2009年2月22日日曜日

ブログの作成には"MacJournal"が便利

私は2年あまりからブログを書くようになった。私がブログを書くようになったのは私には日記を書くという習慣がなかったからである。きょうから日記を書くぞと決めても長続きしたためしがない。私は何事につけても三日坊主である。ブログならば気が向いたときに書けばよい。そう思ったのだ。

ただし、私のブログは自分のために書いているのではない。また不特定多数の人のために書いているのでもない。10歳になる一人息子のためである。

私はまだ50歳代前半である。健康でもある。しかし何時何時死ぬかわからない。私が死ぬとき、息子に遺せる最も大きな遺産は父である私の思い出であろう。このブログを公開しておけば、いつか息子がこのブログを読むこともあろう。そんな思いから、私はこのブログを非公開とはしなかった。

ブログを書くにあたって、通常はブラウザを利用する。私もブラウザを用いて直接入力することが多い。しかし出先でブログを書こうと思い立つことがある。こんなときにはMacJounalというソフトを利用してブログを書く。このソフトを使用すれば複数のブログをまとめて管理することができる。ネットに繋げられたときにブログ用のサーバーにそのファイルをアップロードすればよい。原稿を校正しそれを再度アップロードすることによってブログを更新することもできる。MacJournalはMac OS X用のソフトウェアである。Windows用にはWinJounalというソフトウェアがある。ブログ用のソフトウェアにはいろいろのものがあろうが、私はこのほかにはiPhoneで使用できるものとしてiBloggerを利用しているだけである。ただしiBloggerでは画像のアップロードができない。

MacJournalの特長のひとつは、アップル社のMobileMeに加入していればMobileMeを利用したファイルの同期ができることである。したがって複数のコンピュータで同じファイルを共有できる。ただし、1ファイルあたり5MBを越す容量のファイルは同期できない。ファイルの中に画像を貼り付けるとすぐにファイルサイズが5MBを越してしまう。もっと大きなファイルの同期もできればいいのだが。

何か思いつくとノートパソコンを開く。電車の中で立ったままでパソコンを開くこともある。すぐに作業ができるように電源は常に入れたままである。私はMacBook Airを持ち歩いている。MacBook Airは軽いので用い歩いても苦にならない。昨年の暮れに型落ちしたものを40%引きで購入した。

このMacBook Airを購入する前、私はMacBookを持ち歩いていた。しかしMacBookは重い。出先で作業をしようと思ってMacBookを持っていっても、出先でどっと疲れが出てしまう。結局何もしないまま重いMacBookを持ち帰ることになる。長い間、こんなことの繰り返しであった。

MacBookの重さは1.3キロ。ディスプレイも文章を書くだけならば十分な広さがある。速さも十分。バッテリーも3時間以上もつので、長時間の移動をしない私には十分である。

最近はネットパソコンがよく売れるという。私もMacBook Airを購入する前にはネットパソコンの購入を真剣に考えていた。しかしバッテリーを挿入するとMacBook Airとほぼ同じ重さになる。しかもスペックはMacBook Airよりもはるかに低い。デザイン性にも劣る。

MacBook AirとMacJounalの組み合わせには満足している。

2009年2月16日月曜日

早寝と早起き

早起きは爽快である。この爽快さは何から来るのであろうか。出勤まで時間があることによる心の余裕もあろう。空気も新鮮である。それに静かである。家族も近所の人たちもまだ眠りの中だ。車の音も聞こえない。

ただ、ほんの少し眠い。テレビを観ようか。本を読もうか。それとも書き物をしようか。迷っているうちにどんどん時間が経つ。

テレビを観始める。すると出勤までずっとテレビに釘付けになってしまう。もし前の晩に読むべき本をテーブルの上に置いていたとしたらきっとまずその本を開くだろう。そうすれば出勤までに何ページかはその本を読み進めることができる。また翌朝書き物をしようとすれば、寝る前にコンピュータをテーブルの上に用意しておく。そしてどの書き物に手をつけるかをメモに書いておく。そうすれば起きてすぐに作業を始めることができる。怠け者である私には朝起きたらまず何をするかを前の晩に決めておくことが重要である。

