2014年6月20日金曜日

土佐弁

6月14日から16日まで高知に帰省した。母親との面会と空き家になった実家の管理が目的である。今年3月7日に父親が亡くなってからも、月に1回は帰省する。

普段は、ほとんど人と話すことがない。しかし今回は多くの人たちと会話を交わす機会があった。

当然のことであるが、母親、親戚、実家の隣人たちと話すときには自然と土佐弁になる。しかし、その他の人たちと話すときには、相手が高知県の人であっても土佐弁が出ない。土佐弁で話そうとしてもぎこちない土佐弁になってしまう。

なぜだろうと、この数日間、ずっと考えていた。やっと答えらしきものが見つかった。

私は高校卒業と同時に東京に出てきた。短期間、横浜や宇都宮に住んだことはある。2年ほど留学もした。しかしほとんどの時間を東京で過ごしてきた。高知で過ごした年数よりも東京で暮らした年数の方がはるかに多くなった。

ただ、高知を何年間離れようと私のアイデンティティーはずっと「土佐の高知」であった。私は常に自分が高知出身であることを強く意識しながら生活してきた。そしてそのことを誇りに思ってきた。東京には住んでいても自分自身が東京の人間だとは思ったことがない。

しかし、不思議なことに、高知に帰ると、逆に、自分はもう純粋な土佐人ではないという感情にとりつかれる。高知の街並みも私の実家の田園風景も全てが懐かしい青春時代の思い出の光景となってしまう。高知の景色も高知での思い出も、すべてが私の思い出の中に入ってしまっているのだ。

私が東京に出てきたあと知りあった人に対しては、たとえその人が高知の人であっても私は無意識に遠慮を抱く。初対面の人に対する遠慮は東京では欠かすことができない。その生活習慣がいつしか私の心の深くまで染みこんだのであろう。

高知龍馬空港に下り立ち、到着ロビーの階段を下りる際にまず目に留まるのは、「高知家」という垂れ幕である。

高知への帰省中は、私がどこに行っても土佐弁で迎えてくれる。私が東京に住んでいるからといって東京の言葉で話しかけようとする人はいない。私が高知で生まれ育ったことを話すと、ことさら親しげに話しかけてくれる。

土佐弁は私にとって単なるひとつの方言ではない。私に話しかけてくれる土佐弁のひとつひとつは、高知を離れて40年近く経った今も、私を「高知家」の一人として迎え入れる歓迎の挨拶そのものなのだ。

2014年6月11日水曜日

死について 1

7〜8年前、私の友人のお母さんが亡くなった。死因は交通事故。彼のお父さんが運転している自動車の助手席に乗っているときに対向車と正面衝突した。即死であった。

この知らせを友人から私が受けたのは、その交通事故から数日後であった。そのとき、彼は、お父さんが入院している病院から電話をかけてきた。

私はしばらく言葉を出せなかった。しかし彼はきわめて冷静であった。そして彼のお父さんが交通事故を起こした原因について医学的な質問を私にぶつけた。

私は彼の質問に答えながら、人生の皮肉に愕然とさせられた。不幸は、家族の間の愛情とは全く関係なく襲ってくる。まさか、あんなに円満な家族にこんな不幸が襲うとは・・・。

彼のお母さんの死は、彼のその後の人生を大きく変えた。昨年、お父さんが亡くなるまで、彼は欠かさず月に2回帰省した。そしてお父さんに代わって農作業をした。田んぼや畑に草を生やしたままにすると隣の土地の持ち主に迷惑がかかるからといって、彼は全く収入にならない稲や文旦の栽培を汗水垂らしながら続けた。文旦の収穫の時期には、私の家に収穫した文旦を山のように送ってくれた。

そんな彼が時折私に寄こしたメールには、彼が高知空港に降り立っても誰も迎えてくれないことへの寂しさが綴られていた。彼が帰省するたびに「帰ってきたかよ」と出迎えてくれるご両親の姿がないことを彼は悲しがった。

彼は悲しみをこらえて「俺は、残った親父に孝行する!」と言った。そしてそれを実行した。

彼は、「これからはもう、自分のしたいことしかしないぞ!」とも言った。

つい先日も彼は帰省したらしい。彼の実家には誰も住んでいない。墓を掃除し畑の手入れをしたという。腰が痛くて仕方ないと彼からのメールには書かれていた。お父さんが亡くなった後も、彼は月に1回は実家に戻っている。

