2019年5月12日日曜日

姉 9 無言電話

2013年7月28日の午後、姉(池友子)は私に3つの留守番メッセージを残した。このメッセージの内容は既に書いた。その晩、正確には2013年7月29日の早朝(1:30〜1:48)に姉から7回無言電話がかかってきた。かかってきた電話は業務に使っている電話であったので、夜中でもマナーモードには切り替えていなかった。
 
私の寝室は2階にある。私は既に眠っていたが、けたたましい音で鳴る電話の音で起こされた。最初は頭がぼーっとしておりすぐには反応できなかったが、両親に何事かが起きたのかも知れないと考え、階段を駆け降りた。そしてリビングに置いてあった携帯電話の受話器をとった。聞こえたのは姉(池友子)の息遣いであった。発信元は姉(池友子)の夫の携帯電話であった。2013年7月15日の晩、姉(池友子)が一方的に電話を切った後、姉(池友子)の長女からもあのように非常識な言葉を投げられたため、姉(池友子)の夫と何度か話をしていた。姉(池友子)は夫の携帯電話の記録を見て私と自分の夫とが連絡を取り合っているのを知り、あのような無言電話と留守番メッセージを残したのだろうと私は思った。
 
さて、私は受話器を取るや否や「もしもし、もしもし」と何度か呼びかけたが、姉(池友子)の息遣いが聞こえてきただけであった。私が何度呼びかけても姉(池友子)は返事を返さなかった。そして30秒ほどで電話は切れた。私が携帯電話を元の場所に置くと、また電話がかかってきた。このときは私が電話で応答しようとすると同時に電話が切れた。
 
私は、姉(池友子)がいやがらせで電話をかけてきているのであろうと思ってその晩は携帯電話をマナーモードに切り替えて2階の寝室に戻った。朝確認すると、全部で7回、姉(池友子)から電話が入っていた。私が応答したのは4回目であったことがわかった。
 
(姉(池友子)が私に留守番メッセージを残したのは無言電話の10時間ほど前であったが、私が姉(池友子)からの留守番メッセージに気づいたのは、その無言電話があった日の午後のことであった。つまり、無言電話を受けた日の午後に姉(池友子)からの留守番メッセージに気がついた。)
 
初回、4回目、7回目の姉(池友子)からの無言電話の記録を下に掲載しておく。姉(池友子)は裁判の場で、「不在着信」であったと主張した。しかし4回目の電話の表示を見れば、私が受話器を取っていたことがわかる。姉(池友子)は常に嘘をつく。姉(池友子)から嘘をとると姉(池友子)には何も残らないのではないかと最近は思うようになった。
 
 
 
 

姉 8 「三万円」 その2

2013年7月13日から15日まで帰省した際に姉(池友子)に3万円を返しそびれたことは既に書いた。私は姉弟の間でのことであるし、父親が入院した直後でもある、それに姉(池友子)と姉(池友子)の長女から母親との絶縁を告げられて姉(池友子)との関係がぎくしゃくもしているので、頃合いを見計らって姉(池友子)に金を返せばいいだろう程度に考えていた。
 
ところが姉(池友子)は、私に金を返してくれとは要求せず、なんと両親に返却を要求したのである。姉(池友子)から私の両親に宛てた絶縁状に、私に貸した3万円を返してくれと書いてきた。しかも従姉の一人に電話をかけては「幸伸が3万円を取っていって返さない」と言っていたという。私はこのことをこの従姉本人から聞いた。
 
私は大急ぎで姉(池友子)に現金書留で10万円を送った。借りた金は3万円であったが、実家の近くに住む姉(池友子)には両親の状態をたまには見に行ってもらうこともあろうかと思って多めに現金を包んだ。(この時点では、私は、ほんとうに姉(池友子)が両親との縁を切るとは思っていなかった。)しかし姉(池友子)からは金を受け取ったという連絡は来なかった。当然、礼状も届かなかった。
 