書店には早朝の時間をいかに有効に使うかという点に関する書籍がたくさん並んでいる。私もその何冊かに目を通してみた。確かに早朝に作業をすると能率が上がる。したがって頭脳労働を朝するというのは合理的であると私も思う。ただ、早朝にするべき作業があまりに多いと朝を迎えても憂鬱である。過大なノルマを課さないことが私には大切なようだ。

朝早く起きれば当然、夜は早く眠くなる。最近は息子よりも早く寝床につくことが珍しくなくなった。

睡眠時間を削ることは効率化には役立たない。特に私は睡眠不足に弱い。睡眠不足だとぼーっとしたまま一日が過ぎてしまう。いくら焦っても頭も体も動かない。私はほんの一晩でも睡眠不足だとすぐに目にクマができる。昨年まではほとんど毎日目にクマがあった。非効率的な生活を送っていた証左である。

日没後、何をしようかと迷ったら、まず寝床に入ろう。そしてぐっすり眠ろう。爽やかな朝を迎えるために。今年に入ってそう決めた。おかげで最近は昼間眠くなることがほとんどなくなった。ぐうたらはぐうたららしく、まず寝るべし!

2009年1月14日水曜日

父

昨年12月の初めに私は高知で司法書士事務所を営む友人に電話をかけた。私の父親が所有する山林の管理を彼に頼みたかったからだ。二束三文の価値しかないだろうが東京に住む私には管理ができない、父にもしものことがあったときに備えて山林の境界を確認し管理を頼めないかと私は彼に話した。

彼から帰ってきた第一声は「それは、親父さんの思いじゃねえ」であった。彼が言いたかったのは、父親が私に遺す山林の金銭的な価値は低くてもその山林には私の父親の思いがこもっている。相続するのは金ではなく父親の心なのだということであった。

彼とはその3週間後の昨年12月30日に開いた高校時代の仲間との忘年会の席で顔を合わせた。その席で立ち入った話はできなかったが、忙しいのですぐには無理だが時間を見つけて父親の所有する山林を見にいってくれると彼は言ってくれた。今回の年末年始、私は父親と一緒にそれらの山林を巡ることになっていたが、私には山林の境界を憶える自信がなかったので、彼の言葉に安堵した。

12月31日から1月3日まで4日続けて私は父親といっしょに山にでかけた。しかし父親が所有する山林は高知県内のあちこちに散在しており、4日間では回りきれなかった。父親は76歳になる今でもチェーンソーを抱えて急な斜面を力強く登っていく。その後ろをのこぎりを下げた私がのこのことついていく。初日は息子も一緒であったが、都会に生まれ育った息子はそれきり私たちと一緒に行くとは言わなくなった。それでも1月3日には無理に息子を誘ってまた父親と3人で山林巡りをした。

父親は成長した杉や檜の木を見上げては感慨深そうにそれぞれの山林に関する思い出話をした。日が暮れて真っ暗になるまでまだ小さかった杉や檜の枝打ちをしたこと。あと1日出かけてくれば枝打ちが終わるという日に肺がんのために入院しなくてはならなくなり、枝打ちをしていない木が残ったことが残念だったという話。他人に無断で木を切られてしまって悔しかったことなど。父親の話が途切れることはなかった。

車での移動の間にも父親とはさまざまな会話を交わした。祖母の生前、なぜ父親と祖母とがあれほどまで激しくけんかをしたのかについても、その理由を初めて聞くことができた。

まだ幼かった私は、当時、祖母と父親とのけんかを見るたびに怖くて震えた。父親は私にとって単に怖い存在でしかなかった。時には父親を激しく憎むこともあった。

祖母が他界すると、今度は私の父と母との間の夫婦げんかが絶えなくなった。父親は一生家族とけんかし続けて死ぬのだろうかと私は真剣に思った。

鬼のようにしか見えなかった父親に対する印象が変化したのは、母親がリュウマチによる関節の変形のために歩行すらままならない体になってからであった。ごく最近まで、父親は自分で身の回りのことをすることはほとんどなかった。お茶を飲みたくれば「おい、茶っ」と言う。そう言えば母親は台所に足を運んでお茶を入れて持ってくる。「おい、水っ」といえばすぐに母親がコップに水を入れて父親に渡す。父親は天皇であった。

