私の息子は9歳であるが、息子が生まれてこの方、私たち夫婦は息子にお年玉をあげたことがない。息子からお年玉をせがまれたことはないし、私たち夫婦の間で息子にお年玉をあげようかどうしようかと話し合ったこともない。
もちろん、私たちからお年玉をもらわなくても、息子にお年玉をくれる人はいる。私の両親、家内の母(義父はすでに他界)、そして私の実家の近所に住む人たちである。私たちは帰省すると必ず実家の近所を挨拶廻りする。田舎のしきたりといえばそうであるが、年老いた両親が平素お世話になっていることへの率直な感謝の気持ちを伝えなくてはならないという思いもある。
例年、私と息子とふたりで手土産を持って挨拶廻りするのである。しかし今年の正月は息子が率先して挨拶に行ってくれた。何軒かにはひとりででかけた。残りの家には私の父がついていった。
どちらかといえば引っ込み思案の息子が挨拶回りに元気よく出かけていくわけはお年玉目当てではないだろうかと私たち夫婦は苦笑いしながら話し合った。息子は何も言わなかったが、確かにそうであったかもしれない。実際、息子が訪れたほとんどの家から息子はお年玉をいただいて帰った。私は、ご近所に申し訳ないと思った。
しかし家内は、それほど気を遣う必要はないのではないかと言った。私たちは息子が生まれるずっと前から年始のご挨拶を欠かしたことがなかったからである。
昨年7月からずっと我が家の食後の皿洗いは息子がしている。1日50円である。今年3月に遠足に行くのに必要な6千円をクラス全員が自宅で手伝いをすることによって貯めることに決まったと聞いた。すでに6千円以上貯まったが、息子はまだ皿洗いを続けている。家内が床についた後、黙々と一人で流し台の前に立って皿洗いをしている息子の姿は微笑ましい。
生まれてこの方、私たち親からお年玉をもらったことのない息子は、お年玉は両親からもらうものではないと思い込んでいるのかもしれない。それならそれで結構なことだ。
2008年1月12日土曜日
「親の心、子知らず」は悪いことか
「親の心、子知らず」、「子を持って初めて親の心を知る」、「後悔先に立たず」といった表現は子の親不孝を諌める言葉である。私自身もこれまで長い間、子である私が自分の両親の私に対する愛情や心配を理解できない「親不孝者」であった。そして常にこのことに対して罪悪感を抱いてきた。しかし自分自身が親の介護をしなくてはいけないようになってからは、「親の心、子知らず」は逆にいいことではないかと思うようになった。
人は死ぬ。ほとんどの場合、親が子よりも先に死ぬ。もし親の死が子の死と同程度あるいは子の死よりも悲しいことであったとしたらどうなるのであろう。ほとんどの人の人生は悲嘆に満ちたものとなるであろう。そればかりではない。子を持ちたいという欲求も衰え、人類は滅亡へと向かうに違いない。
「親の心、子知らず」はある程度、必要悪なのであろう。
人は死ぬ。ほとんどの場合、親が子よりも先に死ぬ。もし親の死が子の死と同程度あるいは子の死よりも悲しいことであったとしたらどうなるのであろう。ほとんどの人の人生は悲嘆に満ちたものとなるであろう。そればかりではない。子を持ちたいという欲求も衰え、人類は滅亡へと向かうに違いない。
「親の心、子知らず」はある程度、必要悪なのであろう。
2007年12月22日土曜日
豊国廟
高台寺を訪れた翌日、豊国廟に行った。ここには豊臣秀吉が眠る。長い間、私は秀吉の墓はどこにあるのだろうと思っていた。私が秀吉の墓石の写真を初めて見たのは2年ほど前であった。本屋で歴史雑誌を立ち読みしている際に偶然その写真を見つけた。
「なんて小さいのだろう、なんて寂しいのだろう」というのが私の第一印象であった。その日以来、京都を訪れる機会があれば何としてでも秀吉の霊廟を見てみたいと思うようになった。
