10月9日、義兄夫婦に女児が誕生した。結婚してから10年近く。二人にとって待ちに待った子の誕生であった。
今朝、生まれたばかりのその児の写真を家内が私に見せた。その写真を見た瞬間、私は、自分の息子が生まれた翌日に撮影した写真を思い出した。同じように産着にくるまれている写真であった。しかし私の息子はその写真では大声で泣き叫んでいた。
「治豊が生まれたばかりのときよりもこの児の顔立ちの方がととのっているんじゃない?」などと実兄の子の誕生を嬉しそうに語る家内の言葉にもほとんど返事を返さず、私は自分の息子が生まれたときの思い出に飲み込まれていった。
私の息子が生まれたとき、私はまずホッとした。息子が五体満足で生まれたからではない。高齢出産であったにもかかわらず比較的安産であったからでもない。妻を母にするという夫としての義務をやっと果たせたという安堵感であった。父親になった喜びは世間でいわれるほど大きいものではなかったように思う。というよりも父親になったという実感がなかった。義理の姉はいま、「自分の子がこんなにも可愛いものだとは思わなかった」と言っているという。母の正直な気持ちであろう。
男である私は、自分の息子が生まれた頃よりも今の方が息子をはるかに可愛いと感じる。文字通り、自分の命よりも大切である。
繰り返し言われるように男は子を持ってもすぐに父親にはなれない。男が父親としてのよろこびを感じられるようになるまでには女性には想像もできないような長い時間を要する。
家内が私に見せたもう一枚の写真には、生まれたばかりの我が子の後ろでしゃがみながら満面の笑みを浮かべている義兄が写っていた。私も義兄のその笑顔を見て、心のなかで祝福した。私の息子が生まれたときよりもずっと嬉しかった。それは、私が10年近く父親としての体験を積んできたためであろう。幼い子が殺されたといったニュースを耳にするたびにいまの私は自然と涙が浮かぶ。
しかし、それと同時に、その写真をじっと見つめながら、今の義兄も、私に息子が生まれた頃のような、父親という実感にはまだ十分浸れないてはいないのではなかろうかという思いも私は抱いた。
人には想像力がある。他人の不幸もある程度までは自分の悲しみとして感じることができる。逆に他人の喜びを自分自身の喜びとしていっしょに喜ぶこともできる。しかし実際にその立場に自分の身をおかなければほんとうに理解できないこともある。
義兄は大の子供好きである。これからはもっともっと子供が好きになることであろう。新しい生命の誕生は肉親にとって人生のなかで最も嬉しいことである。
2007年10月1日月曜日
ピアノリサイタル
去る8月、私に一通の封書が届いた。差出人欄には「川添亜希」と書かれてあった。封書の中には1枚のリサイタル招待のチケットと添え書きが入っていた。
この女性に私は1年ほど前、ある仕事の関係で一度だけ面談したことがあった。
どちらかといえばボーイッシュ。両脚を開いて座った姿は身振りもまるで男性のようであった。しかし私がこのように感じたのは彼女の動作からだけではなかった。私の前に座った彼女は全身からエネルギーをたぎらせていた。私は彼女に対して興味をいだいた。
しかし彼女はピアニスト。しかもこれから全国をまわって、いや世界を相手に活発に演奏活動をやっていこうとしてる・・・。残念ではあったが、私は彼女に仕事を依頼するのを断念した。彼女はピアノ一本で頑張るのがいいと判断した。そしてその場でその旨を彼女に伝えた。彼女は納得した。
別れ際に、もし演奏会を開くことがあったらチケットを送ってくださいと私は彼女に一言告げた。彼女は笑顔でかるく頷いた。以来、彼女のことは、ずっと私の頭の片隅にあった。しかし本当に彼女の演奏会に出向くことがあろうとは思っていなかった。
さて、9月27日、演奏会当日。私は開演15分前に会場に到着した。会場にはすでに多くの聴衆が集まり開演を待っていた。私は聴衆席のほぼ真ん中に座った。舞台の中心には1台のピアノが据えられていた。彼女が演壇に姿を現すまでの15分ほどの間、私はじっとこの1年間を振り返っていた。
