ある大臣が「女性は子を産む機械だ」と発言したというニュースがマスコミを賑わしている。国会では野党が鬼の首を取ったかのようにこの大臣を追求し、審議拒否にまで入った。
確かに大臣のこの発言は心配りが足りなかったとしかいいようがない。
しかしこの発言は少なくとも心ある国民には意義あるものであった。
女性が機械でないのは明白である。こんなわかりきったことに目くじらを立てる必要はない。また、女性にしか子を産めないのも事実である。
今、声を大にして大臣批判を繰り返しているのは、子を産んだことのない独身女性ばかりである。私は大声で大臣批判を繰り返す女性には哀れを感じる。
何事であっても人によって価値観はさまざまである。皆が同じ考え方をする必要はない。しかし子を産み育てることが女性ばかりでなく男性にとっても人生の中で最も楽しく価値あることのひとつであるということには違いなかろう。戦後教育はこの最も根源的で重要な価値観を古い考え・国粋主義的な考え・男尊女卑として軽視し否定し続けてきた。しかし戦前教育が価値観の強制であっったならば戦後の教育も同様に価値観の強制である。子を持つことに誇りを持てなくなった若い女性はブランド物で身を飾り我が物顔で道を闊歩する。この国は衰退へとつきすすんでいる。
人口減少ばかりではない。日本国民のモラルの崩壊も著しい。
自分の子を抱き重い荷物を抱えながら歩いている女性。髪は振り乱している。化粧もしていない。しかしその女性がかもしだす母性の温かさは究極の女性美である。母性こそが女性の美の源泉である。
女性は、自分が女性として生まれたことに誇りを持たなくてはいけない。女性であることに劣等感を感じ男に対する対抗心をむき出しにする女性に与する必要はない。彼女らは気の毒な人たちなのだから。
2007年2月3日土曜日
2007年1月28日日曜日
息子の作文 ー原文通りー
「三部武勇伝でやった事とその感想」
僕たちは、三部武勇伝で、なわとび、ロッックソーラン(踊り)、二人三脚、リレーを教わりました。一番おもしろかったのは、二人三脚です。なぜおもしろかったかというと、二人三脚は、最初は難しかったが、最後はできて、
「やった。」
と言えるからです。
一月二十六日(金)は、三部武勇伝佐野後の日のような事をやりました。二人三脚があったらいいな・・・・・、と思ったが、二人三脚はありませんでした。
でもリレーとなわとびはありました。
リレーの一回目は一位でよかったです。二重回しの生き残りリレーは四組中三位でした。
(もっと頑張ればよかった。)
と、思いました。三部武勇伝で、ろいろな事を覚えました。これを、今年の運動会につなげていきたいと思います。
僕たちは、三部武勇伝で、なわとび、ロッックソーラン(踊り)、二人三脚、リレーを教わりました。一番おもしろかったのは、二人三脚です。なぜおもしろかったかというと、二人三脚は、最初は難しかったが、最後はできて、
「やった。」
と言えるからです。
一月二十六日(金)は、三部武勇伝佐野後の日のような事をやりました。二人三脚があったらいいな・・・・・、と思ったが、二人三脚はありませんでした。
でもリレーとなわとびはありました。
リレーの一回目は一位でよかったです。二重回しの生き残りリレーは四組中三位でした。
(もっと頑張ればよかった。)
と、思いました。三部武勇伝で、ろいろな事を覚えました。これを、今年の運動会につなげていきたいと思います。
2007年1月27日土曜日
祖父
私が幼い頃、我が家は貧乏のどん底にあった。私が生まれたのは終戦から10年あまりしか経っていない時期である。時代そのものが貧しかった。しかし日本全体が貧しい中でも、我が家は特に貧しいのだと私は両親からいいきかされていた。
両親はいつも仕事をしていた。毎晩、夜中の2時まで働いた。朝、私が目を覚ますと、母親は既に家事を始めていた。私には両親と一緒に寝た記憶がほとんどない。私は祖父と祖母の間に入って、祖父母と一緒に寝た。
私の祖父がかつて多大な借金をかかえていたことを知ったのは、祖父が亡くなってから10年以上経ってからであった。私が何年か前に実家に帰省した際、私の生家の近くに住む老婆が私に語ってくれた。祖父はある人の借金の保証人になっていたという。その人が急死した。保証人になっていた祖父は、その人に代って莫大な返済義務を負った。
私の祖父がその多大な借金を抱えたとき、近所の人たちは、これで私の祖父も終わりだとささやきあったという。しかし祖父は、長い年月をかけて誠実に借金を返済していったとその老婆は語った。そして我が家の今があるのは、私の祖父の人徳のおかげであるといって涙を浮かべながら私の祖父を褒めた。
