2019年5月12日日曜日

感謝状? 3

2013年8月13日。高知県で記録的な暑さを記録した日であった。この日、熱中症のためか母親は自宅で転倒し腰椎骨折をおこした。そして救急車で病院に搬送された。母親を搬送する救急車の後を追って実家のご近所の人たちが病院に駆けつけてくれた。
 
その人たち(2名)のうちの一人が、私の実家から姉(池友子)に電話をかけて、病院に来てくれるように依頼した。ところが姉(池友子)は既に両親には「絶縁状」を送っており、家族と相談して家族全員が國弘家と縁を切ることにした。したがって病院には行かないし、両親の葬式にも参列しないと言った。
 
倒れた母親の衣服を救急車が来る前に着替えさせなければならないし、母親の身体の清拭も必要であったふたりは、頑固な姉(池友子)と話を続ける時間はないと考え、途中で電話を切ったという。母親は寝室の中に置いてあったオマルのなかに倒れ込んでいたらしい。身体は糞便でべっとりであったと聞かされた。
 
二人が救急車の後を追って病院に向っているときに姉(池友子)から何回か電話がかかってきた。しかし病院には絶対に行かないという姉(池友子)の相手をする余裕がない二人は、電話をとらなかった。
 
それから約2年後の2015年8月7日に母親は亡くなった。母親の葬儀の日、姉(池友子)はその隣人にこう言ったという。「病院に行こうかと思って五百子に何回も電話したけんど、五百子は電話に出なかった。」(父親の葬儀には参列しなかった姉(池友子)が、なんとこのときには葬儀場に駆けつけたのである。私は驚いた。)
 
つい先日、この隣人は怒りを込めて言った。「おばちゃん(私の母親)が入院する病院はきちんと友子ちゃんに伝えてある。もし友子ちゃんに病院に来る気があれば、私に断る必要などない。直接病院に来ればいい。」
 
まさに彼女の言う通りである。
 
姉(池友子)は自分が両親に送った手紙(「感謝状? 1」を参照)をこの際には「絶縁状」と言った。そして裁判の場では「感謝状」であったと主張した。姉(池友子)の長女も同様の証言をした。
 
姉(池友子)と姉(池友子)の長女のこれまでの人生を象徴するエピソードのひとつである。姉(池友子)は他人を陥れることと金にしか興味がない。これは私と私の家内の共通の認識である。

感謝状? 2

既に何回か書いたが,2013年6月下旬に父親が出血性脳梗塞の二度目の発作で倒れて入院したとき、私は数日間高知に帰省した。私が東京に戻る日の前日(2013年7月1日)の夕方、姉の家に立ち寄ったとき、別れ際に姉(池友子)と姉の長女がかしこまって私の前に立ち、「幸伸,私たちはお母ちゃんと縁を切る」と私に告げた。私はまたいつもの親子げんかでもたのだろうと軽く考え、返事もせずにホテルに戻った。
 
その前日、つまり2013年6月30日にも私は姉(池友子)の家を訪れていた。姉は数日前にその家(賃貸マンション)に引っ越したばかりであった。私が姉(池友子)の家を訪れたとき、姉の夫(私の義兄)は仕事に出ており、家の中には姉(池友子)しかいなかった。姉は引っ越したばかりの住居のなかを案内してくれた。
 
帰り際に屋外でしばらく姉(池友子)と立ち話をした。その際に、姉(池友子)が、「お金は足りる?」と私に尋ねた。当時、高知県内にはメガバンクは1つしかなかった。みずほ銀行であった。しかし私はみずほ銀行には預金口座を持っていなかった。姉は私を高知市内のショッピングセンターの脇にあるATMに私を案内してくれた。私はいくばくかの金をそのATMで引き出した。父親の衣類やタオルなど、いろいろな入院用品を買ったので、私の財布の中の金が少なくなっているのではないかと姉(池友子)は心配してくれたのだ。財布のなかを確認すると、数千円しか残っていなかった。姉(池友子)はそれを見て、「お金を貸しちゃおか。待っちょり」と言って自宅に戻り3万円を持って出てきた。私は翌7月1日しか高知には滞在しないので多くの金は要らないだろうと思ったが、もし金が必要になった際にまたATMに行かなければいけなくなるのは時間の無駄になると思い、姉(池友子)が差し出した3万円を借りた。
 
このことからもわかるとおり、私と姉(池友子)とは決して仲たがいしていたわけではなかった。事情をよく知らない人は、私と姉(池友子)とは元々仲が悪かったのではないかと思ったかもしれないが、そんなことは全くなかった。
 