開演時刻となり聴衆席の電灯は消され、舞台にスポットライトがあたった。会場がシーンと静まり返ると同時に、大きく腕を振りながら大股で舞台に姿を現したのはまぎれもなく1年前に顔を合わせた彼女であった。
彼女は一礼した後、無言のままピアノの前に座り、直ちに演奏を始めた。バッハであった。彼女の演奏が始まるとほぼ同時に、私は「えっ」という印象を抱いた。彼女の奏でるピアノの音色があまりに線の太いものであったからだ。「線が太い音」などという表現はわかりづらいかもしれない。しかし音楽の素養のない私にはこのような表現しかできない。
私は時々、コンサートにでかける。音楽に耳を傾けている時間だけは日常の些事を忘れることができる。
しかしこれまで、演奏には上手下手しかないものと漠然と思っていた。演奏には個性があるのだということを感じたのは今回が初めてであった。
もちろん私が彼女の演奏に「個性」を感じたのは私が彼女を知っていたからなのかもしれない。どの演奏家の演奏にも個性があるのであろう。
バッハの曲が2つ続いた後はハルトマンのピアノソナタであった。「1945年4月27日」という何ともいかめしい曲名がプログラムには書かれていた。私はこの曲を知らなかった。「作曲者であるハルトマンは、1945年4月27日と28日、自分の家の前を、何千人ものダッハウ強制収容所の囚人たちが、いつ果てるともしれない列をなし、足をひきずって死の行進をしていくさまを目撃した」と、この曲の説明の中の一節に書かれていた。
ドイツのミュンヘンに留学している時期、私はこの収容所を3回訪れたことがある。最初は私と家内の2人で、2度目は日本からミュンヘンを訪れた職場の同僚と、3回目は家内の家族とであった。最初にダッハウを訪れたとき、私はこの収容所跡が実に清潔に保存されているのに驚かされた。とともに、めまいと吐き気に見舞われた。死んでいった多くのユダヤ人たちの霊がいまもこの収容所の中をさまよっているためであろうと私は勝手に推測した。
彼女の奏でる旋律を聴きながら、私はいつしかこのダッハウ収容所を訪れたとき受けたショックを思い出し、沈欝な気分に捕らわれていた。
現代音楽にはおそらく最新の音楽理論が取り入れられているのであろう。演奏も難しいのであろう。私はおそらくこの曲は彼女が自分のものにしようと全力を込めて取り組んだものなのだろうと感じた。「挑戦」という名にふさわしい、演奏の難しい曲であることは素人の私にもわかった。
15分の休憩の後はシューマンの「謝肉祭」であった。この曲は比較的リラックスしながら聴くことができた。知っている曲であることもあったのかもしれない。美しいしかし力強い音色に耳を傾けながら私は彼女の指の動きをじっと見つめた。
演奏が終ると、割れんばかりの拍手が会場に鳴り響いた。この拍手は聴衆の心からの喜びを表現する拍手であった。彼女を讃える拍手であった。
コンサート会場では、アンコールの拍手は、儀式化・儀礼化されているといえなくもない。手を叩くのが儀礼だから拍手をする。このようなことも少なくない。また1曲でも多く曲を聴かせてもらって得をしようという打算があることもある。
しかし、今回、彼女に対する拍手は、まさに彼女の演奏を讃える聴衆の心からの喜びを表現するものであった。聴衆は誰もが満面の笑みを浮かべていた。私も手を叩かずにはいられなかった。
結局、アンコールに応えて彼女は3曲弾いてくれた。疲れているだろうにと私は彼女がかわいそうになった。アンコール曲は比較的ポピュラーな曲であったが、最後まで気を抜くことなく本格的な演奏を聴かせてもらった。
会場を去るとき、受付に山のような花束が届けられているのを見た。
その晩、家族や仲間に囲まれ彼女は実においしい酒を飲み、それまで払ってきた努力に自らを褒め称えたことであろう。私にとって今回のピアノリサイタルは、音楽に奏者の個性を感じた初めての演奏会であった。