秀吉の墓は小高い山の頂上にあった。階段はちょうど500段。ぽつんと秀吉の墓石だけが建っていた。ただし、墓石は写真から想像していたよりもかなり大きかった。私が墓石のまわりをうろついているともう一人の訪問者が坂を登ってきた。しかしここを訪れる人は少ない。帰りに階段を下りる際にもうひとりの訪問客とすれちがっただけであった。
階段を下りきった山のすそ野には女子大がある。華やかである。その華やかな喧騒からほんの少ししか離れていない場所にひっそりと秀吉は眠っている。その女子大に通っている学生すら、すぐ側に秀吉の墓があるとは知らないのだろう。
地元の人に尋ねると、秀吉の霊廟である豊国廟の他に、豊国寺と豊国神社とがあるという。秀吉の死後、徳川家康は豊臣家の財力を削ぐために神社仏閣への機寄進を盛んに勧めた。豊国寺も豊臣家からの寄進によって建てられた。この豊国寺の釣鐘に「国家安康」の文字が刻まれていたことをめぐって豊臣家と徳川家との間でいざこざが生じた。「国家安康」のなかの「家」と「康」とが裂かれていると徳川家康が豊臣家に因縁をつけたのだ。まさに因縁そのものである。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
秀吉の有名な辞世の句である。
「なんて小さいのだろう、なんて寂しいのだろう」というのが私の第一印象であった。その日以来、京都を訪れる機会があれば何としてでも秀吉の霊廟を見てみたいと思うようになった。
秀吉の墓は小高い山の頂上にあった。階段はちょうど500段。ぽつんと秀吉の墓石だけが建っていた。ただし、墓石は写真から想像していたよりもかなり大きかった。私が墓石のまわりをうろついているともう一人の訪問者が坂を登ってきた。しかしここを訪れる人は少ない。帰りに階段を下りる際にもうひとりの訪問客とすれちがっただけであった。
階段を下りきった山のすそ野には女子大がある。華やかである。その華やかな喧騒からほんの少ししか離れていない場所にひっそりと秀吉は眠っている。その女子大に通っている学生すら、すぐ側に秀吉の墓があるとは知らないのだろう。
地元の人に尋ねると、秀吉の霊廟である豊国廟の他に、豊国寺と豊国神社とがあるという。秀吉の死後、徳川家康は豊臣家の財力を削ぐために神社仏閣への機寄進を盛んに勧めた。豊国寺も豊臣家からの寄進によって建てられた。この豊国寺の釣鐘に「国家安康」の文字が刻まれていたことをめぐって豊臣家と徳川家との間でいざこざが生じた。「国家安康」のなかの「家」と「康」とが裂かれていると徳川家康が豊臣家に因縁をつけたのだ。まさに因縁そのものである。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
秀吉の有名な辞世の句である。
2007年11月25日日曜日
海に向かへば
私の書斎の書架には1冊の歌集が立っている。「海に向かへば」という表題がつけられている(出版:雁書館)。この歌集の作者と私とは高校時代の同期である。
私は高知県にある中高一貫教育の私学で6年間の学生生活を送った。この歌集の作者である「大崎瀬都」という女性は高校から編入してきた。だから彼女と一緒に学生生活を送ったのは3年間にすぎない。しかも彼女は文科系のクラスに進んだ。同じクラスになることはなかった。そんなこともあって学生時代に彼女と話をしたことは一度もなかった。
彼女は小柄で物静かであった。そしていつもうつむき加減に歩いていた。決して目立つ学生ではなかった。しかし私は、廊下などで彼女とすれ違うたびにはっとして彼女の方に目を向けた。
彼女の歌は当時、高校生向けの月刊誌に毎月のように入選していた。それらの歌を目にするたびに私は彼女のみずみずしい感性に驚嘆した。校舎の中の階段の昇り降りといったきわめて平凡な行動にすら彼女は歌のなかで私に大きな感動をもたらしてくれた。
「海に向かへば」はそんな彼女が数年前に出版した歌集である。この歌集の中の1章のタイトルでもある。この章のなかに収められた歌を読めば「海」とは土佐湾に広がる太平洋であることがわかる。この章の中の作品をいくつか紹介したい。
