2021年3月20日土曜日

水仙

我が家には猫の額ほどの小さい花壇がある。夏になると雑草が鬱蒼と生い茂る。草刈りは滅多にしない。草を刈ると猫が糞をするからである。

ほとんど手入れをしないままになっているが、毎年3月になると花壇の端に水仙が花を咲かせる。今年も白色と黄色の花が咲いた。

例年、私は家族とこの時期に海外旅行に出かける。家を出るときにはまだ花が咲き始めたばかりであることが多かった。花は私たちが留守の間に満開となり、私たちが帰国するときには花びらが落ち始めていた。今年はこの過程を自宅で毎日観察することができる。コロナウイルスのため、今年は海外に出かけることができない。






花の咲き始める季節

暖かくなってきた。私の自宅の周りでも色々な花が咲き始めた。








2021年3月7日日曜日

墓参り

きょうは父親の命日である。父親が亡くなって7年経った。朝から出かけていた息子を途中でピックアップして家族3人で墓参りに出かけた。墓は文京区小石川にある。地下鉄丸の内線の茗荷谷駅の近くである。ここには息子が12年間通った筑波大学附属小学校・中学校・高等学校がある。息子は1日も休むことなく12年間、学校に通った。この地域にはきっと縁があったのであろう。
 
墓参りを終えた後、静かなレストランに立ち寄ってランチをとった。ここは私たち夫婦のお気に入りのレストランである。このレストランには息子も何度か来たことがあるものと思っていたが、きょうが初めてであるという。いつも私と家内だけで来ていたらしい。
 
レストランからの帰宅途中、駒込駅前で息子は車から降りた。喫茶店で勉強するという。息子は私よりも遥かに努力家である。






2021年2月11日木曜日

恩師 5

やんしゅう先生の奥様が私の勤務先にいらしてくださった。私も奥様も随分と白髪が増えた。奥様は75歳。やんしゅう先生とは20歳前後年齢が離れていらっしゃったので、もしやんしゅう先生がまだ生きていらっしゃったならば、90歳代ということになる。

やんしゅう先生ご夫妻と知り合ったのは私の20歳代半ば。もう40年近くになる。

やんしゅう先生ご夫妻に懇意にしていただいたのは私だけではない。私の両親もたいそうよくしてもらった。私の両親がまだ元気だった頃、群馬県太田市のやんしゅう先生の奥様のご実家を両親と一緒に訪ねたこともあった。やんしゅう先生の奥様のご両親もその頃はお元気であった。奥様のご実家でのこと。隣の部屋から私の両親と奥様のご両親の賑やかな笑い声が聞こえてきた。何だろうと思って覗いてみると、なんと4人がお互いにお灸をすえあっていた。

やんしゅう先生は、私と二人だけのときは実に朗らかであった。しかし奥様のご実家ではいつも物静かであった。「物静か」というよりも無言であった。私に対しても何も話しかけなかった。私は何度か奥様の実家にうかがったが、奥様のご実家ではやんしゅう先生の話し声を耳にしたことがなかった。年末に奥様のご実家にうかがったとき、うつむいて黙々と年賀状を書いていらっしゃったやんしゅう先生の姿が今も目に浮かぶ。

やんしゅう先生は奥様とふたりで自宅にいらっしゃったときも寡黙であったのではないかと思われる。「仕事をキチンとやり社会的地位もあるのにねえ」と奥様が私に何回かおっしゃったのはそのことを指していたのではないだろうか。やんしゅう先生は奥様のことを私にはよく自慢した。しかし、その分、奥様に気後れしていたようだ。

奥様のお父様も書道の師範であった。姿勢がよく、かくしゃくとしていらっしゃった。目を細めながら時折見せる笑顔が魅力的であった。奥様も書道の師範であり、ご実家では絶えず筆を握って練習していらっしゃった。

奥様のお母様は対照的に温厚で心優しい方であった。私と二人きりになると、「ふたりに子がないことが気がかりで」と小声でおっしゃったことが何度かあった。奥様は一人っ子であった。奥様に子がないと家が絶える。このことをお母様はいつも気に病んでいらっしゃった。