この女性に私は1年ほど前、ある仕事の関係で一度だけ面談したことがあった。
どちらかといえばボーイッシュ。両脚を開いて座った姿は身振りもまるで男性のようであった。しかし私がこのように感じたのは彼女の動作からだけではなかった。私の前に座った彼女は全身からエネルギーをたぎらせていた。私は彼女に対して興味をいだいた。
しかし彼女はピアニスト。しかもこれから全国をまわって、いや世界を相手に活発に演奏活動をやっていこうとしてる・・・。残念ではあったが、私は彼女に仕事を依頼するのを断念した。彼女はピアノ一本で頑張るのがいいと判断した。そしてその場でその旨を彼女に伝えた。彼女は納得した。
別れ際に、もし演奏会を開くことがあったらチケットを送ってくださいと私は彼女に一言告げた。彼女は笑顔でかるく頷いた。以来、彼女のことは、ずっと私の頭の片隅にあった。しかし本当に彼女の演奏会に出向くことがあろうとは思っていなかった。
さて、9月27日、演奏会当日。私は開演15分前に会場に到着した。会場にはすでに多くの聴衆が集まり開演を待っていた。私は聴衆席のほぼ真ん中に座った。舞台の中心には1台のピアノが据えられていた。彼女が演壇に姿を現すまでの15分ほどの間、私はじっとこの1年間を振り返っていた。
開演時刻となり聴衆席の電灯は消され、舞台にスポットライトがあたった。会場がシーンと静まり返ると同時に、大きく腕を振りながら大股で舞台に姿を現したのはまぎれもなく1年前に顔を合わせた彼女であった。
彼女は一礼した後、無言のままピアノの前に座り、直ちに演奏を始めた。バッハであった。彼女の演奏が始まるとほぼ同時に、私は「えっ」という印象を抱いた。彼女の奏でるピアノの音色があまりに線の太いものであったからだ。「線が太い音」などという表現はわかりづらいかもしれない。しかし音楽の素養のない私にはこのような表現しかできない。
私は時々、コンサートにでかける。音楽に耳を傾けている時間だけは日常の些事を忘れることができる。
しかしこれまで、演奏には上手下手しかないものと漠然と思っていた。演奏には個性があるのだということを感じたのは今回が初めてであった。
もちろん私が彼女の演奏に「個性」を感じたのは私が彼女を知っていたからなのかもしれない。どの演奏家の演奏にも個性があるのであろう。
バッハの曲が2つ続いた後はハルトマンのピアノソナタであった。「1945年4月27日」という何ともいかめしい曲名がプログラムには書かれていた。私はこの曲を知らなかった。「作曲者であるハルトマンは、1945年4月27日と28日、自分の家の前を、何千人ものダッハウ強制収容所の囚人たちが、いつ果てるともしれない列をなし、足をひきずって死の行進をしていくさまを目撃した」と、この曲の説明の中の一節に書かれていた。
ドイツのミュンヘンに留学している時期、私はこの収容所を3回訪れたことがある。最初は私と家内の2人で、2度目は日本からミュンヘンを訪れた職場の同僚と、3回目は家内の家族とであった。最初にダッハウを訪れたとき、私はこの収容所跡が実に清潔に保存されているのに驚かされた。とともに、めまいと吐き気に見舞われた。死んでいった多くのユダヤ人たちの霊がいまもこの収容所の中をさまよっているためであろうと私は勝手に推測した。
彼女の奏でる旋律を聴きながら、私はいつしかこのダッハウ収容所を訪れたとき受けたショックを思い出し、沈欝な気分に捕らわれていた。
現代音楽にはおそらく最新の音楽理論が取り入れられているのであろう。演奏も難しいのであろう。私はおそらくこの曲は彼女が自分のものにしようと全力を込めて取り組んだものなのだろうと感じた。「挑戦」という名にふさわしい、演奏の難しい曲であることは素人の私にもわかった。
15分の休憩の後はシューマンの「謝肉祭」であった。この曲は比較的リラックスしながら聴くことができた。知っている曲であることもあったのかもしれない。美しいしかし力強い音色に耳を傾けながら私は彼女の指の動きをじっと見つめた。