こんな父親が、母親が病気になると急に優しくなった。母親の下の世話までまめにするようになった。母親の入浴も父親がさせた。

母親が東京の病院で治療を受けることになってからは、母親を連れて20回近くも夜行バスで東京まででかけてきた。片道11時間の長旅であった。途中、2時間ごとに母親は夜行バスの中のトイレに立った。その度に父親が介助した。父親は「俺が元気なうちはお前の介護は俺がしてやる」と母親に話すという。数か月前、電話で父親はぼそっと、母親がかわいそうでならないと私に言ったことがある。

昨年8月、家で母親が転倒し、四肢麻痺になった。それでも短期間の入院すらさせてもらえなかった。ぐにゃぐにゃになった母を抱きかかえて風呂に入れることが76歳の父親一人にできようはずがない。

結局、頸椎骨折の疑いがあるということが判明し、やっと1か月後に入院させてもらうことができ、緊急手術の運びとなったが。呼吸停止のためにあやうく母親は命を落とすところであった。まさに田舎の医療は崩壊である。

3か月の闘病を終えて母親は昨年12月28日に退院し帰宅した。母親は自力で体を起こし、ベッドのそばに据えてあるポータブルトイレで何とか用を足せるまでに回復していた。しかし首には固いカラーが巻かれている。それに首を絞められて苦しくて仕方がないと言って母親は一日に何度もうめき声をあげた。母親は何事につけても実に辛抱強い女性であった。気が遠くなるほどに我慢強い。その母親がうめき声をあげるというのはかなりつらいのだろうと私は思った。しかし何もしてあげる術はない。

私は1月4日に東京に帰った。その翌々日、母親はまた入院することになっていた。父親の肺に異常が見つかったためだ。父親は1月13日に病院で再度診察を受けるという。もし父親が入院しなければならなくなったら母親の介護をする者が誰もいなくなる。

さきほど父親から電話が入った。昨年9月に撮影した胸部レントゲン所見とほぼ同じであるのでもうしばらく様子をみようと主治医から言われたとのことであった。家族一同、胸をなでおろした。私はもう一度、父親と一緒に山林を見て歩くことができることにも一人安堵した。暖かくなる前にもう一度帰省しよう。暖かくなれば山に蝮が出、山歩きは危険になる。

私に父親が残そうとしているものは遺産ではない。父親が生きてきた軌跡であり父親の思いなのだ。友人の言葉を改めて噛みしめている。

2009年1月10日土曜日

iBlogger

さきほど「iBlogger」というソフトウェアを購入した。これはiPhone用のソフトである。私はいまこのソフトを使って文章を綴っている。布団に横たわりながら。

ここ数日、体調がすぐれない。身体がだるく、少し節々が痛む。微熱も続いている。加えて、無性に眠い。年末年始の疲れが出たのだろうか。

きょうは夕方から出かける用事が入っていたが、自宅で身体を休めることにした。外は寒さが厳しい。

Mobile Blogging from here.

2008年12月2日火曜日

小さき者へ 有島武郎

高校時代、私は多くの小説を読んだ。ほとんどは明治から昭和初期にかけての作家の作品であった。しかし有島武郎の作品はほとんど読んだことがない。その理由が最近になってやっとわかった。要するに読みづらいのだ。文体が翻訳調であるからである。

ただ、有島武郎の作品を全く読んだことがないわけではない。短編ではあるが、「小さき者へ」と「生まれいづる悩み」の2編は私の愛読書である。これらの作品は青空文庫としてネット上から手に入る。無料で読めるのだ。

今日の夕方、帰宅途中、青空文庫の中の「小さき者へ」を読み直してみた。次の一節は実に迫力があった。ここに引用する。

「お前たちの母親の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。若しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、賃でもお前たちに会わない決心を翻さなかった。それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。又お前たちを見る事によって自分の心の破れるのを恐れたばかりではない。お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上にも暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かねばならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさして貰いたい。そうお前たちの母親は書いている。」