故郷の海も真近しベルが鳴りここよりは「土佐くろしお鉄道」
故郷へ向ふ列車の夜の窓に一歳(ひととせ)老いし顔を映せり
降り立ちし爪の先よりほぐれゆくわれをつつみて故郷のあり
故郷の川に下りて手を洗ふわれの儀式を知る人のなし
列車動けば目をそらしたり見送りの母は涙を見せるかも知れず
気の遠くなるほど長き歳月と言ふにあたらず海に向かへば
私は高知県にある中高一貫教育の私学で6年間の学生生活を送った。この歌集の作者である「大崎瀬都」という女性は高校から編入してきた。だから彼女と一緒に学生生活を送ったのは3年間にすぎない。しかも彼女は文科系のクラスに進んだ。同じクラスになることはなかった。そんなこともあって学生時代に彼女と話をしたことは一度もなかった。
彼女は小柄で物静かであった。そしていつもうつむき加減に歩いていた。決して目立つ学生ではなかった。しかし私は、廊下などで彼女とすれ違うたびにはっとして彼女の方に目を向けた。
彼女の歌は当時、高校生向けの月刊誌に毎月のように入選していた。それらの歌を目にするたびに私は彼女のみずみずしい感性に驚嘆した。校舎の中の階段の昇り降りといったきわめて平凡な行動にすら彼女は歌のなかで私に大きな感動をもたらしてくれた。
「海に向かへば」はそんな彼女が数年前に出版した歌集である。この歌集の中の1章のタイトルでもある。この章のなかに収められた歌を読めば「海」とは土佐湾に広がる太平洋であることがわかる。この章の中の作品をいくつか紹介したい。
故郷の海も真近しベルが鳴りここよりは「土佐くろしお鉄道」
故郷へ向ふ列車の夜の窓に一歳(ひととせ)老いし顔を映せり
降り立ちし爪の先よりほぐれゆくわれをつつみて故郷のあり
故郷の川に下りて手を洗ふわれの儀式を知る人のなし
列車動けば目をそらしたり見送りの母は涙を見せるかも知れず
気の遠くなるほど長き歳月と言ふにあたらず海に向かへば
2007年11月19日月曜日
高台寺
先週の水曜日から土曜日まで大阪での学会にでかけた。その合間をぬって京都に出かけた。
金曜日の午後、まず高台寺を訪れた。ここは豊臣秀吉の妻であった北の政所(寧々)が夫の霊を弔うために建てた寺である。秀吉の没後、彼女は残りの人生をこの寺で送った。彼女の墓もこの寺の中にある。
関ヶ原の戦いの際、彼女は徳川家康側に加担した。子飼いの福島正則や加藤清正が徳川方(東軍)についた理由のひとつは彼女からの進言があったからであろうと私は推測している。もちろん、朝鮮出兵時、石田三成が秀吉に告げた数々の讒言に対する恨みもあったであろうが。西軍方に陣取っていた小早川秀秋がなかなか戦に加わらず、途中から突然寝返って東軍に加勢したのも北の政所の意向を汲んだものであったのではなかろうか。
(皮肉なことに、東軍に加担した彼らの家は徳川幕府開設から程なく途絶えることになる。加藤清正の死は暗殺によるものであったのかもしれない。)
なぜ北の政所は秀吉の子である秀頼方につかなかったのであろうか。
客観的に歴史を振り返れば、秀吉亡き後、日本統治能力があるのは徳川家康以外にはなかった。したがって北の政所が東軍方につこうが西軍方につこうが歴史に大きな変化はなかったのかもしれない。北の政所が東軍に加勢した理由のひとつは、豊臣家が存続していくためには家康に対して臣の礼をとる以外にないと冷静に判断したためなのかもしれない。彼女が家康方につくことによって豊臣家お取りつぶしを免れようとしたと考えることもできないことはない。
しかし私は、北の政所を動かした最も大きな原動力は嫉妬であったのではなかろうかと思っている。秀頼の母つまり茶々に対する嫉妬である。秀吉と寧々との間には子がなかった。あの時代、秀頼の実の母は茶々であっても少なくとも形式上の母は寧々(北の政所)である。もし茶々が秀頼の実の母であったとしてももう少し慎みを持って行動していれば北の政所の誇りを傷つけることもなかったであろう。