名古屋に家を構え、もう高知に帰ることがない彼が、なぜ今もその土地を手放さないのか、その理由が私にはよくわかる。彼にとってその土地は、彼の心の中で生きている両親そのものなのだ。

私は、彼とは対照的に、私の父親が生前着ていた服は処分した。土地もほとんど親類に譲った。私の父親が生きた証は、私の心の中で生き続ければいいと思っている。そして私が死ねば、私の父親を思い出す人はいなくなる。そのとき、父親が生きた証もこの世から全て消える。

親に死に対する私たちの対応は対照的である。しかし、親を失った悲しみには、大きな差はないだろうと思う。

2014年3月23日日曜日

実家の掃除

今年3月7日に父親が亡くなった。

一昨日から実家で父親の遺品を片づけている。その最中に、私の母親がつくった歌が見つかった。決してうまい歌ではないが、防備録として記しておく。

百日紅赤く咲いても心は暗い
何を頼りに生きればいいの

重すぎる心の痛みよ
分かち合う娘倒れし ただ泣くばかり

2014年2月15日土曜日

先週に引き続いて大雪である。

雪を見ると今でもいつも思い出すことがある。一人息子が幼かったときのことだ。

息子が3歳の頃から小学校5年生になるまで、私たち夫婦は毎冬、息子を一人でスキー合宿に行かせた。息子の友達も一緒に行ったわけではない。全く知らない人たちばかりのツアーに参加させたのだ。その他にも、毎月1回、日曜日の昼、日本野外活動研究会(日野研)が開催するアクティビティーに一人で行かせた。

私たち夫婦が最も心配したのは、息子がそれらに参加して楽しかったかどうかということであった。息子は帰宅してもスキーツアー中の出来事や野外研究会でどんなことをして遊んだかということについて自ら語ることはなかった。しかし引率してくださるインストラクターの方々からは、息子がそれらの活動をとても楽しんでいたと報告を受けた。私たちは安堵した。

決して人懐っこいと思えなかった息子にとって、このような見知らぬ人との接触が必要であると考えた。ただ、息子の心理的負担になっているのではないかと、いつも心配した。だから、毎回、本人の希望を確認した。息子は、毎回、また行くと答えた。

息子が5歳の頃、私は息子を4泊5日のスキーツアーに参加させた。5歳児にとって、両親と離れて身も知らぬ人たちと5日間過ごすのはつらかったであろう。そのツアーから帰った直後は、数日間、息子は母親に甘えた。ただ、夫婦間でも息子との間でも、そのことについて話すことはなかった。

息子が幼い頃から見知らぬ人たちに混じって一人でいろいろの活動に参加できたのは、幼いなりに息子が私たちの愛情を感じていたからであろうと思った。

2014年2月9日日曜日

両親が倒れて 1

昨年6月27日に父親が出血性脳梗塞で倒れた。その日のことについては、改めて詳しく書くこととする。

私は、両親と40年間離れて暮らしてきた。わが家ではすべてを父親が取り仕切っており、母親は自分の預金通帳すら持たせてもらえなかった。当然、母親は自分名義の預金がどれほどあるのかすら知らなかった。そのうえ、母親は長年にわたって慢性間接リウマチを患い、手も足も目を逸らしたくなるほど変形している。右肘には人工関節が入っている。また、頚椎を骨折し、四肢マヒになったこともある。当然、歩くこともままならない。

こんな母親を介護していた父親が倒れたのだ。私は途方に暮れた。

悪いことは重なるものである。なんと、父親が倒れて入院してから2ヶ月も経たない8月13日に、今度は母親が脊椎の圧迫骨折で緊急入院した。その日、高知では日本での最高気温を記録していた。猛暑で弱った母は、椅子から腰を滑らせてしまったのであった。その連絡を私は軽井沢で受けた。しかしお盆の真っ最中であり、軽井沢から高知まですぐにかけるけることはできなかった。私は親戚や近所の人たちに両親の世話を頼んだ。ありがたかったことに、いろいろな人たちが母親の世話をしてくれた。