3万円貸しただけなのに10万円送ってもらってどうして私に礼を言わなかったのかと裁判の場で私の弁護士が姉(池友子)と姉(池友子)の姪に尋問した。これに対して姉(池友子)の長女(私の姪)は「おじちゃんが送ってきた現金書留封筒には現金が入っていただけでおじちゃんの添え書きがなかったから怖かった」と陳述した。加えて、「感謝状」であったと姉(池友子)と姉(池友子)の長女が主張する手紙のなかに私が借りた金を両親が私に代わって返してくれという記述があるのは礼状としては不適切な表現ではないかという私の弁護士からの尋問には一切答えなかった。姉(池友子)は、私から10万円送られてきた後、私が金を返したことを誰にも話さなかった。金を借りて返さないと言ってさんざん私を批判したくせに、私から多額の現金が送られたことには口をつぐんだ。
 
繰り返しになるが、「この母にこの娘あり」である。この母娘は、発言内容を節操なくどうとでも変える。

姉 7 「三万円」 その1

2013年6月30日に私は姉(池友子)から3万円借りた。結果的にはその3万円は使うことなく、そのまま東京に持って帰った。次に帰省した際にその金を姉(池友子)に返したかったが、2013年7月1日に母親と絶縁すると姉(池友子)と姉(池友子)の長女から言われていたのでなんとなく姉(池友子)の家を訪れるのが憂鬱であった。そのため2013年7月13日から15日まで帰省した際には姉(池友子)に連絡をとることも姉(池友子)の家を訪れることもしなかった。姉(池友子)から借りていた3万円もそのまま東京に持ち帰った。
 
その当時はまだ、父親とも縁を切るという話は姉(池友子)から聞かされていなかった。2013年7月13日から15日に帰省して私が最も気がかりであったのは、父親が所有する不動産の始末であった。元々農家であったわが家にはあちこちに田畑や山林があった。しかし私はそれらがどこにあるのか、ほとんどわからなかった。母親は慢性関節リウマチを長年患い、歩くことすらままならない。
 
私は高知から帰った2013年7月15日の晩に姉(池友子)に電話をかけた。そして、父親の不動産が欲しいかどうかを尋ねた。姉(池友子)は不動産は要らない。金だけ欲しいと言った。しかし身体の不自由な母親に不動産を相続させるわけにはいかない。父親の所有している田畑や山林はできるかぎり私が処分するが、父親が亡くなったときにもし不動産が残っていたならば、姉(池友子)と私の二人で折半しようと提案した。しかし姉(池友子)は、「要らないものは要らない」と言って、不動産を相続することを拒否した。私は「そんなことを言うても、身体の不自由な母親に不動産を相続させるわけにはいかんじゃいか」と声を荒立てた。そうしたら、姉(池友子)はがちゃっと一方的に電話を切った。
 
姉(池友子)は何か気に入らないことがあるといつも一方的に電話を切った。この日も、再度電話をかけても無駄であろうと思い,姉(池友子)の長女に電話をかけ、姉(池友子)との電話でのやり取りの概略を述べた。
 
すると、姪はいきなり「おばあちゃんは許さん」と怒り出した。その2週間前の2013年7月1日に姉(池友子)と姉(池友子)の長女から母親との縁切りを告げられていたが理由を知らなかったので、このとき姪になぜおばあちゃん(姪の祖母にあたる私の母親)を許せないのかを尋ねた。姪は「おばあちゃんは私のお母さんによりもおじちゃんに少し多めに遺産を残したい」と言った。だから許せないと怒り出したのだ。

姉 6「あなたたち家族の3人」

2013年7月28日に姉(池友子)が残した留守番メッセージの冒頭の「あなたたち家族の3人」は私と私の両親を指しているものとずっと私は思っていた。この「3人」が私と私の家内と私の一人息子を指していたことを知ったのは、2年後の母親の告別式の晩であった。
 
父親の葬儀には出なかった姉(池友子)が、なんと母親の葬儀には参列した。姉(池友子)ばかりではなかった。姉(池友子)の長女と次女、そして彼女達の子供たちも告別式に参列したのだ。しかし彼らは誰一人として親族席には座らなかった。一般席のしかも最後部に一列に並んで座った。私も私の親族も、親族席に座るようにと姉(池友子)に言ったが受け付けなかった。
 
告別式の喪主の挨拶で、私は母親が死ぬ間際まで姉(池友子)に会いたがっていたということを述べた。ところが、少し難聴気味である姉(池友子)は最後部に座ったこともあって私のスピーチが聞き取れなかったという。(事実かどうかは不明。)姉(池友子)が隣りに座っている娘達に尋ねると、娘達は私がさんざん姉(池友子)の悪口を言っていたと話したという。
 