もちろん茶々の勝手な振る舞いを許した秀吉にも大きな責任がある。
秀頼が生まれる前、秀吉には国松という子があった。しかし国松は早世した。その悲しみから逃れるために秀吉は朝鮮出兵を決意したという説もある。だから、国松亡き後、やっと生まれた秀頼を秀吉が溺愛し、茶々のわがままをなんでも許したとしても理解できないこともない。
ただ、ひとつ疑問がある。果たして国松も秀頼も果たして秀吉の子であったのであろうか。そうではなかったという説を唱える歴史学者も少なくない。秀吉自身は我が子と固く信じていたであろうが。
秀吉は実に多くの側室を持った。しかし茶々以外は誰も子を産んでいない。秀吉は種なしであったという説が消えない根拠となっている。
ひょっとしたら北の政所は、秀頼が秀吉の子でないことを薄々知っていたのかもしれない。
当然、家康の政治力も素晴らしかった。北の政所を味方につけるために家康は彼女に対して心から礼を尽くした。女性である彼女の目に、石田三成と比較して家康がどれほど立派に映ったかは容易に想像できる。
家康が天下を取った後も家康は北の政所に対して生涯手厚い援助を続けた。
北の政所の遺体は高台寺の霊屋という建物の中に安置されている。この小さな建物を外からのぞき込みながら、私はこの小さな、ほんとうに小さな墓の主が、日本の歴史に大きな影響を与えたことを思い、人間の情念というものの怖さを改めて感じた。
金曜日の午後、まず高台寺を訪れた。ここは豊臣秀吉の妻であった北の政所(寧々)が夫の霊を弔うために建てた寺である。秀吉の没後、彼女は残りの人生をこの寺で送った。彼女の墓もこの寺の中にある。
関ヶ原の戦いの際、彼女は徳川家康側に加担した。子飼いの福島正則や加藤清正が徳川方(東軍)についた理由のひとつは彼女からの進言があったからであろうと私は推測している。もちろん、朝鮮出兵時、石田三成が秀吉に告げた数々の讒言に対する恨みもあったであろうが。西軍方に陣取っていた小早川秀秋がなかなか戦に加わらず、途中から突然寝返って東軍に加勢したのも北の政所の意向を汲んだものであったのではなかろうか。
(皮肉なことに、東軍に加担した彼らの家は徳川幕府開設から程なく途絶えることになる。加藤清正の死は暗殺によるものであったのかもしれない。)
なぜ北の政所は秀吉の子である秀頼方につかなかったのであろうか。
客観的に歴史を振り返れば、秀吉亡き後、日本統治能力があるのは徳川家康以外にはなかった。したがって北の政所が東軍方につこうが西軍方につこうが歴史に大きな変化はなかったのかもしれない。北の政所が東軍に加勢した理由のひとつは、豊臣家が存続していくためには家康に対して臣の礼をとる以外にないと冷静に判断したためなのかもしれない。彼女が家康方につくことによって豊臣家お取りつぶしを免れようとしたと考えることもできないことはない。
しかし私は、北の政所を動かした最も大きな原動力は嫉妬であったのではなかろうかと思っている。秀頼の母つまり茶々に対する嫉妬である。秀吉と寧々との間には子がなかった。あの時代、秀頼の実の母は茶々であっても少なくとも形式上の母は寧々(北の政所)である。もし茶々が秀頼の実の母であったとしてももう少し慎みを持って行動していれば北の政所の誇りを傷つけることもなかったであろう。
もちろん茶々の勝手な振る舞いを許した秀吉にも大きな責任がある。
秀頼が生まれる前、秀吉には国松という子があった。しかし国松は早世した。その悲しみから逃れるために秀吉は朝鮮出兵を決意したという説もある。だから、国松亡き後、やっと生まれた秀頼を秀吉が溺愛し、茶々のわがままをなんでも許したとしても理解できないこともない。
ただ、ひとつ疑問がある。果たして国松も秀頼も果たして秀吉の子であったのであろうか。そうではなかったという説を唱える歴史学者も少なくない。秀吉自身は我が子と固く信じていたであろうが。
秀吉は実に多くの側室を持った。しかし茶々以外は誰も子を産んでいない。秀吉は種なしであったという説が消えない根拠となっている。