私が帰省したのは、それから数日後であった。

我が家は空き家となった。もう父親も母親もこの家に住むことはない。誰もいないひっそりとした実家で、私は、昼間はひたすら書類の整理を急いだ。掃除や庭の草むしりもしなくてはならなかった。朝と夕方には別々の病院に入院している両親を見舞った。夜は高知市内のホテルにひとりで泊まった。しかし、夜中に何度もうなされて目が覚めた。

父親の容体は一日ごとに悪化した。母親の背中の痛みもなかなか和らがなかった。寝返りすら打てない日が続いた。

2013年12月10日火曜日

帰省して

今年の6月末に父親が倒れてから、帰省することが急に増えた。しかし父親を見舞っても、父親の病状は私が病院を訪れるたびに悪化していく。父親と同じ病院に転院した母親の病状は落ち着いているが、回復は望めない。実家は空き家になっている。

誰も住んでいない実家に帰ると、両親の書類の整理。金庫を開け、箪笥の引き出しのなかの書類を取り出してはひとつひとつの書類に目を通す。最初は金庫の開け方すらわからず、とまどった。

驚いたことは、私と私の姉の通知簿が風呂敷に包まれて箪笥の引き出しのなかに大事に仕舞われていたことである。小学校1年生の通知簿からすべて揃っていた。私が大学に合格した際に大学から送られてきた書類も残されていた。

大切な書類が紛れていないか、実家の1階をくまなく探した。しかし、父親の運転免許証はどうしても見つからなかった。

書類に一通り目を通す作業だけに3か月を要した。その作業の合間に、自宅の掃除、庭の草むしり、倉庫の荷物の整理、そして墓掃除。天気がいい日には窓を開け布団を干さなければならない。あっという間に一日が終わった。

平日は、朝から銀行と役所回り。朝食も昼食もゆっくり食べる時間がなかった。車を運転しながらパンをかじった。

先祖代々の墓地も移さねばならなかった。この手続きにも莫大な時間をとられた。

何もかにもが初めての経験であった。と、同時に、両親が辿ってきたこれまでの人生を息子の目から見つめ直す貴重な機会でもあった。

2013年12月9日月曜日

久しぶりに

久しぶりに投稿する。

このブログを書くのを中断してからどれほど経ったであろうか。2年以上経つかもしれない。ブログを書かなくなった最も大きな理由は、息子が思春期を迎えたことであった。息子が変化していく姿を眺めていると自分自身の思春期の思い出が次々とよみがえってきた。中学・高校時代は、私の人生のなかで最も不幸な時期であった。思春期は多感な時期であるからといった理由だけで片づけることはできない。

ただ、息子はいつの間にか15歳になった。思春期の真っ最中である。幸い、友達にも恵まれ、毎日、楽しそうに学校に出かけていく。塾も楽しそうである。残念なことは、今年6月27日に父親が脳梗塞で倒れたことである。半身不随となったばかりでなく、会話もできない。8月13日には母親も胸椎骨折で入院した。二人ともまだ入院中である。退院のめどは立たない。それどころか、父親の病状は日々悪化していく。おそらく1年以内に亡くなってしまうであろう。

突然、両親の後見人を務めることになった私は、つい最近まで途方に暮れていた。両親と私は40年間離れて暮らしてきた。当然、家計も別々である。わからないことばかりであった。

最も苦労したのは父親が所有する不動産の始末であった。田舎の山奥の土地を欲しがる人などいない。いや、それ以前に、父親が所有する土地がどこにあるのかすらわからない。市役所に出向き、名寄帳と切り図をコピーしてもらった。それだけが父親の土地を見つけだす唯一の手がかりであった。雨の中、切り図だけを手がかりにいくつもの山をかけずり回った。孤独な作業であった。

幸運だったのは、実家の近所の人たちや親戚が助けてくれたことである。銀行に行っても、そこには必ず知人や高校時代の同級生がいて相談に乗ってくれた。ありがたいことであった。

父親が倒れて5か月余り。実に多くの親戚や隣人、知人と会って話した。彼らの印象は数十年前と全く変わっていなかった。

父親の人生をきちんと終ってあげなければならない。しかし父親の命はもう長くない。時間との競争である。数十年ぶりに故郷の土地・人びとと接しているうちに、少しずつではあるが私自身の青春時代を懐かしく振り返ることができるようになってきた。このことだけが唯一の救いである。