演奏が終ると、割れんばかりの拍手が会場に鳴り響いた。この拍手は聴衆の心からの喜びを表現する拍手であった。彼女を讃える拍手であった。
コンサート会場では、アンコールの拍手は、儀式化・儀礼化されているといえなくもない。手を叩くのが儀礼だから拍手をする。このようなことも少なくない。また1曲でも多く曲を聴かせてもらって得をしようという打算があることもある。
しかし、今回、彼女に対する拍手は、まさに彼女の演奏を讃える聴衆の心からの喜びを表現するものであった。聴衆は誰もが満面の笑みを浮かべていた。私も手を叩かずにはいられなかった。
結局、アンコールに応えて彼女は3曲弾いてくれた。疲れているだろうにと私は彼女がかわいそうになった。アンコール曲は比較的ポピュラーな曲であったが、最後まで気を抜くことなく本格的な演奏を聴かせてもらった。
会場を去るとき、受付に山のような花束が届けられているのを見た。
その晩、家族や仲間に囲まれ彼女は実においしい酒を飲み、それまで払ってきた努力に自らを褒め称えたことであろう。私にとって今回のピアノリサイタルは、音楽に奏者の個性を感じた初めての演奏会であった。
2007年8月5日日曜日
同窓会
毎年8月の第一土曜日に私の卒業した高校の同窓会総会と全員懇親会が開かれる。今年は私の学年が幹事役を務めた。親友が幹事と代表幹事を務めていたので私も応援のために出席した。夏に帰郷するのは10数年ぶりのことであった。
私の母校が発足したのはちょうど私が生まれた年である。だから今年、50周年となる。私は16期生。私の在学中はまだ第一期の卒業生もまだ30歳そこそこであった。しかし、もう第一期生は66歳になる。
高知市長も私の母校の卒業生になっていた。高知新聞社の社長も。そして私が在職する慶應大学医学部の元教授であり、現在、日本看護協会会長を務めている久常節子氏も私の母校の先輩であることを知った。(私の母校は男女共学である。男女ほぼ同数。)今の高知県を支えている多くの人材が私の母校出身者であることを同窓会会場で聞かされてうれしい限りであった。
全員懇親会のあと同期である16期生だけの同窓会が開かれた。69名が集まった。2年前の正月には120名集まったので少し寂しくはあったが、お盆の直前ということを考えれば、よくこれだけ沢山の同期生が集まったものだともいえた。
16期生全員の同窓会がお開きになった後、クラスメートだけでの同窓会となった。高知に住むクラスメートが行きつけのラウンジに私たちを案内した。多くのホステスに生まれて初めて囲まれ、クラスメートの女性たちは大喜び。なんとその店のホステスの一人に母校の後輩がいた。和服がよく似合う女性であった。彼女は私たちの10期後輩ということであったのでもう若くはない。しかしまだ30歳前後にみえた。高校を卒業と同時に夜の仕事についたという。私の母校の卒業生はほぼ全員が大学に進学する。だから大学に進学しなかったというだけでも驚いたが、卒業と同時にこの道に入ったというのも驚きであった。
四次会はバーで。ここもクラスメートの行きつけの店であった。静かで清潔な店であった。そこではスナックとバーとの違いは何かといった基本的なことも知らない私たちを相手に、クラスメートが一所懸命説明してくれた。カクテルの話も聞かせてくれた。彼は地酒の醸造会社の役員を務めている。学生時代からまじめ一本の男である。カクテルの話もほんとうに一所懸命、夢中になって話してくれた。
最初に座ったテーブル席から全員が途中でカウンター席に移動、彼の勧めに従って「バー」の雰囲気をゆっくりと楽しませてもらうことができた。
解散したのは午前1時過ぎであった。同窓会総会の開始時刻から既に9時間以上経過していた。ふだんほとんどアルコールを口にしない私も昨日ばかりはかなり飲んでしまった。ホテルに戻った後、心地よい疲労感に襲われすぐ眠りに落ちた。
