2012年3月11日日曜日

東日本大震災から1年

東日本大震災からちょうど1年になる。あの日のことは生涯忘れないだろうと思う。

地震が起きた日は金曜日であった。私は午前中の外来が長引き、まだ耳鼻科外来で診療を続けていた。縦揺れのすざましい揺れであった。私は患者を私の机の下に退避させ、私自身は隣の部屋の机の下に潜った。私の診察についていた看護師は動転し、ただただ耳鼻科外来をどたばた走り回っていた。

どうも私は根が不真面目らしい。こんなときでも、あたふたしているその看護師に向かって「○○さんは太っているから机の下に潜れないの?」と笑ながら大声で何度か叫んだ。そして机の下で笑い転げた。

しかしその一方で、私自身は、「この地震のために自分が死ぬかも知れないし死んでもかまわない」と思った。天井が崩れ落ちてきたら、それは私の寿命なのだと思っていた。それまでの自分の人生に関して後悔の念も湧いてこなかった。

揺れは一旦収まった。そのため私は外来診療を再開した。そのとき再度大きな揺れがやってきた。揺れは長く続いた。

ちょうどその頃、家内は山手線に乗っていたという。秋葉原駅から御徒町駅の間で電車の揺れが始まった。電車は御徒町で一時停止することなく上野駅まで行った。しかし御徒町から上野駅までの間で揺れは更に大きくなった。そして上野駅で電車は停まった。家内は上野駅で電車から降りると大急ぎでタクシーに乗り帰宅した。帰宅すると、息子が通っていた小学校から、迎えに来るようにというメールが届いた。家内はタクシーを拾い、茗荷谷にある息子の小学校に向かった。そしてそのタクシーを待たせたまま校門をくぐった。

地震が起きたとき、息子は講堂で卒業式の練習をしていたという。幸い、息子も含めて子供たちは誰もけがをしなかった。(しかしその講堂は大きく傷み、10日あまり後の息子の卒業式は場所を変更せざるをえなくなった。)

息子が無事であったことは家内からのメールで知った。私も自分の無事を伝えた。

その晩、私は病院に泊まった。床の上でそのまま雑魚寝であった。肌寒かった。

地震が起きた後の病院の職員の対応と帰宅できなくなった患者さんたちの冷静な行動は忘れられない。

生きていくことは常に危険と背中合わせである。それらの危険を確実に防止することはできない。交通事故に遭うのがいやなら家に閉じこもっているしかないであろう。いや、たとえ家に閉じこもっていたとしてもトラックが家に衝突することがあるかもしれない。地震で家が崩れ落ちることがあるかもしれない。交通事故や天災には見舞われなくても病気なるかもしれない。仮に病気になることがなかったとしても、全ての人が老い、そして死んでいく。

それを百も承知であったとしても、親を亡くした幼子(おさなご)の話を聞くと、言葉を失う。

2012年3月3日土曜日

二人の天使

きょうは土曜日である。息子は私が目を覚ます前に学校に出かけた。私はいま、リビングのテーブルに座り、家内と二人でのんびりとコーヒーを飲んでいる。ステレオから「二人の天使」が流れてくる。

「二人の天使」を聴くたびに私はある女性を思い出す。私が通った中学校・高校の同期生である。彼女と同じクラスになることは一度もなかった。

彼女と初めて話したのは、私が大学2年生の頃ではなかったかと思う。彼女は都内にある某女子大学に通っていた。彼女を私に紹介したのは私と同じ大学の経済学部に通っていた彼女の友人であった。女性二人は高校のクラスメートであった。

今、友達に異性を紹介するということは、交際を前提としたものになるのかもしれない。しかし当時はそうではなかった。私たち3人は、単に懐かしい同級生として何回かいっしょに食事をする程度であった。

しかし何がきっかけであったのかは記憶にないが、女子大に通うその女性と二人きりで会ったことがあった。場所は彼女の下宿先に近い上野公園であったように思う。彼女は私のためにお弁当を作ってきてくれた。いま振り返れば立派な「デート」であった。しかし当時の私にはそのような意識はなかった。彼女も東大生とつきあっていると私に話した。

