2018年5月24日木曜日

改葬 6

我が家代々の墓地が我が家の所有でなかったことは既に書いた。このことを私が知ったのは実家のご近所の方から教えてもらったからであった。その人は、私が別のことを依頼していた司法書士からそのことを聞かされたと言った。私自身は、その司法書士からは何も聞かされていなかった。市役所に出かけてその墓地の所有者を確認したところ、確かに我が家の墓地は我が家の所有ではなかった。隣りの家の持ち物であった。

私はその司法書士に電話をかけ、事情を尋ねた。しかしその司法書士は口を濁し、私にではなくご近所の方にそのことを話した理由を説明してはくれなかった。私の家の事情を当事者である私には何も話さず第三者に話すことは司法書士として失格ではないか、そう考えた私は、それ以後、その司法書士には何も依頼しないことにした。ただ、その司法書士を私に紹介してくれた知人には事情を話さなかった。その知人は私に不信感を抱いたかもしれないが、その知人とその司法書士との仲が壊れることを私は憂慮した。

介護は単なる看護ではない。ましてや面会でもない。介護離職という言葉が最近よく聞かれるが、私はその事情がよく理解できる。仕事を持っている私が東京と高知とを往復しながら両親の介護をすることは実に大変であった。

2018年5月22日火曜日

改葬 5

私の実家の墓を掘り起こす作業にはひとりの従兄が私と一緒に立ち会ってくれた。このことは既に書いた。私がこの従兄に立ち会いを依頼したのは、作業開始日、私が朝早く墓地に行けないためであった。その日の始発便で東京を発っても、高知の実家に着くのは早くとも午前11時になった。朝9時前に実家に着かなければ、作業開始時に作業員の方々に挨拶したり墓地の説明をすることができなかった。

墓を掘り起こす作業は、土曜日と日曜日に行った。正確な日は憶えていないが、2014年の1月ではなかったかと思う。その従兄は嫌がらずに立ち会いを引き受けてくれた。昼前に私が実家の裏山の墓地に駆けつけると、既に作業はかなり進展していた。実に手際がよかった。

私は、この作業を行う前日、墓を掘り起こすことをもうひとりの従姉に電話で連絡した。その従姉は、東京に墓地を移転するようにと進言してくれた、父親の兄の長女であった。彼女は別の予定が入っているのでその作業には立ち会えないと言った。私は、内心、安堵した。墓を掘り起こす作業に立ち会うことは決して愉快なことではない。私は國弘家の嫡男であるから私が立ち会うのは当然のことであろう。しかしたとえ親戚といえど他家の者が墓を掘り起こす作業に立ち会う義務はない。私が彼女に電話を入れたのは、墓の移転を勧めてくれた彼女に進捗状況を知らせるのが礼儀だと思ったからだけであった。私は「わかりました」と答えてそのまま電話を切った。

ところが、それから程なくして、その従姉の妹が激怒しているということが私の耳に入った。墓を掘り起こす作業について私が連絡しなかったからだという。

確かに、その怒っている従姉の本籍が私の実家になっていることを私は本人から聞かされたことがあった。しかしその当時もまだ彼女の本籍がまだ私の実家になっているのかどうかについては、彼女は語らなかった。彼女は中学校卒業と同時に県外に出ていった。それ以来50年間、私は彼女と会ったこともなければ電話で話したこともなかった。彼女が私の実家の墓参りに来たことがあるといったことも聞いたことがなかった。だから、四国を離れて遠くに住んでいるその従姉に墓を掘り起こす作業に立ち会ってもらうといったことは全く考えもしなかった。

そんなことがあって以来、私はその従姉と再び疎遠になった。ただ、東京で墓が完成したならばそれを彼女に知らせようとは思っていた。

東京の墓が完成したのは翌年(2014年)の3月であった。私は完成したばかりの墓石を写真に撮り、彼女に送った。ところが残念なことに、私が送った写真は見られないという返事が届いた。私は写真を圧縮し、再度彼女に送った。しかし、やはり写真は見られなかった。何度も写真の圧縮を繰り返しては彼女に送ってみたが、その写真は見られないということであった。

私は彼女の携帯電話はスマートフォンなのかどうかをメッセージで尋ねた。彼女からはガラケイだという返事が届いた。スマートフォンとガラケイとの間では写真のやりとりができないのだろうと思った私は、「なら、見られないかもしれない」とメッセージを送った。

そうしたところ、彼女から突然、激しい文面の写真が届いた。「わるかったな。どうせ私は貧乏人だからスマートフォンは買えんわ。金がないから自宅のインターネット回線も解約した」という文面であった。私は単にスマートフォンとガラケイとの間には規格の違いがあるのでないかと言っただけであった。しかし、彼女からはもう返事はなかった。