私の母校が発足したのはちょうど私が生まれた年である。だから今年、50周年となる。私は16期生。私の在学中はまだ第一期の卒業生もまだ30歳そこそこであった。しかし、もう第一期生は66歳になる。
高知市長も私の母校の卒業生になっていた。高知新聞社の社長も。そして私が在職する慶應大学医学部の元教授であり、現在、日本看護協会会長を務めている久常節子氏も私の母校の先輩であることを知った。(私の母校は男女共学である。男女ほぼ同数。)今の高知県を支えている多くの人材が私の母校出身者であることを同窓会会場で聞かされてうれしい限りであった。
全員懇親会のあと同期である16期生だけの同窓会が開かれた。69名が集まった。2年前の正月には120名集まったので少し寂しくはあったが、お盆の直前ということを考えれば、よくこれだけ沢山の同期生が集まったものだともいえた。
16期生全員の同窓会がお開きになった後、クラスメートだけでの同窓会となった。高知に住むクラスメートが行きつけのラウンジに私たちを案内した。多くのホステスに生まれて初めて囲まれ、クラスメートの女性たちは大喜び。なんとその店のホステスの一人に母校の後輩がいた。和服がよく似合う女性であった。彼女は私たちの10期後輩ということであったのでもう若くはない。しかしまだ30歳前後にみえた。高校を卒業と同時に夜の仕事についたという。私の母校の卒業生はほぼ全員が大学に進学する。だから大学に進学しなかったというだけでも驚いたが、卒業と同時にこの道に入ったというのも驚きであった。
四次会はバーで。ここもクラスメートの行きつけの店であった。静かで清潔な店であった。そこではスナックとバーとの違いは何かといった基本的なことも知らない私たちを相手に、クラスメートが一所懸命説明してくれた。カクテルの話も聞かせてくれた。彼は地酒の醸造会社の役員を務めている。学生時代からまじめ一本の男である。カクテルの話もほんとうに一所懸命、夢中になって話してくれた。
最初に座ったテーブル席から全員が途中でカウンター席に移動、彼の勧めに従って「バー」の雰囲気をゆっくりと楽しませてもらうことができた。
解散したのは午前1時過ぎであった。同窓会総会の開始時刻から既に9時間以上経過していた。ふだんほとんどアルコールを口にしない私も昨日ばかりはかなり飲んでしまった。ホテルに戻った後、心地よい疲労感に襲われすぐ眠りに落ちた。
2007年7月7日土曜日
1977年7月7日
午前0時を過ぎた。2007年7月7日になった。7が3つ並ぶ。きょう結婚届を出そうとしているカップルが多いと聞いた。
ちょうど30年前のきょう、つまり1977年7月7日、私は大学2年生であった。雨が朝から一日中降ったことを憶えている。この日の朝、クラスメートの一人から、その日の夜開かれるパーティに来ないかと誘われた。7が4つ並ぶ日を記念してフェリス女子学院の学生がパーティを開催するという。欠員ができたので来ないかということであった。
パーティは横浜の元町で開かれた。私が会場に到着したときには既に多くの男女が集まっていた。女性はすべてフェリス女子学院の学生であった。男性は半分が他大学の医学部の学生であった。彼らは私たちよりも2〜3学年上であると聞いた。
パーティでは「牧子さん」と呼ばれていたフェリスの女子学生が進行役を務めた。今いう「コンパ」でも「合コン」でもなかった。文字通り、7が4つ並ぶ日を祝うパーティであった。ある店のワンフロアーを借り切り、部屋の周囲に椅子が並べられているだけの簡素な部屋の中で会は進行した。田舎者である私はその会場の華やかな雰囲気にのまれてパーティが終わるまでずっと片隅でじっとしていたに違いない。そのパーティがどのように進められたのかとんと思い出せない。
