輩が私のことをとても心配してくださっていたことを奥様から聞かされた。その話を聞き、私は病室の前の廊下で泣き崩れた。大粒の涙を流しながら大声で泣いた。奥様もいっしょに泣いていた。生涯忘れることのできない悲しい出来事であった。私がこの大先輩の墓参にでかけたのは3周忌のときであった。私はかけがえのない心の支えを失ったことに気づかされた。大きな支えを失ったのは奥様だけではなかった。)
私の医師1年目のことであった。研修医になったばかりの私を大先輩(当時、専任講師)が食事に連れて行ってくれた。場所は記憶にないが居酒屋風の店であった。ただし案内されたのは個室(座敷)であった。
その大先輩と私と2人で食事するわけではないことを席に着いたあと私は初めて聞かされた。私たちが雑談を交わしながらお酒を飲み始めた直後、ふすまがすっと開き、2人の女性が現れた。一人は年齢50歳程度、もう一人はうら若い色白の女性であった。その若い女性は鮮やかなブルーのスーツを着ていた。(彼女はブーツを履いていたので、この出来事は秋頃のことであったのかもしれない。)黒髪の美しい色白の美人であった。当時まだうぶであった私はまばゆいばかりのその美しさにどぎまぎしたのであろう、彼女を顔を正視することができなかった。したがって面長で色白の美人という印象しか残っていない。
その若い女性は私と同じ病院に勤務する薬剤師であるということであった。そして50歳前後と思われた女性は彼女の上司であった。私の大先輩とは親友であるらしかった。
その若い女性と私とはほとんど聞き役であった。彼女を意識したという理由だけではなかったが、緊張して私はほとんど口を開くことがなかった。彼女も同様にじっと大先輩2人の話に耳を傾けていた。私の大先輩と彼女の上司とはずっと前からの知人であったようだ。実に楽しそうに話をしていた。が...。
毎日忙しい研修医生活を送っていた私は少しお酒が入ったこともあって急に睡魔に襲われた。そしていつしか眠ってしまった。
「おい、起きろ! 帰るぞ」
という大先輩の声で私は目覚めた。1時間以上眠っていたのであろうか。
ところがである。私はなんと口角から少し涎を垂らしていたのだ。気づかない振りをしながら手でその涎を拭った。その若い女性は気づいてか気づかずか私の方をじっと見ることはなかった。表情も変えなかった。しかしすでに後の祭りであった。
いま振り返ると、あれはやはり非公式なお見合いであったと思う。
「私の部下にとてもいいお嬢さんがいるんだけど、お婿さんに誰かいい男性はいない?」
「おお、そうか。じゃあ、今度食事するときにうちの若いのをひとり連れて行くよ」
そんな話のなかでセッティングされた場であったに違いない。
上品でスタイルのいいうら若い女性。そして鮮やかなブルーのスーツ。今も鮮明に記憶に残っている。
これらと私の涎とを結びつけるものは単に単に恥ずかしさだけである。懺悔
(この話はすべて事実である。作り話ではない。またこの話に出てくる大先輩は後々まで私をかわいがってくれた。この大先輩は私の留学中に亡くなった。15年前のことである。留学前にこの大先輩の病室を訪れたとき、倒れる直前にこの大先輩が私のことをとても心配してくださっていたことを奥様から聞かされた。その話を聞き、私は病室の前の廊下で泣き崩れた。大粒の涙を流しながら大声で泣いた。奥様もいっしょに泣いていた。生涯忘れることのできない悲しい出来事であった。私がこの大先輩の墓参にでかけたのは3周忌のときであった。私はかけがえのない心の支えを失ったことに気づかされた。大きな支えを失ったのは奥様だけではなかった。)
2008年3月22日土曜日
バレンタインデー
私の年齢の多くの男性ににとってバレンタインデーはもはや興味の対象ではないであろう。私も当事者としてバレンタインデーに興味を持つことはない。しかし第三者としては興味がないことはない。
女性が自分の恋心を男性に告白する日。その恋心と一緒に男性に贈るチョコレートは「ラブチョコ」と呼ばれる。(「ラブチョコ」などという言葉は聞いたことがないとついさっき知人から叱られてしまったが。)