愚かな娘達である。百歩譲って私が姉(池友子)を批判するスピーチをしていたとしても、姉(池友子)にそのスピーチが聞き取れなかったならば、そのようなことは伏せておけばいい。わざわざ話すことではない。ましてや私は、一言も姉(池友子)や姉(池友子)の家族を批判することは話していない。
 
「この母(池友子)にこの娘あり」である。
 
結果として、姉(池友子)は私のスピーチ内容に激怒したという。その晩、親戚に電話をかけてきた。そして電話に出た従姉に次のように言ったという。私と私の家内と息子が母親の財産を全部自分たちの名義に書き換えた。私の家内は「現金が好きだから」と。姉(池友子)の留守番電話の「あなたたち家族の3人」が私と私の両親ではなく、私と私の家内と息子を指していたことを知ったのはこのときであった。しかし、当時、まだ中学生であった私の息子までこれほど憎むとは、姉(池友子)は狂っている。
 
私が姉(池友子)や姉(池友子)の家族を批判するスピーチをしていないことは参列者全員が証言してくれた。繰り返しになるが、私は「母親は死ぬ間際まで実の娘である姉(池友子)に会いたがっておりました」と一言言っただけである。悪口でも何でもない。母親が姉(池友子)に対して最も告げたかったであろう言葉を私が代弁しただけである。どんなに姉(池友子)が母親を憎んでも、母親は実の娘に会いたくて仕方がなかったのだ。
 
父親が亡くなったとき、私は姉(池友子)に手紙を書いた。その手紙の最後に、私は姉(池友子)の病気を知っている。どんなに薬を飲んでもどんな宗教に帰依しても姉(池友子)の病気は治らないと書いた。この一文をとりあげて、姉(池友子)は姉(池友子)の病気の詳細を知っていたはずだと裁判の場で主張した。私が知るはずはない。私は姉(池友子)から不眠を訴えられたことはあるが、どのような病名で通院しているのかもどのような薬を服用しているのかも知らなかった。ただ、誰が見ても姉(池友子)が精神の病気をやんでいるのは明らかであった。その心の病の原因は姉(池友子)の心の持ち方に問題があることであると考えたため私はそう書いたのだ。
 
姉(池友子)は一度でもいいから母親の生前に病院を訪れるべきであった。そして実の娘が見舞いに来てくれ喜ぶ母親の笑顔を見ておくべきであった。その母親の笑顔を見ておけば、姉(池友子)の病気は治ったかもしれない。姉(池友子)の病気は、母親の死後、更に悪化したと人づてに聞いている。当然の結果である。

姉 5

姉(池友子)が2013年7月28日に残した留守番メッセージの音声記録へのリンクを「姉 1」に記した。その留守番メッセージは活字におこして裁判所に提出した。その文書をここに掲載しておく。
 

感謝状? 3

2013年8月13日。高知県で記録的な暑さを記録した日であった。この日、熱中症のためか母親は自宅で転倒し腰椎骨折をおこした。そして救急車で病院に搬送された。母親を搬送する救急車の後を追って実家のご近所の人たちが病院に駆けつけてくれた。
 
その人たち(2名)のうちの一人が、私の実家から姉(池友子)に電話をかけて、病院に来てくれるように依頼した。ところが姉(池友子)は既に両親には「絶縁状」を送っており、家族と相談して家族全員が國弘家と縁を切ることにした。したがって病院には行かないし、両親の葬式にも参列しないと言った。
 
倒れた母親の衣服を救急車が来る前に着替えさせなければならないし、母親の身体の清拭も必要であったふたりは、頑固な姉(池友子)と話を続ける時間はないと考え、途中で電話を切ったという。母親は寝室の中に置いてあったオマルのなかに倒れ込んでいたらしい。身体は糞便でべっとりであったと聞かされた。
 
二人が救急車の後を追って病院に向っているときに姉(池友子)から何回か電話がかかってきた。しかし病院には絶対に行かないという姉(池友子)の相手をする余裕がない二人は、電話をとらなかった。
 
それから約2年後の2015年8月7日に母親は亡くなった。母親の葬儀の日、姉(池友子)はその隣人にこう言ったという。「病院に行こうかと思って五百子に何回も電話したけんど、五百子は電話に出なかった。」(父親の葬儀には参列しなかった姉(池友子)が、なんとこのときには葬儀場に駆けつけたのである。私は驚いた。)
 