一次会が終わり、二次会の会場に移動することになった。二次会の場所は渋谷であった。東横線に乗って移動した。その電車の中で隣同士になったのが「みどりちゃん」と呼ばれていた女性であった。彼女は群馬県の前橋市から出てきたということであった。人懐っこい女性であった。彼女を挟んで隣の隣には他の大学の医学部生が座った。彼は私よりもずいぶん年上に見えた。彼女と私とはその後数年間この医学生にずいぶんと可愛がってもらった。
「みどりちゃん」とはその後、グループでよく会うようになった。彼女は同じフェリス女子学院の同級生と3人で一軒家を借りきって住んでいた。この家には誰も使っていない部屋が一部屋あった。私はアルバイトの帰りにこの家に立ち寄り、何人かの友人といっしょにこの部屋で何度か寝泊まりさせてもらった。布団がなかったので、いつも炬燵の中に足を入れて雑魚寝であった。この部屋にはテレビが置いてあり、全員揃ってテレビを観ることもよくあった。小さな炬燵を囲んで膝をぶつけながら食事をし酒を酌み交わしながら夜中まで騒ぐことも珍しくなかった。
程なく私は専門課程に進みキャンパスが彼女たちの家から遠くなった。自ずと彼女たちからは縁遠くなった。しかし、その後、この家には私の友人が連れてきた男連中がたくさん出入りするようになったようだ。なんと私のクラスメートの一人は、この部屋で一ヶ月間ずっと寝泊まりしながら大学に通っていたということをずっとあとになって彼自身の口から聞かされた。
彼女たちが大学を卒業するまでの間、彼女たちと彼女たちの家に出入りしてくる大学生たちの間ではさまざまな人間模様が繰り返されたようだ。恋愛関係になったカップルもあったと聞いた。しかし、私だけはそのような世界からは無縁であった。
この「みどりちゃん」の結婚式にはこれらの仲間が集った。そしてその数年後の私の結婚披露宴にも彼らは集まってくれた。「みどりちゃん」は今、埼玉県に住む。3児の母だ。たまに電話で話すことがあるが、声もしゃべり方も30年前と全く変わらない。当時、「みどりちゃん」を介して知り合った「のりこさん」という女性ともまだ親交がある。彼女は私よりも1歳年上である。知りあった当時、彼女は食道がんでお父様を亡くしたばかりであった。いつもどこかに暗さを持つ女性であった。彼女の持つこの暗さは今も変らない。なぜか私は彼女よりもむしろ彼女のお母様から慕われた。「みどりちゃん」と「のりこさん」はこの30年間、実に対照的な人生を歩んできた。いま大学時代のことを振り返ると、ふたりがその後担うべき運命は既にその時期から定められていたようにも感じる。
二人は今も私にとってかけがえのない異性の友人である。1977年7月7日。30年も前のことである。
ちょうど30年前のきょう、つまり1977年7月7日、私は大学2年生であった。雨が朝から一日中降ったことを憶えている。この日の朝、クラスメートの一人から、その日の夜開かれるパーティに来ないかと誘われた。7が4つ並ぶ日を記念してフェリス女子学院の学生がパーティを開催するという。欠員ができたので来ないかということであった。
パーティは横浜の元町で開かれた。私が会場に到着したときには既に多くの男女が集まっていた。女性はすべてフェリス女子学院の学生であった。男性は半分が他大学の医学部の学生であった。彼らは私たちよりも2〜3学年上であると聞いた。
パーティでは「牧子さん」と呼ばれていたフェリスの女子学生が進行役を務めた。今いう「コンパ」でも「合コン」でもなかった。文字通り、7が4つ並ぶ日を祝うパーティであった。ある店のワンフロアーを借り切り、部屋の周囲に椅子が並べられているだけの簡素な部屋の中で会は進行した。田舎者である私はその会場の華やかな雰囲気にのまれてパーティが終わるまでずっと片隅でじっとしていたに違いない。そのパーティがどのように進められたのかとんと思い出せない。
一次会が終わり、二次会の会場に移動することになった。二次会の場所は渋谷であった。東横線に乗って移動した。その電車の中で隣同士になったのが「みどりちゃん」と呼ばれていた女性であった。彼女は群馬県の前橋市から出てきたということであった。人懐っこい女性であった。彼女を挟んで隣の隣には他の大学の医学部生が座った。彼は私よりもずいぶん年上に見えた。彼女と私とはその後数年間この医学生にずいぶんと可愛がってもらった。
