2020年4月5日日曜日

墓参り

昨日の昼、急に思い立って家族で墓参りに行った。自宅から墓地までは車で約20分。

父親の命日は3月7日であったが、コロナウイルス騒ぎのために墓参りが遅くなった。昨日は快晴であった。墓掃除を済ませたあと、家族で墓前に手を合わせて帰ってきた。帰り際に「私たちが死んだら年に1回は墓参りに来てよ」と笑いながら家内が息子に告げた。息子はボソッと小声で「うん」と答えた。

父親の生前、私が実家に帰省すると、父親と私は実家の裏山にある先祖の墓を一緒に訪れた。先祖代々の墓は全て土葬であり、29柱もの墓石が建っていた。しかし私が生前の姿を知っているのは祖父母だけであった。墓石に刻まれている俗名をほとんど知らなかった。知っていたのは、父親の姉である米尾と兄の才京だけであった。祖父母の墓石は墓地の最後列に並んで建っていた。祖父母の墓石の前に立つと、父親は「幸伸が帰ってきたぜよ」と祖父母に語りかけるように話しながら墓石に水をかけた。そして墓参りが終わり山を下ってくる途中で「私が元気なうちは私が墓守をするが、私が死んだら墓守を頼むぜよ」と私に言った。

父親の入院中に私は先祖の墓を全て東京に移した。改葬には多大な労力と時間、そして資金を要した。しかし改装しなければ父親を埋葬するスペースがなかった。父親の病状は帰省するたびに悪化しており、時間との競争であった。東京の墓が完成したのは父親の死後になった。納骨の日の数日前であった。先祖の遺骨と父親の遺骨を同じ日に、完成したばかりの墓に納めた。納骨式に立ち会ったのは、私と私の家内と息子の3人だけであった。それでも父親はきっと喜んでいてくれるだろうと私は固く信じ、墓前に手を合わせた。

2019年8月15日木曜日

御巣鷹山

一昨日(8月13日)、家内と一緒に御巣鷹山に登った。御巣鷹山に登るのは今年で5年連続。この時期に軽井沢に来ると、引き寄せられるように足が御巣鷹山に向かう。事故当時、私の家内は日本航空に勤めていた。家内の知人も2人この事故で亡くなった。

私の家内は国際線のCAであった。亡くなった2人のうちの1人は、2年間ほど家内と同じグループで働いた後、結婚し、子供が欲しいからという理由で国内線に移った。そしてその後、ほどなくその事故に遭った。彼女の関係者から家内が聞いた話であるが、事故の当日、彼女は、勤務(搭乗)するのを嫌がっていたという。何か不吉な予感があったのであろう。

私と家内は、必ず彼女の遺体が見つかった場所に建てられている墓標を訪れる。そして手を合わせる。残された彼女の夫はきっと再婚したのであろう。彼女の墓標には、人が度々訪れてきた形跡がない。

「人は死んだらおしまいよ。」この墓標の前で、私の家内はいつもこの言葉を口にする。

終戦記念日 特攻隊

終戦当時、私の父親は中学生であった。終戦の日、父親は近所の友人と釣りに出かけていたという。その帰り道にすれ違った人から、日本が戦争に負けたと告げられた。そんな話をにわかに信じられようはずがない。父親は友人と「あいつは気狂いだ」と話しながら帰宅したという。帰宅すると、これから玉音放送があるという。実家の隣の家にあったラジオの周りに近所の人たちが集まった。そして流れる玉音放送を聞いた。日本の敗戦を知り、涙する人もいたという。父親はきっとあっけにとられたに違いない。

父親は、中学校を卒業したら、特攻隊員に志願するつもりであった。しかし、晩年、父親は心から戦争を忌み嫌っていた。戦争がいかに人の人生を狂わせるのかを、自分の長兄(私の伯父)の死を通じ、身をもって体験したからであろう。

終戦記念日

きょうは8月15日。終戦記念日である。全国のあちこちで記念式典が開かれている。

幼い頃、この日に、私は毎年、祖父母に連れられて高知市内で開かれる慰霊祭に参列した。まだ小学生にもならない当時の私にこの式典の趣旨がわかろうはずはなかった。祖父母も何のために慰霊祭に毎年参列するのかについて私に何も話さなかった。式典は毎年、炎天下の下で開かれ、とても暑かったことは今も記憶に残っている。厳かな会であった。筵の上にじっと座って、当時の私には何のことかわからない行事が長時間にわたって続くことに私はじっと耐えていた。確か、正午であったと思う。鐘が鳴った。そのときは私もじっと目を閉じた。