彼女と二人きりで会ったことがそのあとあったかどうかは記憶にない。一度か二度はあったかもしれない。ただ、私が彼女の下宿に何度か電話したことはあった。

いつごろであったであろうか。突然、彼女と連絡がとれなくなった。電話をかけても出ない。そのうち、私は彼女のことをすっかり忘れてしまった。

それから何年か経って私が大学を卒業し、研修医として国立栃木病院に勤め始めたころ、突然、一通の手紙が届いた。差出人はその女性であった。どのようにして私の所在を突き止めたのかはその手紙に書かれていたのかもしれないが、記憶にない。

彼女は高知の実家に戻り、交際を続けていた東大生が大学を卒業して別の大学の医学部に入り直すのを待っていると書かれていた。

彼女からは1〜2か月に1回程度、手紙が届いた。手紙に書かれている内容はほとんど、その恋人の医学部入学をひたすら願う彼女の心情と彼女自身の近況であった。

そんな手紙のなかの一通に次のようなことが書かれていた。「私が、國弘さんではなく、○○さんを選んだのは、彼の方が國弘さんよりも頭がいいと思ったからです。」

(合点がいった。彼女と連絡がとれなくなったとき、彼女は彼と同棲を始めたのだ。)

「○○さん」という男性は、予備校に通っていたころの私を知っていたらしい。そして折に触れて、彼の方が私よりも予備校での成績がよかったと彼女に話していたようだ。

私は彼を知らないから彼の言っていたことが正しかったのか誤っていたのかはわからない。そんなことはどうでもよかった。ただ、彼の心は手に取るようにわかった。

今ならば、「彼女は私に気があるのではないか」と考えたであろう。しかし当時の私はそんなことは全く考えもしなかった。「彼女というのは試験の点数で人間の価値を判断する女性なのだ」と感じ、単に不愉快に思っただけであった。

彼女と最後に会ったのは、28歳の頃ではなかったかと思う。私が帰省したときであった。彼女はそのときもまた同じ言葉を繰り返した。

彼女を車に乗せ、彼女の自宅に送り届ける途中、私は彼女に厳しい言葉を吐いた。「君は女性として幸せになれないんじゃない?」

車の中での二人の会話はそれで途絶えた。

彼女を自宅のそばで降ろすと、彼女は後ろを振り返って私に挨拶することもなく自宅に向かって坂道を上っていった。

彼女はそれから間もなく結婚した。しかし、その男性とではなかった。

彼女の所在は同級生も知らない。同窓会に出席してくることもないらしい。

この彼女が一番好きな曲だと私に話したのが、さっきまで流れていた「二人の天使」であった。

2012年2月26日日曜日

東方神起

3日前の外来診療中のこと。30歳近い年齢の女性が受診した。彼女の髪は真黄色でおかっぱ。しゃべり方も幼く、どう見ても20歳そこそこにしか見えない。

診察中、彼女から飛行機に乗ってもいいかどうかと尋ねられた。東方神起を追いかけて4月中旬まで韓国に行くのだという。当然、東方神起など私が知るはずがない。

私が「東方神起って?」と尋ねると、彼女は携帯電話を取り出し、東方神起の写真を私に見せた。そして彼らについて熱心に説明した。「向かって左側は踊りがうまくて、右側は歌がうまい」、「左右どっちが好き?」、「胸がきゅんとしない?」などと、彼女の話は延々と続いた。彼らを見て私の胸がきゅんとすることなどあろうはずがないではないか。

彼女は最後に小声でぽつりと「いっしょにはなれないと思うけど」と言った。

私は「『いっしょ』とは?」と尋ねた。彼女は「結婚すること」と答えた。

うーん・・・。私は声が出なかった。

彼女は幼児や児童を対象としている仕事についているという。きっと彼女にはうってつけの仕事に違いない。彼女の幼い話し方も幼児や児童相手であればうってつけである。

韓流スターを夢中で追いかけ、自分の人生と重ね合わせるといったことは、10~20歳前後の若者であればよくあることであろう。しかし30歳近くなってもこのようなことがあるのか。

こんなことを言っている私も、彼女の携帯電話の東方神起の写真を何枚か私のiPhoneに収めた。彼らの写真を何度見返しても、私の胸がときめくことはないが。

(このブログは、本人の了承を得て書いた。)