「みどりちゃん」とはその後、グループでよく会うようになった。彼女は同じフェリス女子学院の同級生と3人で一軒家を借りきって住んでいた。この家には誰も使っていない部屋が一部屋あった。私はアルバイトの帰りにこの家に立ち寄り、何人かの友人といっしょにこの部屋で何度か寝泊まりさせてもらった。布団がなかったので、いつも炬燵の中に足を入れて雑魚寝であった。この部屋にはテレビが置いてあり、全員揃ってテレビを観ることもよくあった。小さな炬燵を囲んで膝をぶつけながら食事をし酒を酌み交わしながら夜中まで騒ぐことも珍しくなかった。
程なく私は専門課程に進みキャンパスが彼女たちの家から遠くなった。自ずと彼女たちからは縁遠くなった。しかし、その後、この家には私の友人が連れてきた男連中がたくさん出入りするようになったようだ。なんと私のクラスメートの一人は、この部屋で一ヶ月間ずっと寝泊まりしながら大学に通っていたということをずっとあとになって彼自身の口から聞かされた。
彼女たちが大学を卒業するまでの間、彼女たちと彼女たちの家に出入りしてくる大学生たちの間ではさまざまな人間模様が繰り返されたようだ。恋愛関係になったカップルもあったと聞いた。しかし、私だけはそのような世界からは無縁であった。
この「みどりちゃん」の結婚式にはこれらの仲間が集った。そしてその数年後の私の結婚披露宴にも彼らは集まってくれた。「みどりちゃん」は今、埼玉県に住む。3児の母だ。たまに電話で話すことがあるが、声もしゃべり方も30年前と全く変わらない。当時、「みどりちゃん」を介して知り合った「のりこさん」という女性ともまだ親交がある。彼女は私よりも1歳年上である。知りあった当時、彼女は食道がんでお父様を亡くしたばかりであった。いつもどこかに暗さを持つ女性であった。彼女の持つこの暗さは今も変らない。なぜか私は彼女よりもむしろ彼女のお母様から慕われた。「みどりちゃん」と「のりこさん」はこの30年間、実に対照的な人生を歩んできた。いま大学時代のことを振り返ると、ふたりがその後担うべき運命は既にその時期から定められていたようにも感じる。
二人は今も私にとってかけがえのない異性の友人である。1977年7月7日。30年も前のことである。
2007年6月7日木曜日
犬山城


5月29日から6月1日まで名古屋に行った。学会出席が目的であった。学会の合間を縫って6月1日の午前に犬山城を訪れた。名古屋駅から名鉄とタクシーを使って約35分。一人旅であった。
犬山城は織田信長の叔父にあたる小田信康が築いた城だ。1537年に築かれたという。
犬山城の天守閣に登ると南方に名古屋の街が見える。その手前に小高い山がある。犬山城の職員に尋ねるとその山の頂上に小牧城があるという。小牧といえば家康と秀吉が戦った場所だ。秀吉は犬山城に陣取った。小牧城には家康が陣を敷いた。
北西には岐阜城がある。残念ながら肉眼で岐阜城を確かめることはできなかった。岐阜条は10年ほど前に訪れた。やはり学会の期間中であった。「岐阜」という地名は信長が命名した。
犬山城から見渡す濃尾平野は、長かった戦国時代に終止符を打った数々の英雄を産んだ地だ。人間の情熱と欲望が煮えたぎった戦国の世の中心舞台となったこの平野を眺めながら、私はまたしても芭蕉の一句を思い浮かべていた。
夏草や
つわものどもが夢のあと
2007年6月5日火曜日
湯川ふるさと公園



中軽井沢を湯川という小さな川が流れている。この湯川を挟むように広大な緑が広がる。ここが湯川ふるさと公園だ。中軽井沢はよく訪れるが、こんな身近な場所にこれほどまでに広い公園があったとは・・・。全く気づかなかった。