私の高校時代、女性に実によくもてる男が何人かいた。バレンタインデーに彼らはいろいろな女性から籠一杯のラブチョコをもらい、重そうに抱えながら自宅に持って帰っていた。なかには、食べきれないからと、もらったチョコレートをクラスメートに分け与えている者もいた。当の私は、中学・高校の6年間の間に一個たりともラブチョコなるものをもらったことがない。
高校2年生のときであったと思う。バレンタインデーの日の午後のこと。私は校舎と校舎とをつなぐ渡り廊下にぼんやりと立っていた。すると、ある女性が恥ずかしそうに私に近寄ってきた。彼女はしばらくの間もじもじしていた。私は何のことかわからない。彼女はしょうがないと意を決したのか、申し訳なさそうな表情を浮かべながら次のように私に言った。
「あの、ちょこっとこの場所を空けてくれますか。」
ふと左側を振り向くと私に背を向けながひとりの男が立っていた。クラスメートであった。元の方向に視線を戻すと彼女の数メートル後方に別の女性が真っ赤に顔を染めて恥ずかしそうに立っているのが目に入った。私のすぐ目の前に立っている女性は、自分の女友だちのために今回の仲介役を果たそうとしていたのだ。やっと私にも事情が理解できた。
私は「すみませんでした」と言っていそいそとその場を立ち去った。立ち去り際にちらっと後方を振り向くと、赤面し恥ずかしそうにしながら彼女は私のクラスメートにチョコレートの箱を渡していた。彼がその日受け取ったチョコレートは紛れもなくラブチョコであった。しかし彼女とは対照的に彼は全く無表情であった。
女性が自分の恋心を男性に告白する日。その恋心と一緒に男性に贈るチョコレートは「ラブチョコ」と呼ばれる。(「ラブチョコ」などという言葉は聞いたことがないとついさっき知人から叱られてしまったが。)
私の高校時代、女性に実によくもてる男が何人かいた。バレンタインデーに彼らはいろいろな女性から籠一杯のラブチョコをもらい、重そうに抱えながら自宅に持って帰っていた。なかには、食べきれないからと、もらったチョコレートをクラスメートに分け与えている者もいた。当の私は、中学・高校の6年間の間に一個たりともラブチョコなるものをもらったことがない。
高校2年生のときであったと思う。バレンタインデーの日の午後のこと。私は校舎と校舎とをつなぐ渡り廊下にぼんやりと立っていた。すると、ある女性が恥ずかしそうに私に近寄ってきた。彼女はしばらくの間もじもじしていた。私は何のことかわからない。彼女はしょうがないと意を決したのか、申し訳なさそうな表情を浮かべながら次のように私に言った。
「あの、ちょこっとこの場所を空けてくれますか。」
ふと左側を振り向くと私に背を向けながひとりの男が立っていた。クラスメートであった。元の方向に視線を戻すと彼女の数メートル後方に別の女性が真っ赤に顔を染めて恥ずかしそうに立っているのが目に入った。私のすぐ目の前に立っている女性は、自分の女友だちのために今回の仲介役を果たそうとしていたのだ。やっと私にも事情が理解できた。
私は「すみませんでした」と言っていそいそとその場を立ち去った。立ち去り際にちらっと後方を振り向くと、赤面し恥ずかしそうにしながら彼女は私のクラスメートにチョコレートの箱を渡していた。彼がその日受け取ったチョコレートは紛れもなくラブチョコであった。しかし彼女とは対照的に彼は全く無表情であった。
私のクラスメートとその女性とのつきあいがそれをきっかけとして始まったという話は私の耳には入らず終いであった。私から誰かにふたりの関係について尋ねることもなかった。そのクラスメートは女性によくもてた。女性はクラスが違ったが、彼女も男子生徒にとても人気があった。したがって私にはふたりが結び合っていかないのが不思議であった。だが、いずれにしろ私からは遠い世界のできごとであった。当時の私にとってはふたりの関係がどうなろうと羨望の対象にも嫉妬の対象にもなりようがなかった。
この出来事は今も鮮明な記憶として残っている。このことを思い出すたびに私は今でもただただ恥ずかしくなるばかりである。たとえ偶然とはいえ、ふたりの「密会」の場所に出くわしてしまったのだ。土足で他人の家に上がり込んだようなものである。