追っかけ

最近、芸能人を追いかける若者の心理がなんとなくわかってきた。彼らの行動はノーマルだと思えるようになってきた。しかし、韓流スターを追いかける中年女性の心理はまだよくわからない。彼女たちは自分たちが若い頃に経験しておくべきことを経験しなかった一種の欠陥人間ではないかとすら思えることがある。

2012年2月25日土曜日

高知から

今週の月曜日の夜、私が卒業した高校の3年後輩からfacebookのメッセージが届いた。そのメールには、「土佐藩からお役目御免を言い渡され・・・」と書かれてていた。「土佐藩」とは、高知県庁のことである。彼は2年前に東京から高知に帰り、高知県庁で非常勤職員として働いていた。そのメールは、彼の失職の知らせであった。メールの最後には、彼かつくった下手な歌が添えられていた。

「土讃線ごとごと行けりやはらかき朝日に映える学生の顔」

私は返事を書いた。「これからどうするの?」

彼からはすぐに応答があった。「俳諧師」

私「松尾芭蕉?」
彼「一茶」

私が高校2年生の時、彼とは寮で1年間同室であった。彼のいいところは、どんなに追いつめられてもユーモアを失わないこと。愛すべきキャラの持ち主である。ただし、生活力がない。

翌朝、私は高知で司法書士事務所を営んでいる高校の同級生に電話を入れてその後輩の再就職の斡旋を依頼した。彼も私と同じ中学・高校で6年間寮生活を送っており、その後輩をよく知っていた。

彼は直ちに「よっしゃ。任しちょいてくれ」と力強く後輩の世話を引き受けてくれた。電話を切ると私はすぐ後輩に電話を入れた。そして彼の連絡先を教えた。

さきほど、後輩から連絡が入った。「○○さんにお会いし、今後の航路が定まりました。どうも有難うございました。詳細は今構築中です。取り急ぎ御礼まで。」

そして、彼がつくった下手な歌がまた添えられていた。

「どろめ漁終へし漁船は一線に並びて帰る浦戸湾口」
(「どろめ」とはイワシの稚魚。土佐の珍味。)

私はほっとするとともに、友達のありがたみをひしひしと感じた。

2011年8月20日土曜日

夏休み 軽井沢にて




お盆休みを家族と軽井沢で過ごしている。夏休みを軽井沢で過ごすのが恒例になった。義母が所有する別荘を使わせてもらっている。

今週の前半には日帰りであちこちにドライブに出かけた。白馬の栂池天狗原、蓼科に近いところにある白駒池、山梨県との県境に近い犬ころの滝、そして志賀高原。いずれの場所にも車で片道2時間~2時間半で行ける。幸い、前半は天気にも恵まれた。

週の後半には「軽井沢八月祭」が始まった。軽井沢八月祭は今年で5回目。軽井沢のあちこちで小さな演奏会が開かれる。ほとんどの演奏会は無料である。数年前には、一日中、軽井沢のあちこちでひらかれる演奏会巡りをしたこともあった。

しかし、今年の軽井沢八月祭はだいぶ規模が縮小されている。震災の影響でスポンサーが減ったのであろうか。軽井沢八月祭に引き続いて軽井沢国際音楽祭が開かれるためであろうか。今週の後半から天気が崩れたこともあり、私たちは教会で開かれた演奏会に一昨日と昨日でかけた。ただし、息子は別荘で留守番。

息子はクラシック音楽には全く興味がない。音楽そのものに興味がない。演奏会会場ではいつも演奏が始まると同時に眠ってしまう。それでも昨年までは一緒に演奏会についてきた。しかし、今年からは一人で留守番すると言い始めた。

きょう(8月20日)も朝から雨。夜とこんな雨の日には別荘でのんびりと読書をする。昨年までは歴史小説ばかり読んでいたが、今年は普段読まない本ばかり近くの本屋で買ってきては読んだ。”それでも「日本は死なない」これだけの理由”(講談社)、”日本経済、復興と成長の戦略”(朝日新聞出版)、”3・11に勝つ日本経済”(PHP研究所)、”震災大不況にダマされるな”(徳間書店)、”世界でいちばん! 日本経済の実力”(海竜社)、”2011年 ユーロ大炎上”(講談社)、”世界が感嘆する日本人”(宝島社新書)、そして”連合赤軍「あさま山荘事件」の真実”(ほおずき書籍)と”無縁社会”(文芸春秋)。