ひょっとしたら北の政所は、秀頼が秀吉の子でないことを薄々知っていたのかもしれない。
当然、家康の政治力も素晴らしかった。北の政所を味方につけるために家康は彼女に対して心から礼を尽くした。女性である彼女の目に、石田三成と比較して家康がどれほど立派に映ったかは容易に想像できる。
家康が天下を取った後も家康は北の政所に対して生涯手厚い援助を続けた。
北の政所の遺体は高台寺の霊屋という建物の中に安置されている。この小さな建物を外からのぞき込みながら、私はこの小さな、ほんとうに小さな墓の主が、日本の歴史に大きな影響を与えたことを思い、人間の情念というものの怖さを改めて感じた。
2007年11月10日土曜日
友人の次男の死とピアノリサイタル
4日前の午後5時過ぎに私の携帯電話が鳴った。友人からの電話であった。私の職場に出かけてきている。これから私の部屋を訪ねてもいいかという内容であった。
その時、私はちょうど外出していた。その旨、彼に告げた。彼の電話の用件は察しがついた。
彼はちょうど2週間ほど前に次男を亡くした。数日後にそのことを私は職場の廊下で彼の部下から聞かされた。私は茫然となった。脳腫瘍であったという。昨年の夏に発病し余命いくばくもないことがすぐにわかったが、職場で彼はそのことを誰にも話さなかったとその部下は私に告げた。
4日前の電話で彼と数分間話したときも彼はそのことを私に語った。「職場で混乱が生じるといけないと思ったので、この1年間、ずっと誰にもしゃべらずに過ごしてきた。」彼はそう言った。この言葉から、彼がこの1年間耐えてきた孤独がひしひしと伝わってきた。
彼は、「息子が死ぬ1週間前まで一緒に食事にでかけたりできたから・・・」とも言った。この1年間、彼は家族と一緒に過ごす時間をできるかぎりとってきたのだろうなと私は推測した。
彼は電話の向こうで涙ぐんでいた。私も涙を流した。
彼は文字通りの会社人間であった。ワーカホリックであった。彼は、会うたびに、彼の仕事と会社に対する熱い情熱を熱く私に語った。「出世したい。」この言葉が何度彼の口から出てきたことか・・・。そのたびに私は、どうしてそう思うのかと尋ねた。彼の答えはいつも同じであった。
よくもわるくも彼は「男」であった。「男」になりきれる彼を私は心から尊敬していた。
しかし彼が「男」になりきれていたのは、彼に温かい家庭があってこそのことであった。この前提が崩された今、彼はこれからもずっと会社人間でい続けることができるのであろうか。
電話を切る間際に、彼は「49日の法要が終わったら、会って愚痴を聞いてよ」と言った。「愚痴」とは「後悔」のことだろうと私はとっさに思った。私は、「もちろん。泊まりがけで出かけていくよ」と答えた。
死は永遠の別れであり、絶対的な拒絶である。
彼との電話を切るとすぐ、私は地下鉄に飛び乗り、上野に向かった。その日の午後7時から東京文化會舘大ホールで行われる関孝弘氏のピアノリサイタルに招待されていたからだ。関氏のそのピアノリサイタルには昨年も同じ知人が招待してくれた。その知人は関氏の姪にあたる。
私には音楽の素養はないが、関氏は基本にとても忠実な演奏をされる方なのではないかと感じている。演奏には技術を超えた「人」が表れる。関氏の奏でる端正なメロディーは関氏の歩んできた人生そして関氏の人柄そのものなのであろうと思う。
演奏の最中、私はずっと友人のことを考えていた。ピアノ演奏を聴きながら、きっとこの音楽は彼の耳にも届いているはずだとなぜだかわからないが私はそう感じていた。関氏の演奏する曲のひとつひとつがその日の私には鎮魂歌として胸に響いた。
彼の次男の死を悲しんでいるのは彼と彼の家族ばかりではない。しかしこの悲しみを乗り越える勇気を彼に与えてくれるのは時間以外にない。
その時、私はちょうど外出していた。その旨、彼に告げた。彼の電話の用件は察しがついた。