翌7月1日にも東京に戻る挨拶をするために私は姉(池友子)の家を訪れた。その際には、姉(池友子)の長女と次女および彼女らの子(姉(池友子)の孫)も姉(池友子)の家に遊びに来ていた。屋外で子供たちを遊ばせていた。短時間姉(池友子)と立ち話をしてホテルに戻ろうとしたその時に、姉(池友子)と姉(池友子)の長女が母親と絶縁すると突然私に告げたのである。姉(池友子)の次女は少し離れたところで子供たちを遊ばせており、私たちの会話には加わらなかった。
 
私は7月13日から15日まで再度、高知に帰省した。その際に、姉(池友子)から借りた3万円を返すつもりであった。しかし、当時はまだ身体の不自由な母親が自宅で一人暮らししていた。母親の介護もしなければならなかった。雑用も山のようにあった。
 
また、姉(池友子)の気性を知っていた私は、しばらく姉(池友子)とは接触を持たずそのままにしておくのがいいだろうと考えた。そのため、姉(池友子)には3万円を返さないまま東京に戻ってきた。そしてその日(2013年7月15日)の晩、東京から姉(池友子)に電話をかけた。
 
この際の電話でのやりとりについては次回書こうと思う。

2019年5月9日木曜日

感謝状? 1

下の手紙は、姉(池友子)が両親に宛てて送ってきた手紙である。当時、父親は既に入院しており、この手紙は母親と一部の親戚の者しか読んでいない。私はこの手紙を母親の死後、母親の寝室を整理している際に見つけたので、母親が生きていた時期には読んでいなかった。ただしその文面は母親が私に繰り返し聞かせたので、おおよその内容は知っていた。
 
読者は下の手紙を感謝状と解釈するであろうか。姉は、母親が入院したときには「既に絶縁状を送ったので、もう見舞にも葬式にも行かない」と実家のご近所の者に言った。ところが、裁判の場では、この手紙は「感謝状」であったと姉も姉の長女も弁解した。
 

姉 4

 
 
振り返ると、私の家族は姉(池友子)と姉の家族に利用され続けただけであった、
 
私が留学から戻った後のことであるから1995年よりも後のこどであるが、正確な年を記憶していない。なんとなく秋の初めごろであったのように思うが記憶が定かでない。
 
姉からひっきりなしに電話がかかってくることがあった。1日に2度電話がかかってくることもあった。用件は姉の長女の結婚。長女が結婚すると言い始めたが姉はその結婚に反対であるので姪(池祐唯0の長女)を説得してもらいたいということであった。
 
私は相手の男性に合ったことがなかった。名前すら知らなかった。ただ、姪よりもかなり年上であるということは姉から聞かされた。ただ、姉が二人の結婚に反対するのは年齢差が理由でなかった。始めの頃はなぜ姉が娘の結婚に反対するのか私には理由がわからなかった。姉から電話がかかってきても私は単に姉の話を聞くだけであった。
 
ただ、あまりにもしつこく姉が二人の悪口を言うので、私も最後には姪に電話して二人の結婚を止めてみると答えた。そして姪に電話をかけた。
 
私が姪にまず言ったのは、姪の荷物を実家から持ち出すために姪の結婚相手が姉の自宅を訪れた際に、母親である姉(池友子)に挨拶ひとつしなかいというのは失礼ではないかということであった。このことは姉から聞かされた話であったが、事実であったのかどうかはわからない。ただ、姪はそのことが事実ではないとは言わなかった。
 
私は電話をかけるまえに、10年ほど前に相談したことのある占星術師に電話で姪の結婚について尋ねた。姪の誕生日も結婚相手の誕生日も私は知らなかったのでその占星術師の答えもややあいまいであったかも知れないが、その占星術師は「すこし遅くて30歳代後半になるが、そのころ姪ごさんにはいいご縁がある。今のご縁はあまりよくない」と言った。
 
私はたかが占いのことであったが、そのことも姪に告げた。
 
しかし、姉の言葉をそのまま繰り返せば、姪は既に”目つきが変わっていた”ようだ。(電話であったので彼女の表情はわからなかったが。)姪はその前にも好きな人がいたそうであるが、その際にも姪の目つきが気違いのようになったと姉(池友子)は私に話した。
 
私は輪根の度重なる職場への電話に耐えかね、姉の指示にしたがって、姪に電話をかけた。しかし私は姪の結婚には賛成で反対でもなかった。単に、あれほどまで姉(池友子)が姪の結婚相手を悪く言うのであれば、sの話のどこかには事実が含まれているのであろうと思っただけである。
 
姉の話から、二人が結婚することになっても、姉は結婚式には出席しないものと思った。親が出席しない結婚披露宴に私が出席するわけにはいかないと私は考え、披露宴には出なかった。
 