「あさま山荘事件」は、40年経過した今も私の頭には鮮明な記憶が残っている。この事件はこの軽井沢で起きた事件であった。当時まだ中学生であった家内は、事件があった年の夏、家族とあさま山荘と見に行ったという。今、その「あさま山荘」の周囲にはうっそうと木が生い茂っており、建物の下の山道からはなかなか見通すことができない。改築もされ、一見しただけでは、かつての「あさま山荘」であったのかどうかすらわからない。

”連合赤軍「あさま山荘事件」の真実”のなかの「あさま山荘事件」をきっかけとして発覚した「リンチ殺人事件」の記述も生々しかった。

今も世界では「正義」の名の下に数多くの殺人が行われている。今も世界のあちこちで続いている戦争のほとんどは宗教戦争である。当事者は「正義のため」としか言わない。しかしまぎれもない宗教戦争である。イスラム教徒キリスト教徒の紛争は将来もなくなることはないであろう。物事を善と悪の2つにしか分類できない一神教の宿命である。

“無縁社会”はNHKで放映された番組を本にまとめたものである。私は独身ではないし、一人だけではあるが息子もいる。姉や、姪、甥もいる。両親もまだ生きている。それでも将来、私も無縁社会のなかで孤独死するのではないかという不安感がないわけではない。

今、私の母親は入院しているが、残り少なくなった時間を自宅で過ごしたいと強く願っている。また、母親が自宅にもどれるかどうかはわからない。ただ、母親も、そして父親も孤独死することだけはない。「行旅死亡人」となることもない。

長くなった。明日の朝、東京に戻る。

2011年7月26日火曜日

思春期

このブログを書き始めて何年経ったであろうか。

本ブログを書き始めたのは、成長していく息子のその時々の姿を記録したいと思ったからであった。しかし、書きためたブログを読み直してみると、息子の成長を綴った文章は少なく、ほとんどは私自身の心象の描写であった。男親というのはこんなものであろう。

さて、今、息子は13歳。思春期を迎えた。

息子の思春期の芽生えを私が感じたのは、息子が10歳のときであった。今からちょうど3年前のこと。「暑い!」といって寝室のある2階から1階のリビングに降りていき、その晩、そこに置いてあるソファーの上で眠ったのだ。その夏、息子がリビングのソファーで独り寝をしたことがもう1回あった。いま振り返っても、やはりこのときが息子の思春期の始まりであったのだと思う。

もう息子は決して親といっしょに寝ようとはしない。

家内は、息子の行動のひとつひとつにとまどっているようだ。思春期の変化は男と女では大きく異なる。母親と娘にとって思春期は、親子関係から同性の親友関係への変化の時期なのかもしれない。しかし男にとって思春期は、精神的自立の時期である。特に、親からの精神的自立の時期である。最も感受性の強い時代でもある。

これから高校を卒業するまで、息子は精神は激しい嵐のなかをさまようであろう。この嵐を抜けたとき、息子には精神的エネルギーにあふれた逞しい若者になっていてもらいたいと願う。どんなに秀才であっても、精神的エネルギーがなければ人生の荒波を乗り越えていくことはできない。

息子が高校生になったら、「学校を1年休学して、これから世界一周してくる」と言い出すことがあるかもしれない。私はこのようなことが起きるのを心配しながらも、その一方でこんな突拍子もないことを息子が言い出すのをひそかに期待している。

これから息子がぶつかるであろう人生の荒波を乗り越えていく生きていく上で最も大切なものは、体全体からにじみ出る精神的エネルギーだと思う。粘り強い精神力である。もうひとつ重要なものがあるとすれば、それは作家の渡辺淳一氏が言う、「鈍感力」であろう。「鈍感力」は「楽観性」と言い換えることができよう。

鈍感力も一種の精神的エネルギーであろうが、いずれにしろ、これらを獲得する近道は、若い頃に多くの挫折を味わうことである。