彼はちょうど2週間ほど前に次男を亡くした。数日後にそのことを私は職場の廊下で彼の部下から聞かされた。私は茫然となった。脳腫瘍であったという。昨年の夏に発病し余命いくばくもないことがすぐにわかったが、職場で彼はそのことを誰にも話さなかったとその部下は私に告げた。
4日前の電話で彼と数分間話したときも彼はそのことを私に語った。「職場で混乱が生じるといけないと思ったので、この1年間、ずっと誰にもしゃべらずに過ごしてきた。」彼はそう言った。この言葉から、彼がこの1年間耐えてきた孤独がひしひしと伝わってきた。
彼は、「息子が死ぬ1週間前まで一緒に食事にでかけたりできたから・・・」とも言った。この1年間、彼は家族と一緒に過ごす時間をできるかぎりとってきたのだろうなと私は推測した。
彼は電話の向こうで涙ぐんでいた。私も涙を流した。
彼は文字通りの会社人間であった。ワーカホリックであった。彼は、会うたびに、彼の仕事と会社に対する熱い情熱を熱く私に語った。「出世したい。」この言葉が何度彼の口から出てきたことか・・・。そのたびに私は、どうしてそう思うのかと尋ねた。彼の答えはいつも同じであった。
よくもわるくも彼は「男」であった。「男」になりきれる彼を私は心から尊敬していた。
しかし彼が「男」になりきれていたのは、彼に温かい家庭があってこそのことであった。この前提が崩された今、彼はこれからもずっと会社人間でい続けることができるのであろうか。
電話を切る間際に、彼は「49日の法要が終わったら、会って愚痴を聞いてよ」と言った。「愚痴」とは「後悔」のことだろうと私はとっさに思った。私は、「もちろん。泊まりがけで出かけていくよ」と答えた。
死は永遠の別れであり、絶対的な拒絶である。
彼との電話を切るとすぐ、私は地下鉄に飛び乗り、上野に向かった。その日の午後7時から東京文化會舘大ホールで行われる関孝弘氏のピアノリサイタルに招待されていたからだ。関氏のそのピアノリサイタルには昨年も同じ知人が招待してくれた。その知人は関氏の姪にあたる。
私には音楽の素養はないが、関氏は基本にとても忠実な演奏をされる方なのではないかと感じている。演奏には技術を超えた「人」が表れる。関氏の奏でる端正なメロディーは関氏の歩んできた人生そして関氏の人柄そのものなのであろうと思う。
演奏の最中、私はずっと友人のことを考えていた。ピアノ演奏を聴きながら、きっとこの音楽は彼の耳にも届いているはずだとなぜだかわからないが私はそう感じていた。関氏の演奏する曲のひとつひとつがその日の私には鎮魂歌として胸に響いた。
彼の次男の死を悲しんでいるのは彼と彼の家族ばかりではない。しかしこの悲しみを乗り越える勇気を彼に与えてくれるのは時間以外にない。
2007年10月11日木曜日
子の誕生
10月9日、義兄夫婦に女児が誕生した。結婚してから10年近く。二人にとって待ちに待った子の誕生であった。
今朝、生まれたばかりのその児の写真を家内が私に見せた。その写真を見た瞬間、私は、自分の息子が生まれた翌日に撮影した写真を思い出した。同じように産着にくるまれている写真であった。しかし私の息子はその写真では大声で泣き叫んでいた。
「治豊が生まれたばかりのときよりもこの児の顔立ちの方がととのっているんじゃない?」などと実兄の子の誕生を嬉しそうに語る家内の言葉にもほとんど返事を返さず、私は自分の息子が生まれたときの思い出に飲み込まれていった。
私の息子が生まれたとき、私はまずホッとした。息子が五体満足で生まれたからではない。高齢出産であったにもかかわらず比較的安産であったからでもない。妻を母にするという夫としての義務をやっと果たせたという安堵感であった。父親になった喜びは世間でいわれるほど大きいものではなかったように思う。というよりも父親になったという実感がなかった。義理の姉はいま、「自分の子がこんなにも可愛いものだとは思わなかった」と言っているという。母の正直な気持ちであろう。