この一節がなぜ今の私の心を捕えたのであろうか。繰り返しこの一節を読むと、さまざまな想いが私の心の中を駆け巡る。

私のふたりの知人も幼子を遺して死んだ。彼女たちが生前繰り返し叫んだ無念さがこの一節の中からも溢れ出てくる。

2008年11月25日火曜日

祖母

寒くなると訃報を聞くことが多くなる。私の祖父母も冬に亡くなった。祖父の命日は1月21日。88歳。老衰であった。

一方、祖母は祖父よりもずっと早く、63歳で亡くなった。私が小学校2年生のときの12月30日のこと。やはり寒い時期であった。

当時のことは今でも鮮明に思い出すことができる。祖母が倒れた日。その日の朝、祖母は近所の農作業を手伝いに朝早くから出かけた。金柑採りであった。木枯らしの吹く寒い日であった。祖母は自宅を出る際に珍しく興奮していた。

祖母が倒れたという知らせが届いたのは日没前。一緒に農作業をしていた近所の人たちが意識のなくなった祖母を背中におぶって私の自宅まで運んでくれた。一目で中風だとわかった。祖母は血圧が高かった。高血圧にいいからと言って、長い間、野菜の汁と柿の葉の汁を飲んでいた。

祖母は囲炉裏端に寝かされた。母は献身的に看病をした。祖母が亡くなるまでの間にかかりつけの医師が3回か4回往診に来てくれたように思う。臨終の際にも立ち会ってくれた。しかし治療らしき治療は一切施さなかった。当時の医療水準からすれば術はなかったのであろう。

祖母が息を引き取ったのは早朝であった。父は祖父の死を確認すると突然あわただしく動き始めた。あらかじめ準備していたらしく、てきぱきと葬儀の準備を進めた。翌日は大晦日、その翌日は元旦。父は祖母の死の翌日の大晦日に葬儀を行うことに決めたようであった。

まだ当時は電話が普及していない。父は親族に対して次々と電報を打ち始めた。「ハハ、シス。・・・・」と電話で父親は何度も繰り返してしゃべっていた。あっという間に親族一同が集まった。祖母は実家の裏山にある墓地に埋葬された。土葬であった。

葬儀の後の会食が終わると親族は次々と帰宅し始めた。翌日は元旦であった。叔父夫婦もその日のうちに帰宅するという。

何を思ったのか私はその叔父に対して「おんちゃんの家に一緒に行く!」と言って、実家からバスと汽車を乗り継いで2時間ほどかかる叔父の家までついていった。そして叔父の家で3泊した。祖母の葬儀のあとひっそりとなるにちがいない実家にじっとしているのが当時の私には寂しくて我慢ができなかったのであろう。叔父の家では従兄弟たちと楽しい時間を過ごすことができた。気分は晴れなかったが、祖母の死の悲しみからわずかでも気を紛らすことができた。

叔父の家は中土佐町久礼にあった。「土佐の一本釣り」で有名になった海辺の小さな漁港だ。叔父の家は海に面していた。堤防の向こうに雄大な土佐湾が見渡せた。私の実家は山村にあったから、海を見ることはめったになかった。海に慣れない私は激しく打ち寄せる波が怖かった。

堤防の上に上ると風が強い。そばに立っている叔父に向かって私はふっと次のような質問をぶつけた。「風はなぜ吹くが?」

間をおいて叔父はゆっくりとしゃべり始めた。「地球上のあるところに空気がない場所ができて、そこに空気が流れ込むと風になる。」

幼い私は不思議に思った。空気がない場所ができたならばそこで暮らしている人たちは窒息してしまうのではないだろうかという素朴な疑問を持ったのだ。しかしこの疑問を私は叔父にぶつけることはしなかった。怖い答えが返ってくるのではないかというおぼろげな不安感のためであったように思う。「そうなんだよ。だから地球上のあちこちで、窒息のためにどんどん人が死んでいるんだよ。」こんな答えが叔父から返ってくるような気がしたのだ。

祖母が倒れた日の朝に祖母が興奮していた理由を私が知ったのは、祖母の死から3か月ほどしてからのことであった。祖母が倒れた日の朝、家を建て替えると父は祖母に告げたらしかった。祖母の生前、祖母と父とはたびたび口論をしていた。気性の激しい父は怒ると祖母に暴力を振るうこともあった。父は貧乏から這い上がろうと無我夢中であったのだろうと今の私は当時の父の気持ちを擁護することもできるが、その頃の私は父をただ恐れ憎んだ。祖母が亡くなると、祖母と激しく口論してばかりで親孝行できなかったことを父はひとり悔やんでいるようであった。家を建て替えることを祖母に知らせることができたことだけでもよかったと繰り返し父は家族に話した。

