2007年10月11日木曜日

子の誕生

10月9日、義兄夫婦に女児が誕生した。結婚してから10年近く。二人にとって待ちに待った子の誕生であった。

今朝、生まれたばかりのその児の写真を家内が私に見せた。その写真を見た瞬間、私は、自分の息子が生まれた翌日に撮影した写真を思い出した。同じように産着にくるまれている写真であった。しかし私の息子はその写真では大声で泣き叫んでいた。

「治豊が生まれたばかりのときよりもこの児の顔立ちの方がととのっているんじゃない?」などと実兄の子の誕生を嬉しそうに語る家内の言葉にもほとんど返事を返さず、私は自分の息子が生まれたときの思い出に飲み込まれていった。

私の息子が生まれたとき、私はまずホッとした。息子が五体満足で生まれたからではない。高齢出産であったにもかかわらず比較的安産であったからでもない。妻を母にするという夫としての義務をやっと果たせたという安堵感であった。父親になった喜びは世間でいわれるほど大きいものではなかったように思う。というよりも父親になったという実感がなかった。義理の姉はいま、「自分の子がこんなにも可愛いものだとは思わなかった」と言っているという。母の正直な気持ちであろう。

男である私は、自分の息子が生まれた頃よりも今の方が息子をはるかに可愛いと感じる。文字通り、自分の命よりも大切である。

繰り返し言われるように男は子を持ってもすぐに父親にはなれない。男が父親としてのよろこびを感じられるようになるまでには女性には想像もできないような長い時間を要する。

家内が私に見せたもう一枚の写真には、生まれたばかりの我が子の後ろでしゃがみながら満面の笑みを浮かべている義兄が写っていた。私も義兄のその笑顔を見て、心のなかで祝福した。私の息子が生まれたときよりもずっと嬉しかった。それは、私が10年近く父親としての体験を積んできたためであろう。幼い子が殺されたといったニュースを耳にするたびにいまの私は自然と涙が浮かぶ。

しかし、それと同時に、その写真をじっと見つめながら、今の義兄も、私に息子が生まれた頃のような、父親という実感にはまだ十分浸れないてはいないのではなかろうかという思いも私は抱いた。

人には想像力がある。他人の不幸もある程度までは自分の悲しみとして感じることができる。逆に他人の喜びを自分自身の喜びとしていっしょに喜ぶこともできる。しかし実際にその立場に自分の身をおかなければほんとうに理解できないこともある。

義兄は大の子供好きである。これからはもっともっと子供が好きになることであろう。新しい生命の誕生は肉親にとって人生のなかで最も嬉しいことである。

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