この出来事は今も鮮明な記憶として残っている。このことを思い出すたびに私は今でもただただ恥ずかしくなるばかりである。たとえ偶然とはいえ、ふたりの「密会」の場所に出くわしてしまったのだ。土足で他人の家に上がり込んだようなものである。
2008年3月1日土曜日
終業式の季節
きょうは土曜日である。しかし息子は昼前に学校にでかけるという。午後1時から開かれる算数の公開授業に参加するらしい。この授業を担当するのは算数を教えてくださっている坪田先生だと聞いた。坪田先生という名前を私は初めて耳にした。この先生は教育界では算数の教育者として名を知らない人はいないらしい。この坪田先生が今年を最後に定年退職される。きょう開かれるのはその記念授業なのだという。
なぜ息子のクラスが記念授業の対象に選ばれたたのか私は知らない。しかし家内は、息子のクラスは算数がよくできるからだと勝手に思い込んでいるようだ。
確かに息子は算数がよくできる。息子はまだ3年生であるが私は計算能力ではもうかなわない。息子の算数の宿題は私よりも息子の方が早く解ける。
先日、「ジャマイカ」という算数のゲームを息子とやってみたが、私はほとんど勝つことができなかった。先日、8対1で4年生を負かしたと聞いたが、確かにそうだろうと思った。数字が表示されるとたちどころに息子は答えを見つける。私は何分もかかる。
3年間のうちに心身ともに大きく成長した息子の姿は、まだ幼くひ弱だった小学校入学の頃の面影をほとんど残さない。
写真は、息子の小学校入学式の当日撮影したものである。校庭には桜の花びらが舞い散っていた。
2008年2月27日水曜日
ふとしたこと
ずっと昔の何でもない出来事をふと思い出すことがある。これから書こうとしていることも、そんな些細なできごとである。
息子が1歳になるかならないかの頃、国際学会に出席するために家族でイタリアにでかけた。その帰りの飛行機のなかでのできごと。
飛行機の離陸が大幅に遅れた。予定出発時刻から1時間経っても離陸の目処が立たなかった。まだ幼い息子はじっとしていられなくなり、ぐずり始めた。そして「キーッ」という奇声をあげだした。私たちはなんとか息子をあやそうとしたが、完全には静まらない。
そんなとき、機内のチーフパーサーが私たちの座席に寄ってきた。日本人男性であった。そして私たちにこう尋ねた。
「お子様は飛行機への搭乗に慣れていらっしゃらないのですか?」
チーフパーサーとすれば精いっぱいの注意だったのであろう。しかし1歳になるかならないかの子供が飛行機に乗ることに慣れているはずがないではないか。ましてやいつ動き出すともしれない狭い機内で赤子にじっとしていろというのは無理ではないか。
私たちはそのチーフパーサーに対して謝った。しかし謝ってはみたものの、どうすればいいのか、私たちにはわからなかった。
運良くそれから程なく飛行機は動き出した。それとともに息子も静かになり、いつの間にか眠ってしまった。成田空港に着くまでの間、息子はほとんどずっと眠っていた。
「お子様は飛行機への搭乗に慣れていらっしゃらないのですか?」
この言葉をいま思い出しても、どう答えればいいのか私にはわからない。
2008年2月11日月曜日
「海に向かへば」について
以前、「海に向かへば」というタイトルのブログを書いた。このブログを読んでくださった方から「この本が欲しいが絶版になっている。著者に連絡し自宅に在庫があるとの連絡をもらったが、その後、連絡が途絶えた」とのコメントをいただいた。
この方はコメントの中にご自身のメールアドレスを書いてくださっていた。私は教えていただいたメールアドレス宛にこのコメントに対するお返事を出した。しかしこのメールアドレスは間違っていたようだ。私がお送りしたメールは戻ってきてしまった。
ご本人のプライバシーを保護するためにこの方のコメントは公開できないが、もしこのコメントを書いてくださった方がこのブログをお読みになったら、私宛に再度ご連絡をいただきたい。
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