当時の私の実家はわらぶき屋根のおんぼろ屋敷であった。四角い柱はほとんどなかった。虫に喰われ、どの柱も円くなっていた。それに暗かった。台風や地震のときには家全体が大きく揺れた。家が揺れるたびに祖母は大声で「ほー、ほー」と叫んだ。何かのお呪いであろうと私は思った。蛇やムカデが家の中に入ってくることもよくあった。ムカデに噛まれたことも一度や二度ではなかった。

新しい家が落成したのは祖母の死の翌年の8月。その晩、私の姉と私のふたりは新居の床の間で寝かされた。当時、その地域ではひとつの儀式であったらしい。夏ではあったが、まだ畳も敷かれておらず、すきま風も入ってくる。このように開けっぴろげの場所で子供をふたりきりで寝かせるということは今の東京では信じられないことであろう。少し寂しかったが、私は心地よい檜の匂いに包まれていつしかぐっすり眠ってしまった。翌日は朝から快晴であった。

祖母が亡くなって44年経った。祖母の死はまだ昨日のことのように思い出される。祖母は私の記憶の中で今も生き続けている。

2008年11月16日日曜日

軽井沢

私は、毎年、夏休みを家族と一緒に軽井沢で過ごす。そして軽井沢から一泊か二泊であちこちに出かける。今年は白馬の八方池まで足を伸ばした。

白馬山麓駅からケーブルカーとリフトを乗り継いで山を登る途中に長野オリンピックでの大滑降の競技場があった。長野オリンピックが開催されたのは1998年。ちょうどこの直前に長野新幹線が開通した。そしてその数か月後に息子が生まれた。

八方池に行くにはケーブルカーとリフトを乗り継いだあと更に1時間ほど歩かなければならない。私たちは山の裾野に広がる白馬の町や遠くかすむ北アルプスを眺めながらゆっくり山を登った。田園の中に広がる白馬の町は私たちが2年間住んだことのあるドイツを思い出させた。その光景は南ドイツにあるNeuschwanstein城から眺めたドイツの小さな町にそっくりであった。私はときおり足を止め高山植物をカメラに収めた。写真を撮り終わると先を行っている家内と息子に追いつこうと走った。

その晩、私たちは白馬の町にある小さなペンションに宿泊した。昨年も一昨年も白馬に一泊した。入浴をすませて宿泊客一同そろって夕食。そのペンションに当日宿泊していたのは家族連ればかりであった。

翌日は雨。私たちはそのペンションを出て鬼無里に向かった。そこには「いろは堂」というおやきの店がある。この店のおやきは東京のデパートでも見かけることがあると家内から聞かされていたが、デパートで買うおやきとこの店で食べるおやきとでは味が全く違うのではなかろうか。いろは堂でおやきを食べて以来、これまでに私たちは何度もこの店を訪れた。和服姿のおかみさんがいつも快く私たちをもてなしてくれる。

おやきを食べ終わってもまだ雨は降り続いていた。私たちはその日、戸隠で歩きながらいくつかの湖めぐりをする予定であったが断念するほかなかった。戸隠ではちびっこ忍者村を訪れたあと車で鏡池に立ち寄った。ちびっこ忍者村にも鏡池にも私たちは何度か来たことがあったので長居することはなく、軽井沢に戻ってきた。

軽井沢では、私たちは雑踏の中にほとんど足を踏み入れない。小諸にある農園でブルーベリー狩りやリンゴ狩りをしたり、その農園にある釣り堀で鱒釣りをしながら時間を過ごすことが多い。釣った鱒はその場で塩焼きにしてもらう。松井農園の職員の方々ともすっかり顔なじみになった。平素お世話になりながら義理を欠いている方々に今年はその農園からぶどうやりんごを送ってもらった。

息子はあっという間に10歳になった。もうすぐ思春期を迎える。私たちが揃って家族旅行にでかけることができるのも、もうそう多くはないであろう。親として自分の子に残せる最大の遺産は家族で過ごした楽しかった思い出であろうと私は思う。