以来、彼女は親しい人に対して私を目の敵にする発言を繰り返しているという。

改葬 4

墓をめぐっては驚きの連続であった。

2013年6月下旬に父親が倒れて入院したあと、私の帰省時に、ご近所のご夫婦が私を訪ねてきた。私の父親が所有している畑にその家の墓石が建っているという。しかし、その畑の購入代金は20数年前に既に私の父親に払っているということであった。そのご夫婦は父親が出した領収書を手にもっており、私にそれを見せてくれた。

我が家が所有する畑に他人の墓が建っているとは。驚きであった。そのようなことを両親から聞かされたことはなかったが、合点はいった。その家は農家ではなかった。だから、その畑の所有権を変更することができなかったのであろうと私は推測した。

私はそのご夫婦に連れられて、墓が建っている畑を見にいった。猫の額ほどの狭い畑であった。そこには苔が生えている墓石が建っていた。確かに建立したばかりの墓石ではなかった。

私はこの件を母親に問いただすことはしなかった。司法書士に依頼し、そのご夫婦とその司法書士とが直接相談し合って畑の所有権を移転してもらうことにした。ほどなく、所有権の移転が無事終わったとの、そのご夫妻から連絡をいただいた。

改葬 3

新しい墓地は決まった。家庭裁判所からも改葬許可が得られた。しかしその後も大変であった。市役所からも改葬許可をもらわねばならなかった。過去70年間に亡くなった先祖の戸籍一覧を市役所で発行してもらったが、全ての先祖の名前が✖️印で取り消されていた。人の生は単にひとつの✖️印でこの世から抹消されるのだと思うと、虚しさを感じた。私の両親の名前も同様に✖️印ひとつで抹消され、親しかった人たちからも忘れ去られていく。

土葬されている先祖の墓を掘り起こすにあたっては、まず菩提寺に依頼して魂抜き(閉眼供養)をしてもらわなければならなかった。閉眼供養の当日には、私の家内と息子も立ち会った。住職はひとつひとつの墓の前で読経した。そして読経が終わると、クルッと墓石を捻り、向きを変えた。この閉眼供養の儀式は1時間近く続いた。儀式が終わった後、短時間、住職と会話を交わした。その際、我が家の宗教が真言宗になったのはそんなに昔のことではないと聞かされた。先祖の戒名からわかるのだという。驚きであった。元々は何宗であったのか、どうして真言宗に改宗したのかについても聞かされたが、残念なことに、それらについては忘れてしまった。

墓を掘り起こす作業は専門業者に依頼した。二日がかりであった。この作業には私とひとりの従兄が立ち会った。驚いたことに、殆どの墓で遺骨は亡くなっていた。残っていたのは、50年前に亡くなった祖母の遺骨と30年前に亡くなった祖父の遺骨だけであった。祖母はビニール袋に包まれて埋葬されていたためか、祖父よりもしっかりとした骨が残っていた。作業員の方々は祖父母の遺骨を丹念に拾い集めてくれた。遺骨が残っていない墓からは、一握りの土だけを丸めて布袋に入れた。そう、人は死ぬと、土に還るのだ。

ほとんどの墓からは一握りの土しか回収できなかったため、東京で設けた墓に容易に納骨することができた。魂入れ(開眼供養)の儀式は、インターネットで探した名も知らぬ僧侶に依頼した。父親の四十九日の納骨の直前であった。

父親の納骨の日には、別の僧侶に読経を依頼した。私と私の家内、そして一人息子が立ち会うだけの寂しい四十九日であったが、父親はきっと喜んでくれているだろうと思った。

2018年5月10日木曜日

改葬 2

改葬にあたっては、単に新しい墓地を設ければよいというものではなかった。家庭裁判所の許可を得なければならなかった。家庭裁判所から改葬許可をもらうためには、改葬が父親の意志に添うことであることを家庭裁判所に証明する必要がある。この作業には、司法書士であり、かつ後見監督人となった古くからの友人が奮闘してくれた。彼は我が家の親戚や父親が接触していた霊園業者の方たちに聞き取り調査をしてくれた。そしてその面談結果を元にして、家庭裁判所に提出する書類を書いてくれた。実に長い文章であった。その文章からは、彼の私に対する思いやりや彼の人柄が滲み出ていた。ただ、ひとつひとつの文がとても長く読みにくい文章であった。彼とファックスのやり取りをしながら文章を推敲した。