30数年前の思い出である。奥様の両親は既に亡い。私の両親も亡くなった。

下は奥様が昨日お送りくださったご自宅の近くの写真である。川は隅田川。隅田川花火の日には何度かご自宅に招待していただき、ご自宅から花火を楽しませていただいた。






2021年1月22日金曜日

墓参り 2

先日、「墓参り」というタイトルでブログを書き、改葬について述べた。しかし話があちこちに跳んでしまって読みづらい。整理して書き直したい。
 
  1. 改葬の理由
    1. 我が家の先祖は全て土葬であった
    2. 土葬してある先祖の墓を掘り起こして遺骨を回収しなければ、両親の遺骨を埋葬するスペースがなかった
    3. かつ、その墓地は我が家の所有地ではなかった
    4. 親族の遺骨を納めるために父親が建てていた納骨堂は畑の中にあり、土佐市から移設を求められた
    5. 東京から墓掃除や墓参りに訪れることはどんどん困難になると予想された
  2. 改葬許可
    1. 裁判所からの許可の取得
    2. 市役所からの許可の取得
  3. 改葬先の準備
    1. 墓地の決定
    2. 納骨堂の注文
    3. 開眼供養
    4. 納骨
  4.  遺骨の回収
    1. 閉眼供養
    2. 遺骨の回収
    3. 東京への遺骨の運搬

2021年1月18日月曜日

宗教

我が家の宗教は真言宗豊山派である。空海(弘法大師)は四国の香川県に生まれ主に四国で布教活動を行ったためなのか、高知県では真言宗の寺を菩提寺として持つ家が多いように思う。

しかし私は信心深いとはいえない。そうかといって無神論者でもない。また、信教の自由は保障されなければならないとも考えている。

私にとって宗教とは何か、どのような意味を持つかといったことについてこれまで考えたことはない。宗教書もほとんど読んだことがない。高校時代、作家・野間宏の「歎異抄」という作品を読んだことがあるぐらいのものである。その本は友人が貸してくれというので貸したが、戻ってこなかった。

ただ、死後の魂とか霊魂といったことについては時折考える。私には霊は見えない。しかし不思議な経験をしたことがある。科学では説明できない事象であった。それ以来、生きている人の念もしくは死者の霊のようなものが離れた場所にいる人に影響を及ぼすことがあることを信じるようになった。

私が不思議な体験をしたのは大学6年生(医学部は6年)の時であった。卒業を間近に控えた1月中旬のこと。父親から夜に電話がかかってきた。元気でやっているかと父親は尋ねた。私は通り一遍の返事を返した。それほど長話はせず、父親は電話を切った。今、思い返すと、父親の声には力がなかった。

その翌日、私は友人の家に出かけた。そこで医師国家試験の勉強をするつもりであった。しかし、友人宅で勉強を始めても集中できない。それまで体験したことのない体調に陥った。熱があるわけではない。どこかが痛むわけでもない。表現のしようがない感覚であった。友人宅で一晩すごした。しかし翌日も体調はおなじであった。もしかして、と思って実家に電話をかけた。電話に出たのは伯母であった。叔母は私の声を聞くと、「どこにおるが!?お爺ちゃんが死んだで!今、お葬式の最中!」と叫んだ。祖父が亡くなったのを知って私は驚いた。深い悲しみが襲ってきた。しかし祖父の死を知った瞬間、体調が元に戻った。不思議な体験であった。

亡くなった祖父が自分の死を私に伝えようとしていたのであろうか。それとも両親や親族の強い思いがあのような体調を引き起こしたのであろうか。

以後、あのような体調に陥ったことはない。祖父が亡くなる直前の晩に父親が私に電話をかけてきたのは、祖父が危篤状態になっていることを伝えるためであった。しかし、国家試験を目前に控えて勉強に励んでいる私に、祖父の病状を伝えることができなかったという。祖父の死後、しばらく経って、父親は私にそう話した。



2021年1月14日木曜日

手紙

以前から、メッセージや電子メールでのやりとりは味気ないと思っていた。できれば手紙に切り替えたいと思っていた。昨年暮れからやっと手紙(葉書)を書くようになった。そのきっかけは昨年末にいただいた喪中葉書であった。
 
昨年暮れに喪中の連絡をくださった方の一部に、思い切って葉書でお返事を書いたのだ。主たる理由は私の転勤通知をまだ出していなかったことであった。だから葉書の文面はどれも同じであった。それでも手紙(葉書)を書くことによって心が洗われる気がした。
 
ここに掲載した葉書は、いただいた喪中葉書への返事として私が出した転勤通知に対して再度いただいた返事の葉書である。(本人の了解を得ず掲載する。)なんと、私がこれまで送った葉書を全て保管してくれていると書かれている。ほとんどは年賀状であろうが、23通あると書かれている。この方とは私が30代半ばのときに知り合った。生きるのが非常に辛い時期であったが、私の愚痴に耳を傾けてくれた。
 
年をとると若い頃のことを時々思い出すようになる。いろいろな方に助けられてここまで生きてこられたことをしみじみと感じる。