川縁には樹木が生い茂っている。小川のせせらぎと小鳥のさえずりを聞きながら川縁を歩いていると釣り人に出会った。岩魚と山女を釣っているのだという。川を横切って向こう岸に行こうとしたが橋がない。結局、森を抜けて新幹線の線路近くまで出てやっと橋を渡ることができた。橋を渡るとたくさんの子供たちが滑り台やブランコで遊んでいる姿が見えた。
私たちは息子を遊ばせるために、これまで軽井沢でいろいろの公園を訪れた。しかしこれほどまでに広く美しい公園は他にない。旧軽井沢からも近い。大発見であった。
息子が遊んでいる間、私はひとりで川縁に降りていった。降りていく途中、イタドリを見つけた。そのイタドリを見つけた瞬間、私の頭の中には幼なかりし時代の思い出が次から次へと湧いてきた。川縁を散歩しながら、いつしか私は幼年時代を過ごした郷里のことばかり考えていた。
ワラビ、ゼンマイ。春になると、私は山菜を採るために学校から帰ると毎日のように裏山に駆け登った。少し生臭いような新緑の香りが鼻をついた。6月になると山桃採りにも行った。秋になると、アケビ採りと山芋掘り。アケビはほとんど種ばかりである。その種は噛むと苦い。しかしべとっとしたゼリー状の部分はわずかに甘みを持ち独特の香りを放つ。掘ってきた山芋は大根おろしで擦ってとろろ状にし、醤油をかけて生のままで食べる。手や口のまわりがかゆくなるが、まだ若かった私にはそんなことは一向に気にならなかった。冬は裏山にワナをしかけて鳥を捕まえる。学校から帰ると鳥が捕まっていないかどうかを見に行く。翼をばたつかせて逃げようともがいている鳥をぐっと両手でおさえながら自宅に帰ると、祖父がその鳥の名を教えてくれた。ツグミやヒヨが捕まることが多かった。メジロが捕まったこともあった。祖父が料ってくれた鳥の丸焼きに私は無心になってかぶりついた。焼かれた鳥がかわいそうにも思えたが、こおばしく実にうまかった。
私は根っからの野生児であった。そして今も、多分。
オナーズヒル軽井沢 その2
2週続けて週末を軽井沢で過ごした。オナーズヒル軽井沢に来るのも2週続けてとなった。
オナーズヒル軽井沢は国道18号線の追分の信号から南に車で10分弱下ったところにある。ここにあるレストランからは浅間山が見渡せる。今週はあいにくもやがかかっていて浅間山はぼんやりと見えるだけであったが、先週の日曜日には頂上までくっきり見えた。レストランの中は静かだ。訪れる客も少ない。料理も実においしい。店員の接客態度も気持ちがいい。
昼食を済ませた後、山道の散歩を楽しんだ。森の中はひんやりと寒い。鳥のさえずりを聞きながら曲がりくねった狭い山道を歩く。ところどころに設置された標識だけが頼りだ。
一汗かいたところで温泉につかる。ここには大きくはないが清潔な温泉もある。以前は温泉が湧いていたが、いまは小瀬温泉からのもらい湯であるという。喧噪から離れた山の奥でゆったりと昼食をとり散歩を楽しんだ後の入浴は最高である。
ここには宿泊施設もある。4部屋しかないが。いつかここに泊まってみたいと思っている。
オナーズヒル軽井沢は国道18号線の追分の信号から南に車で10分弱下ったところにある。ここにあるレストランからは浅間山が見渡せる。今週はあいにくもやがかかっていて浅間山はぼんやりと見えるだけであったが、先週の日曜日には頂上までくっきり見えた。レストランの中は静かだ。訪れる客も少ない。料理も実においしい。店員の接客態度も気持ちがいい。
昼食を済ませた後、山道の散歩を楽しんだ。森の中はひんやりと寒い。鳥のさえずりを聞きながら曲がりくねった狭い山道を歩く。ところどころに設置された標識だけが頼りだ。
一汗かいたところで温泉につかる。ここには大きくはないが清潔な温泉もある。以前は温泉が湧いていたが、いまは小瀬温泉からのもらい湯であるという。喧噪から離れた山の奥でゆったりと昼食をとり散歩を楽しんだ後の入浴は最高である。
ここには宿泊施設もある。4部屋しかないが。いつかここに泊まってみたいと思っている。
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