ところが、ところが、である。あれほど結婚披露宴には出ないと言っていた姉は、何事もなかったように結婚披露宴に出席したのだ。そして二人の結婚に反対する電話をかけさせられた私は姪から今も憎まれている。姪の結婚にあたって披露宴には出なかったが姉に8万円託したが、その8万円が姪の手に渡ったのかどうかすらわからない。
 
私が姪の結婚に反対する電話をかけた経緯については、父親が生前、姪に話してくてくれたという。父親本人からそう聞いた。父親の話を聞いて姪は納得したと父親は私に話した。
 
とんでもない。姪は私を今も憎みに憎んでいる。そして私を悪い者に仕立てた姉(池友子)は何事もなかったように娘をかわいがり娘は姉(池友子)を慕っている。
 
姪は、私には「まっとうな人間になってもらいたい」そうだ。ばかけた話である。

姉 3

母親が亡くなったのは、2014年8月7日の夕方であった。金曜日であった。午前中の外来を終えて携帯電話を確認すると、母親の容体が思わしくないとのメールが主治医から届いていた。早ければ1週間以内に母親は亡くなるかもしれないと書かれていた。私は直ちに主治医に電話をかけ、電話をかけると同時に実家のご近所の人に連絡した。何人かの隣人が病院に駆けつけてくれた。私の従兄姉も病院に来てくれた。
 
私はその日の午後、手術があった。手術を終えて携帯電話を確認すると、ひとりの従兄から繰り返しメッセージが入っていた。母親の容体が刻一刻と悪くなっていく模様が述べられていた。「もう駄目だ!」というのが最後のメッセージであった。なんということか・・・。
 
私はその数日前に母親を見舞っていた。いつも母親は寿司を食べたがるのでその帰省の際にも病院近くのスーパーで寿司を買って病院に持っていった。しかしそのとき、母親はその寿司を口にしようとはしなかった。すでに病態がかなり悪化していたのであろう。
 
帰省するたびに母親の容体は悪化していた。それを見るのは私にはとても辛いことであった。入院当初は、私が病室に入るや否や「お姉は?」と尋ねた。その一言から、母親の電話に姉が無視を続けていることがわかった。私は返す言葉もなく、ただ首を横に振るだけであった。母親はそれを見ると天井を見つめ、しばらく沈黙した。寂しそうであった。入院後数ヶ月すると、母親は携帯電話を手にしなくなった。そして「お姉は?」と私に尋ねることもなくなった。
 
私は母親がかわいそうでならなかった。目と鼻の先に済んでいる実の娘が一度も見舞に来ないどころか電話すらとらない。姉の子供たちも夫も無視を続けている。
 
母親が亡くなったあと、私が高知に帰ることができたのは、その翌日の夕方であった。既に外は暗くなっていた。母親の遺骸は従兄らによって既に葬儀場に運ばれていた。白いハンカチを顔にかぶせられ横たえられている母親の遺骸を見た瞬間、私は涙が止まらなくなった。泣き続けた。
 
私が泣き続けているとき、なんと一度も母親の見舞に来なかった姉が私に寄ってきた。そして、私一人に母親の介護をさせたことをわびた。しかし、姉が母親の面会に来なかった理由は弁護士が止めたからだと姉は言った。
 
そんなことがあろうはずはない! その理由は真っ赤な嘘である!
 
遺産相続の問題が姉と私と母親との間で持ち上がったのは、父親の死後のことである。姉は父親の存命中も一度たりとも病院には来なかった。電話もとらなかった。。
 
なんという言い訳であろうか。
 
これは姉の人生を象徴的に表す出来事である。姉は他人を陥れること金にしか興味がない。これが私と私の家内の共通の認識である。私は生涯、姉(池友子)を憎む。

2019年5月6日月曜日

母親の思い 2

私の姉に対してよりも私に少し多めに遺産を残したいと姉に話した母親の気持ちがよくわかる。姉には4人の子がいるが、私の両親の援助もあり、全員が私立の中学校と高校に通った。そして全員が国立大学を卒業した。嫁ぎ先が経営する会社が倒産したあと家も失って借家住まいになった姉の家族にとって、実家からの援助がなければ、これほどの教育が受けられようはずがない。実家のご近所の人たちは、両親がどれほど姉の家族をサポートしてきたかをよく知っていた。両親からの援助を全く知らなかったのは、姉の夫(私の義兄)と姉の子供たちだけであった。姉は実家からの援助を必死で隠した。
 
母親からすれば、自分たち(私の両親)の援助によって姉の子供たちは全員大学を卒業し就職した。2人はすでに結婚し曽孫も生まれた。ただ、國弘家の跡取りである私の子はまだ中学生。これから教育に多くの金はかかるであろう。先祖代々の墓地の処理も私に委ねなくてはならない。更に実家の建物や土地、点在する多くの田畑や山林の処分も頼まねなならない。したがって、息子である私に多めに遺産を残しておかなければ私が苦労するであろう。こう考えていたに違いない。
 