1ヶ月以上かかったが、彼の尽力のお蔭で墓地を東京に移す許可を家庭裁判所からもらうことができた。

その後、他のことでも彼には随分力になってもらった。得難い友人である。

改葬 1

父親が倒れた後は、全ての雑務を私が代行しなければならなかった。母親とは会話ができたが、母親も父親の入院から6週間ほど後に入院した。退院できる見込みはなかった。しかも我が家では、長年、父親が財布の紐を握ってきていた。そのため、銀行口座のことや田畑のことなどを母親に尋ねても何一つ明確な返事が戻ってこなかった。なんと母親は、自分の年金が振り込まれる口座の通帳すら父親に預けていた。自分名義の預金がどれほどあるのかも知らなかった。したがって私は、両親が行うべき雑務を代行するにあたって、ほとんど全てのことを自ら市役所や銀行に足を運んで確認せねばならなかった。

土佐市役所で両親名義の土地を調べて驚いたのは、墓地が我が家の所有ではなかったことであった。隣りの家の土地であった。その墓地には江戸中期以来の我が家の先祖が埋葬されていた。つまり、300年にわたって我が家は隣りの家の土地をずっと借用していたわけである。祖父母からも両親からも我が家の墓地が隣りの家の所有であることは一度も聞かされたことがなかった。300年間も我が家が利用してきた以上、その土地は法律的にはもう我が家の所有物と考えてもいいであろうとも私は考えた。しかし先祖は全て土葬されていた。土葬されている先祖の遺骨を掘り起こさなければ、その墓地には死期が迫った両親を埋葬するための納骨堂を設けるスペースすらなかった。

父親は、そのことも考慮してか、まだ元気な頃、実家の裏山に納骨堂を造っておいてくれていた。その納骨堂には縁あって國弘家が供養することになっていた他家の遺骨が納められていた。我が家の先祖代々の遺骨をその納骨堂に移そうとも考えた。しかし納骨堂が設置されていたのは畑であった。市役所に問い合わせると、その納骨堂は移設するよう求められた。

私は業者に依頼して墓地を探してもらった。最初は土佐市内の霊園を紹介された。その霊園を下見に行った 。しかしその霊園は小高い山の北側の斜面にあり、少し日当たりが悪く湿っぽかった。また、夏であったこともあり、雑草が生えていた。そのため、別の霊園を探すことにした。次に紹介されたのは高知市内の霊園であった。高知市街を見下ろす小高い山の頂上近くにあった。南側に面しており日当たりもよかった。高知空港からも近かった。この霊園に我が家の墓地を移そうと東京の自宅に戻った。

しかし、9月になって、ひとりの従姉から、墓地を東京に移すように勧められた。自宅に近い場所に墓がなければ先祖の供養ができないというのが理由であった。その従姉はとても信心深かった。

このことを母親に話すと、母親はその考えに賛成してくれた。私は、父親のベッドサイドに行き、墓を東京に移すことを告げた。その頃には、父親も母親も共に土佐市にある白菊園に入院していた。当然、父親は返事しなかった。しかし私は、きっと父親も賛成してくれるだろうと思った。

私と私の家内は東京で霊園を探し始めた。家内は多くのパンフレットを取り寄せ、それらの霊園に下見に行ってくれた。時間があるときには、私も家内に付き添った。

しかし墓地探しは難渋を極めた。霊園はたくさんあったが、いずれも帯に短し襷に長しであった。母親が真言宗の寺に拘ったことも墓地探しが難航した大きな理由であった。私の家の宗教は真言宗豊山派であったが、どの寺でも改宗を求められた。しかし母親は頑として改宗を拒否した。

やっとここにしようと思える霊園が見つかったのは、2013年の年末であったように思う。その霊園がある寺の宗教は真言宗ではなかった。しかし 改宗は求められなかった。その寺の敷地の一部を宗教自由の墓地として開放しており、いかなる宗教も受け入れてくれた。

私たちは、その墓地を管理している業者と墓石の打ち合わせを始めた。暮石に刻印する文字や家紋についても話し合った。

墓地が完成したのは、父親の四十九日の法要の数日前のことであった。父親の四十九日の法要は私と私の家内と私の一人息子の3人だけで執り行った。ひとりの僧侶が読経してくれた。ごくごく少人数の法要であったが、亡き父親はきっと喜んでくれているだろうと私は思った。

2018年5月3日木曜日

20歳

きょうは5月3日、憲法記念日。息子の誕生日でもある。きょう、息子は20歳になった。

一昨年まで、息子の誕生日はいつも軽井沢で祝ってきた。しかし、昨年、息子が大学生になって以来、息子はゴールデンウィークはクラブ活動のため家を留守にするようになった。今年は昨年と同様に私はゴールデンウィークを家内とふたりで過ごしている。

昨夜、都内の道路も高速道路も大渋滞であった。パーキングのレストランも満席であった。一夜明けたきょう、軽井沢はどこへ行っても家族づれで賑わっている。

のどかである。