私が小学校2年生のときの大晦日に祖母が亡くなった。以来、祖父も私も慰霊祭に参列することはなくなった。この式典が当時、高知市内のどこで開催されていたのか、わからない。また今も開催されているのかについても知らない。きっと開かれているに違いないが。慰霊祭というものが何のために行われるのかを私が知ったのは、ずっと後のことであった。祖父母がなぜ毎年慰霊祭に参列していたのかを知ったのもずっと後のことであった。

祖父母は長男(私の伯父)を戦争で亡くしていた。フィリピンのレイテ島で伯父は戦死した。終戦のわずか1ヶ月前であった。叔父の死は、遺された妻とひとりの幼子のその後の人生を大きく狂わした。叔父の墓には叔父の遺骨はなく、叔父の髪の毛と爪だけが埋葬されていると祖父からは聞かされていた。私の父親が亡くなる直前に行った改葬時に叔父の墓も掘り起こした。当然、何も出てこなかった。一握りの土を団子にし、東京に設けた新しい墓地に埋葬した。

2019年7月28日日曜日

いじょう、もどらん

「いじょう、もどらん」は土佐弁である。「もどらん」は戻らない、帰らないという意味である。ただ、「いじょう」という副詞の持つニュアンスを正確に伝えるのは難しい。「いじょう」というのは「全然」という意味であるが、時間の概念を含んでいる。「いじょう、もどらん」には、例えば、誰それがどこそこに引っ越して以来、全く帰って来ないといったニュアンスが込められているのだ。

2019年5月12日日曜日

マスオさん

私は、留学から戻った1995年秋から数年間,家内の実家に住まわせてもらった。留学中に帰国後の住宅を探すのは、インターネットが発達していない当時は困難であったからである。生活が落ち着き次第、家内の実家を出るつもりであった。しかし家内の両親は思いの他、私を歓待してくれ、実の娘である家内とも一緒に暮らせる生活を喜んだ。家内の兄夫婦も一緒に住んでいたので、家内の両親は実の息子と娘家族と一緒に住むことになったわけである。家内の実家は5階建てのビルディングである。3階に義兄夫婦が、4階に義理の両親が、そして5階に私たち夫婦が住んだ。
 
私は、ただで家内の実家に住まわせてもらうのは申し訳ないと思い、ボーナス月である7月と12月に百万円ずつ両親に手渡した。つまり、毎年、二百万円を義理の両親に支払っていた。
 
 
年間二百万円の家賃が安いのか高いのか、それとも妥当であったのかはわからない。ただ、義理の両親は実の娘と一緒に住めることを心から喜んでいたので、家賃として支払った金額がたとえ少なすぎたとしても、義理の両親には不満はなかったのではないかと思う。
 
 ところが、私たちがただで家内の実家に住まわせてもらっていたと思い込んでいた人がいたという。そしてその人は私の義理の母親にそう言ったらしい。驚きである。その人は、「自分ならばお金を支払わない」と考えたのであろう。私たち夫婦は、少なくとも金銭に関しては潔癖な人生を送ってきた。ただで住めれば得であるといった発想は私たち夫婦にはない。
 

姉 10 お年玉

私と私の家族は、年末年始には毎年、高知に帰省した。正月には姉(池友子)の家族も実家を訪れてにぎやかな正月になった。私と私の家内は、小額ではあったが、姉(池友子)の4人の子供たちにお年玉をあげた。(当時、私たち夫婦にはまだ子がいなかった。)
 
ところが、私の家内が姉(池友子)にお年玉を手渡すと、姉(池友子)は次のように言ったことがあったという。「このお年玉は生活費に充てさせてもらう。」このことを聞いた私の家内は驚いたという。自分の子たちに対するお年玉まで取ってしまうのかと。
 
このことを私はまったく知らなかった。数年前に初めて家内からこのことを聞かされた。家内は他人の悪口をほとんどいわない。私の両親の件で私の家内は、姉(池友子)と姉(池友子)の長女からひどい目に遭わされてきた。私は私でぎりぎりまで私の家内に伏せていたことも数多くあったが、姉(池友子)との間で裁判が持ち上がったときには、それらを伏せておくことができなくなったので、家内に話した。家内も姉(池友子)について腹に据えかねていたことを私に話すようになった。
 
家内は、今、私が少しでも姉(池友子)と姉(池友子)の長女の話を持ち出すと、めまいと頭痛と吐き気がすると言う。