今に至るも祖父が抱えた借金の話を家族の誰からも聞いたことはない。私も尋ねない。祖父はその苦労を自分の死とともにあの世に持ち去った。祖父は私の息子にとってはひじいちゃんになる。3代遡った自分の先祖の生きた道を私の息子は何一つ知らないまま一生を終えるであろう。私の息子がいささかでも私の祖父のことを思うのは、祖父の墓石のまえで意味もわからないまま手を合わせるときだけである。
夏草や つわものどもが夢のあと
温厚な人柄とは裏腹に、祖父は厳しい時代を生きた。生き抜いた。
両親はいつも仕事をしていた。毎晩、夜中の2時まで働いた。朝、私が目を覚ますと、母親は既に家事を始めていた。私には両親と一緒に寝た記憶がほとんどない。私は祖父と祖母の間に入って、祖父母と一緒に寝た。
私の祖父がかつて多大な借金をかかえていたことを知ったのは、祖父が亡くなってから10年以上経ってからであった。私が何年か前に実家に帰省した際、私の生家の近くに住む老婆が私に語ってくれた。祖父はある人の借金の保証人になっていたという。その人が急死した。保証人になっていた祖父は、その人に代って莫大な返済義務を負った。
私の祖父がその多大な借金を抱えたとき、近所の人たちは、これで私の祖父も終わりだとささやきあったという。しかし祖父は、長い年月をかけて誠実に借金を返済していったとその老婆は語った。そして我が家の今があるのは、私の祖父の人徳のおかげであるといって涙を浮かべながら私の祖父を褒めた。
今に至るも祖父が抱えた借金の話を家族の誰からも聞いたことはない。私も尋ねない。祖父はその苦労を自分の死とともにあの世に持ち去った。祖父は私の息子にとってはひじいちゃんになる。3代遡った自分の先祖の生きた道を私の息子は何一つ知らないまま一生を終えるであろう。私の息子がいささかでも私の祖父のことを思うのは、祖父の墓石のまえで意味もわからないまま手を合わせるときだけである。
夏草や つわものどもが夢のあと
温厚な人柄とは裏腹に、祖父は厳しい時代を生きた。生き抜いた。
2007年1月20日土曜日
中土佐町久礼 その1
中土佐町久礼といえば「土佐の一本釣り」で有名になった町だ。土佐湾に面した小さな港町である。私の生家から西に20キロほど行ったところにある。
この町の海辺に私の伯父が生前住んでいた。祖父母がともに生きている頃には、私は祖父母に連れられてよく伯父の家を訪ねた。私の生家から中土佐町久礼に行くには須崎駅から汽車に乗らなければならなかった。汽車は私にとってとても不思議な乗り物であった。と同時に、とてもこわい乗り物であった。ホームから汽車との間は大きくひらいていた。その隙間に落ちるのではないかという恐怖感に汽車に乗るたびに襲われた。
私の家と同様に伯父も貧乏暮らしであった。マッチ箱のような小さい平屋に伯父夫婦と子供3人がひしめきあうようにして住んでいた。堤防のすぐ側にあるその家は、台風が来るたびに浸水した。しかし堤防越しに眺める土佐湾の景色は美しく、また雄大であった。私は、この堤防にもたれかかりながら、伯父にいろいろな話を聞かせてもらった。
伯父は私の父とは対照的に、とても温厚な人であった。学校での成績も私の父よりもよかったと聞かされていた。
今でもはっきり憶えているのは、海から陸へと吹いてくる強い風に髪をなびかせながら、私が伯父に「なぜ、風邪が吹くの?」と尋ねたときのことだ。私はまだ4歳か5歳であった。2〜3秒間、間をおいて、伯父はゆっくりと説明し始めた。
「あるところに空気のない箇所ができる。その空気のなくなった場所に向かって空気が流れていくのが風だよ」と伯父は話した。
私は恐怖に襲われた。もし今自分が立っている場所の空気がなくなったら、息ができなくなってしまうのではと思ったのだ。ばかげた想像であった。しかしまだ幼く何の科学的知識もない当時の私は怖くてしかたなくなった。
私は黙ったまま堤防脇の階段を降りて伯父の家に戻った。
このときの恐怖感は40数年経った今でも、当時の伯父の姿とともに、鮮明に蘇ってくる。
この町の海辺に私の伯父が生前住んでいた。祖父母がともに生きている頃には、私は祖父母に連れられてよく伯父の家を訪ねた。私の生家から中土佐町久礼に行くには須崎駅から汽車に乗らなければならなかった。汽車は私にとってとても不思議な乗り物であった。と同時に、とてもこわい乗り物であった。ホームから汽車との間は大きくひらいていた。その隙間に落ちるのではないかという恐怖感に汽車に乗るたびに襲われた。
私の家と同様に伯父も貧乏暮らしであった。マッチ箱のような小さい平屋に伯父夫婦と子供3人がひしめきあうようにして住んでいた。堤防のすぐ側にあるその家は、台風が来るたびに浸水した。しかし堤防越しに眺める土佐湾の景色は美しく、また雄大であった。私は、この堤防にもたれかかりながら、伯父にいろいろな話を聞かせてもらった。
伯父は私の父とは対照的に、とても温厚な人であった。学校での成績も私の父よりもよかったと聞かされていた。
