6月14日から16日まで高知に帰省した。母親との面会と空き家になった実家の管理が目的である。今年3月7日に父親が亡くなってからも、月に1回は帰省する。
普段は、ほとんど人と話すことがない。しかし今回は多くの人たちと会話を交わす機会があった。
当然のことであるが、母親、親戚、実家の隣人たちと話すときには自然と土佐弁になる。しかし、その他の人たちと話すときには、相手が高知県の人であっても土佐弁が出ない。土佐弁で話そうとしてもぎこちない土佐弁になってしまう。
なぜだろうと、この数日間、ずっと考えていた。やっと答えらしきものが見つかった。
私は高校卒業と同時に東京に出てきた。短期間、横浜や宇都宮に住んだことはある。2年ほど留学もした。しかしほとんどの時間を東京で過ごしてきた。高知で過ごした年数よりも東京で暮らした年数の方がはるかに多くなった。
ただ、高知を何年間離れようと私のアイデンティティーはずっと「土佐の高知」であった。私は常に自分が高知出身であることを強く意識しながら生活してきた。そしてそのことを誇りに思ってきた。東京には住んでいても自分自身が東京の人間だとは思ったことがない。
しかし、不思議なことに、高知に帰ると、逆に、自分はもう純粋な土佐人ではないという感情にとりつかれる。高知の街並みも私の実家の田園風景も全てが懐かしい青春時代の思い出の光景となってしまう。高知の景色も高知での思い出も、すべてが私の思い出の中に入ってしまっているのだ。
私が東京に出てきたあと知りあった人に対しては、たとえその人が高知の人であっても私は無意識に遠慮を抱く。初対面の人に対する遠慮は東京では欠かすことができない。その生活習慣がいつしか私の心の深くまで染みこんだのであろう。
高知龍馬空港に下り立ち、到着ロビーの階段を下りる際にまず目に留まるのは、「高知家」という垂れ幕である。
高知への帰省中は、私がどこに行っても土佐弁で迎えてくれる。私が東京に住んでいるからといって東京の言葉で話しかけようとする人はいない。私が高知で生まれ育ったことを話すと、ことさら親しげに話しかけてくれる。
土佐弁は私にとって単なるひとつの方言ではない。私に話しかけてくれる土佐弁のひとつひとつは、高知を離れて40年近く経った今も、私を「高知家」の一人として迎え入れる歓迎の挨拶そのものなのだ。
土佐弁は私にとって単なるひとつの方言ではない。私に話しかけてくれる土佐弁のひとつひとつは、高知を離れて40年近く経った今も、私を「高知家」の一人として迎え入れる歓迎の挨拶そのものなのだ。
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