2007年11月19日月曜日

高台寺

先週の水曜日から土曜日まで大阪での学会にでかけた。その合間をぬって京都に出かけた。

金曜日の午後、まず高台寺を訪れた。ここは豊臣秀吉の妻であった北の政所(寧々)が夫の霊を弔うために建てた寺である。秀吉の没後、彼女は残りの人生をこの寺で送った。彼女の墓もこの寺の中にある。

関ヶ原の戦いの際、彼女は徳川家康側に加担した。子飼いの福島正則や加藤清正が徳川方(東軍)についた理由のひとつは彼女からの進言があったからであろうと私は推測している。もちろん、朝鮮出兵時、石田三成が秀吉に告げた数々の讒言に対する恨みもあったであろうが。西軍方に陣取っていた小早川秀秋がなかなか戦に加わらず、途中から突然寝返って東軍に加勢したのも北の政所の意向を汲んだものであったのではなかろうか。

(皮肉なことに、東軍に加担した彼らの家は徳川幕府開設から程なく途絶えることになる。加藤清正の死は暗殺によるものであったのかもしれない。)

なぜ北の政所は秀吉の子である秀頼方につかなかったのであろうか。

客観的に歴史を振り返れば、秀吉亡き後、日本統治能力があるのは徳川家康以外にはなかった。したがって北の政所が東軍方につこうが西軍方につこうが歴史に大きな変化はなかったのかもしれない。北の政所が東軍に加勢した理由のひとつは、豊臣家が存続していくためには家康に対して臣の礼をとる以外にないと冷静に判断したためなのかもしれない。彼女が家康方につくことによって豊臣家お取りつぶしを免れようとしたと考えることもできないことはない。

しかし私は、北の政所を動かした最も大きな原動力は嫉妬であったのではなかろうかと思っている。秀頼の母つまり茶々に対する嫉妬である。秀吉と寧々との間には子がなかった。あの時代、秀頼の実の母は茶々であっても少なくとも形式上の母は寧々(北の政所)である。もし茶々が秀頼の実の母であったとしてももう少し慎みを持って行動していれば北の政所の誇りを傷つけることもなかったであろう。

もちろん茶々の勝手な振る舞いを許した秀吉にも大きな責任がある。

秀頼が生まれる前、秀吉には国松という子があった。しかし国松は早世した。その悲しみから逃れるために秀吉は朝鮮出兵を決意したという説もある。だから、国松亡き後、やっと生まれた秀頼を秀吉が溺愛し、茶々のわがままをなんでも許したとしても理解できないこともない。

ただ、ひとつ疑問がある。果たして国松も秀頼も果たして秀吉の子であったのであろうか。そうではなかったという説を唱える歴史学者も少なくない。秀吉自身は我が子と固く信じていたであろうが。

秀吉は実に多くの側室を持った。しかし茶々以外は誰も子を産んでいない。秀吉は種なしであったという説が消えない根拠となっている。

ひょっとしたら北の政所は、秀頼が秀吉の子でないことを薄々知っていたのかもしれない。

当然、家康の政治力も素晴らしかった。北の政所を味方につけるために家康は彼女に対して心から礼を尽くした。女性である彼女の目に、石田三成と比較して家康がどれほど立派に映ったかは容易に想像できる。

家康が天下を取った後も家康は北の政所に対して生涯手厚い援助を続けた。

北の政所の遺体は高台寺の霊屋という建物の中に安置されている。この小さな建物を外からのぞき込みながら、私はこの小さな、ほんとうに小さな墓の主が、日本の歴史に大きな影響を与えたことを思い、人間の情念というものの怖さを改めて感じた。

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