今でもはっきり憶えているのは、海から陸へと吹いてくる強い風に髪をなびかせながら、私が伯父に「なぜ、風邪が吹くの?」と尋ねたときのことだ。私はまだ4歳か5歳であった。2〜3秒間、間をおいて、伯父はゆっくりと説明し始めた。
「あるところに空気のない箇所ができる。その空気のなくなった場所に向かって空気が流れていくのが風だよ」と伯父は話した。
私は恐怖に襲われた。もし今自分が立っている場所の空気がなくなったら、息ができなくなってしまうのではと思ったのだ。ばかげた想像であった。しかしまだ幼く何の科学的知識もない当時の私は怖くてしかたなくなった。
私は黙ったまま堤防脇の階段を降りて伯父の家に戻った。
このときの恐怖感は40数年経った今でも、当時の伯父の姿とともに、鮮明に蘇ってくる。
2007年1月17日水曜日
小学生のお年玉、平均が初めて2万5千円台に
exciteニュースに下のような記事が掲載されていた。今年、私の息子が全部でいかほどのお年玉をもらったのか私は知らないが、おおよそこの程度ではなかろうか。平均といえる。もっとも私たちが息子にお年玉をあげたことはこれまで一度もない。したがって、息子はお年玉は親からはもらわないものだと思っているかもしれない。いいことだ・・・。
2007年正月に小学生がもらったお年玉合計は平均25,293円で、03年の調査開始以後初めて2万5千円台となったと、小学館が2007年1月15日に発表した。景気回復の影響を受けて昨年より766円増えた。金額で最も多いのが「1万5千円超〜2万円」の17.7%で、「1万円以下」は14.3%で、どちらも昨年と同じような割合となっている。一方、「3万円超〜3万5千円」が3.1ポイント増、「15万円以上」は0.7ポイント増、さらに最高は過去最高の17万円と、お年玉の金額の差が大きくなっていた。使い道は4年連続で「ゲームソフトを買う」が1位で、67.4%が使い道を自分で決めていた。今年の調査は1月5日〜1月9日に実施され、583名がアンケートに答えた。
ー記事ー
2007年正月に小学生がもらったお年玉合計は平均25,293円で、03年の調査開始以後初めて2万5千円台となったと、小学館が2007年1月15日に発表した。景気回復の影響を受けて昨年より766円増えた。金額で最も多いのが「1万5千円超〜2万円」の17.7%で、「1万円以下」は14.3%で、どちらも昨年と同じような割合となっている。一方、「3万円超〜3万5千円」が3.1ポイント増、「15万円以上」は0.7ポイント増、さらに最高は過去最高の17万円と、お年玉の金額の差が大きくなっていた。使い道は4年連続で「ゲームソフトを買う」が1位で、67.4%が使い道を自分で決めていた。今年の調査は1月5日〜1月9日に実施され、583名がアンケートに答えた。
2007年1月8日月曜日
第29回日本フルートフェスティバルin東京
昨日、家族でコンサートに行った。場所は東京文化会館大ホール。直前に会場に電話をすると、当日券が余っているということで、急遽でかけることにした。
私は予約券を買ってコンサートに行ったことはない。日本では有名な楽団のコンサートは何か月か前に予約しないとチケットが手に入らない。留学中は週末、よくコンサートにでかけた。気が向いたときにぶらっと会場に行けば、その場でチケットを購入することができた。しかも予約券よりも当日券の方が安いことが多かった。日本とは反対だ。チケットが完売の場合でも、開場前で必ず誰かがチケットを売ってくれた。日本のダフ屋ではない。前売り券を買っていた本人が正価で売ってくれるのだ。交渉すれば正価よりも安くしてくれることもあった。私たち夫婦は多くの場合、30マルク以下の安いチケットを会場で手に入れた。
私たちが留学していたミュンヘンでは、夏は夜10ごろまで明るい。夏場は天気がよければコンサートは屋外で開催されることがある。ついさっきまで野良仕事をしていた隣の夫婦がいつのまにか連れ立ってコンサートに出かけていく光景をよく目にした。オペラやコンサート、バレエなどはミュンヘンでは生活の一部であった。私たちもそういった生活にいつしか馴染んでいた。
留学から帰ってからはほとんどこういった演奏会にでかけることはなくなった。精神的な余裕がなくなったためだったかもしれない。それよりも東京のせわしない雰囲気のなかでゆっくりコンサートを聴こうという気が起きなくなったからかもしれない。帰国後4年後に長男が生まれてからはコンサートにでかけることは物理的に難しくなった。
長男もあっというまに8歳。私たちも年をとった。休日に家族でゆっくりとコンサートにでかけることはこれから次第に多くなっていくだろう。
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