男である私は、自分の息子が生まれた頃よりも今の方が息子をはるかに可愛いと感じる。文字通り、自分の命よりも大切である。
繰り返し言われるように男は子を持ってもすぐに父親にはなれない。男が父親としてのよろこびを感じられるようになるまでには女性には想像もできないような長い時間を要する。
家内が私に見せたもう一枚の写真には、生まれたばかりの我が子の後ろでしゃがみながら満面の笑みを浮かべている義兄が写っていた。私も義兄のその笑顔を見て、心のなかで祝福した。私の息子が生まれたときよりもずっと嬉しかった。それは、私が10年近く父親としての体験を積んできたためであろう。幼い子が殺されたといったニュースを耳にするたびにいまの私は自然と涙が浮かぶ。
しかし、それと同時に、その写真をじっと見つめながら、今の義兄も、私に息子が生まれた頃のような、父親という実感にはまだ十分浸れないてはいないのではなかろうかという思いも私は抱いた。
人には想像力がある。他人の不幸もある程度までは自分の悲しみとして感じることができる。逆に他人の喜びを自分自身の喜びとしていっしょに喜ぶこともできる。しかし実際にその立場に自分の身をおかなければほんとうに理解できないこともある。
義兄は大の子供好きである。これからはもっともっと子供が好きになることであろう。新しい生命の誕生は肉親にとって人生のなかで最も嬉しいことである。
今朝、生まれたばかりのその児の写真を家内が私に見せた。その写真を見た瞬間、私は、自分の息子が生まれた翌日に撮影した写真を思い出した。同じように産着にくるまれている写真であった。しかし私の息子はその写真では大声で泣き叫んでいた。
「治豊が生まれたばかりのときよりもこの児の顔立ちの方がととのっているんじゃない?」などと実兄の子の誕生を嬉しそうに語る家内の言葉にもほとんど返事を返さず、私は自分の息子が生まれたときの思い出に飲み込まれていった。
私の息子が生まれたとき、私はまずホッとした。息子が五体満足で生まれたからではない。高齢出産であったにもかかわらず比較的安産であったからでもない。妻を母にするという夫としての義務をやっと果たせたという安堵感であった。父親になった喜びは世間でいわれるほど大きいものではなかったように思う。というよりも父親になったという実感がなかった。義理の姉はいま、「自分の子がこんなにも可愛いものだとは思わなかった」と言っているという。母の正直な気持ちであろう。
男である私は、自分の息子が生まれた頃よりも今の方が息子をはるかに可愛いと感じる。文字通り、自分の命よりも大切である。
繰り返し言われるように男は子を持ってもすぐに父親にはなれない。男が父親としてのよろこびを感じられるようになるまでには女性には想像もできないような長い時間を要する。
家内が私に見せたもう一枚の写真には、生まれたばかりの我が子の後ろでしゃがみながら満面の笑みを浮かべている義兄が写っていた。私も義兄のその笑顔を見て、心のなかで祝福した。私の息子が生まれたときよりもずっと嬉しかった。それは、私が10年近く父親としての体験を積んできたためであろう。幼い子が殺されたといったニュースを耳にするたびにいまの私は自然と涙が浮かぶ。
しかし、それと同時に、その写真をじっと見つめながら、今の義兄も、私に息子が生まれた頃のような、父親という実感にはまだ十分浸れないてはいないのではなかろうかという思いも私は抱いた。
人には想像力がある。他人の不幸もある程度までは自分の悲しみとして感じることができる。逆に他人の喜びを自分自身の喜びとしていっしょに喜ぶこともできる。しかし実際にその立場に自分の身をおかなければほんとうに理解できないこともある。
義兄は大の子供好きである。これからはもっともっと子供が好きになることであろう。新しい生命の誕生は肉親にとって人生のなかで最も嬉しいことである。
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