こう考えた母親は、まず姉の了承を得るために姉に話をしたのだ。姉の了承を得ておこうと考えたのであろう。
 
ところが、なんと、姉はその母親からの問いかけに対して、姉は「絶縁!」で応えた。
 
母親は嘆き悲しみ、私に何度も次のように言った。「親子なんだから、不満があればきちんと話をすればいい。」
 
姉は、母親が何度電話をかけても受話器をとらなかった。母親が脊椎圧迫骨折で入院し亡くなるまでの間に母親は姉に繰り返し繰り返し電話をかけたが、姉は頑として受話器を取らなかった。途中から母親は携帯電話を投げ捨てた。その携帯電話は、母親が亡くなるまで、病院の近くに住む従姉が預かってくれた。
 
姉が母親の顔を見たのは、母親の危篤を従兄から知らされて病院に駆けつけたときであった。しかし、すでに母親は亡くなっていた。姉は母親の遺骸にすがりついて泣き叫んだだという。時すでに遅し。そばにいたひとりの親戚の者が「友子ちゃん、ちっくと遅かったねえ」と言ったという。痛烈な皮肉であった。

母親の思い 1

父親が倒れた直後、姉と姉の長女が、私の母親と絶縁すると突然言ったことはこれまで繰り返し述べてきた。父親が倒れて入院した数日後のことであった。ふたりが絶縁を告げたとき、理由は何も話さなかった。私も彼らの発言をあまり気には止めなかった。またいつもの親子ゲンカをしたのだろう程度にしか考えていなかった。

ふたりが母親と縁を切ることを決めた理由は、母親が姉に対してよりも私に少し多めに遺産を残したいと言ったことが理由であることを姉の長女(私の姪)から直接聞かされた。姪は、「お婆ちゃんはお母さんよりもおじちゃんに少し多めに遺産を残したいと言った。だから許さない」と言った。

この姪は、自分の母親(つまり私の姉)が内密でどれほど莫大な経済援助を受けてきたのかを全く知らされていなかった。姉は実家からの援助をひたすら隠し通した。

姉はまとまった金がほしくて仕方がなかったようである。姉が入信しているエホバの証人の最終ステージの講習会を受けるために多額の受講料を支払わなくてはいけなかったらしい。このことは私の従姉から聞かされた。「最終段階の講習会」という表現をその従姉は使った。ということは、姉はそれまでに前段階の講習会を何度か受講し、それなりの受講料を払ってきていたのであろう。姉は母親から受け取った金のかなりの金額をエホバの証人に貢いでいたに違いない。

裁判の席で、姉は、エホバの商人からは一切金の請求はなかった。支払っても千円程度であったと証言したが、そんなはずはない。その従姉の姉も、私の姉の陳述を全く信用しなかった。「人が生きていくためにはお金が必要である。そんなわずかな金ですむはずがない」と彼女は言った。彼女もある宗教に入信しているので、宗教団体の実情をよく知っており、そう思ったのであろう。彼女は、自分も家族も幸せにしない宗教はやめるべきであると私の姉に忠告したが、姉は聞き入れなかった。

話を本論に戻す。

両親には自分が築いた財産を全て使って人生の最期を楽しく過ごしてもらいたいというのが私の希望であった。したがって事あるたびに、お金を使うようにと母親には話した。母親は何回か私が勤務している病院に入院したが、毎回、大部屋であった。個室に入院すればいいのにと私は思った。しかし高知から遠く離れて東京で入院生活を送る母親は個室では淋しいだろうと思った。また、父親は、金銭的なことも考えていたようだ。父親は「幸伸の体面を考えれば、個室に入院させた方がいいかもしれないが・・・・」と複雑な心境をのぞかせた。私は何も意見を言わなかった。両親の財産は両親のものであると考えていたからだ。

父親とも母親とも、私は遺産相続について一切相談したことはない。父親が倒れ、姉と姉の長女から絶縁を言い渡されたあと母親は遺言状を残したが、私はその遺言状の文面は一切読まなかった。その遺言状には母親の遺産の全てを私に譲ると書かれていたようであるが、遺言状を今まで私は一度も読んでいない。母親の遺言状の処理も弁護士と税理士に全面的に委ねた。

姉と姉の長女は、私が両親との間でこっそりと遺産を独り占めする相談をしていたはずだと思い込んでいるように思えるが、馬鹿げた妄想である。そんなことは考えたことすらない。そんなことを思いつく彼らこそ、彼らが私の立場であったら、両親の遺産を独り占めするためにはどうすればいいかと策をめぐらしたことであろう。他人の物を盗んだりだまし取ったりしようといったことは一度も考えたことがない私と私の家内には、そのような発想は全く湧いてこない。