つい先日、この隣人は怒りを込めて言った。「おばちゃん(私の母親)が入院する病院はきちんと友子ちゃんに伝えてある。もし友子ちゃんに病院に来る気があれば、私に断る必要などない。直接病院に来ればいい。」
 
まさに彼女の言う通りである。
 
姉(池友子)は自分が両親に送った手紙(「感謝状? 1」を参照)をこの際には「絶縁状」と言った。そして裁判の場では「感謝状」であったと主張した。姉(池友子)の長女も同様の証言をした。
 
姉(池友子)と姉(池友子)の長女のこれまでの人生を象徴するエピソードのひとつである。姉(池友子)は他人を陥れることと金にしか興味がない。これは私と私の家内の共通の認識である。

感謝状? 2

既に何回か書いたが,2013年6月下旬に父親が出血性脳梗塞の二度目の発作で倒れて入院したとき、私は数日間高知に帰省した。私が東京に戻る日の前日(2013年7月1日)の夕方、姉の家に立ち寄ったとき、別れ際に姉(池友子)と姉の長女がかしこまって私の前に立ち、「幸伸,私たちはお母ちゃんと縁を切る」と私に告げた。私はまたいつもの親子げんかでもたのだろうと軽く考え、返事もせずにホテルに戻った。
 
その前日、つまり2013年6月30日にも私は姉(池友子)の家を訪れていた。姉は数日前にその家(賃貸マンション)に引っ越したばかりであった。私が姉(池友子)の家を訪れたとき、姉の夫(私の義兄)は仕事に出ており、家の中には姉(池友子)しかいなかった。姉は引っ越したばかりの住居のなかを案内してくれた。
 
帰り際に屋外でしばらく姉(池友子)と立ち話をした。その際に、姉(池友子)が、「お金は足りる?」と私に尋ねた。当時、高知県内にはメガバンクは1つしかなかった。みずほ銀行であった。しかし私はみずほ銀行には預金口座を持っていなかった。姉は私を高知市内のショッピングセンターの脇にあるATMに私を案内してくれた。私はいくばくかの金をそのATMで引き出した。父親の衣類やタオルなど、いろいろな入院用品を買ったので、私の財布の中の金が少なくなっているのではないかと姉(池友子)は心配してくれたのだ。財布のなかを確認すると、数千円しか残っていなかった。姉(池友子)はそれを見て、「お金を貸しちゃおか。待っちょり」と言って自宅に戻り3万円を持って出てきた。私は翌7月1日しか高知には滞在しないので多くの金は要らないだろうと思ったが、もし金が必要になった際にまたATMに行かなければいけなくなるのは時間の無駄になると思い、姉(池友子)が差し出した3万円を借りた。
 
このことからもわかるとおり、私と姉(池友子)とは決して仲たがいしていたわけではなかった。事情をよく知らない人は、私と姉(池友子)とは元々仲が悪かったのではないかと思ったかもしれないが、そんなことは全くなかった。
 
翌7月1日にも東京に戻る挨拶をするために私は姉(池友子)の家を訪れた。その際には、姉(池友子)の長女と次女および彼女らの子(姉(池友子)の孫)も姉(池友子)の家に遊びに来ていた。屋外で子供たちを遊ばせていた。短時間姉(池友子)と立ち話をしてホテルに戻ろうとしたその時に、姉(池友子)と姉(池友子)の長女が母親と絶縁すると突然私に告げたのである。姉(池友子)の次女は少し離れたところで子供たちを遊ばせており、私たちの会話には加わらなかった。
 
私は7月13日から15日まで再度、高知に帰省した。その際に、姉(池友子)から借りた3万円を返すつもりであった。しかし、当時はまだ身体の不自由な母親が自宅で一人暮らししていた。母親の介護もしなければならなかった。雑用も山のようにあった。
 
また、姉(池友子)の気性を知っていた私は、しばらく姉(池友子)とは接触を持たずそのままにしておくのがいいだろうと考えた。そのため、姉(池友子)には3万円を返さないまま東京に戻ってきた。そしてその日(2013年7月15日)の晩、東京から姉(池友子)に電話をかけた。
 
この際の電話でのやりとりについては次回書こうと思う。