午前0時を過ぎた。2007年7月7日になった。7が3つ並ぶ。きょう結婚届を出そうとしているカップルが多いと聞いた。
ちょうど30年前のきょう、つまり1977年7月7日、私は大学2年生であった。雨が朝から一日中降ったことを憶えている。この日の朝、クラスメートの一人から、その日の夜開かれるパーティに来ないかと誘われた。7が4つ並ぶ日を記念してフェリス女子学院の学生がパーティを開催するという。欠員ができたので来ないかということであった。
パーティは横浜の元町で開かれた。私が会場に到着したときには既に多くの男女が集まっていた。女性はすべてフェリス女子学院の学生であった。男性は半分が他大学の医学部の学生であった。彼らは私たちよりも2〜3学年上であると聞いた。
パーティでは「牧子さん」と呼ばれていたフェリスの女子学生が進行役を務めた。今いう「コンパ」でも「合コン」でもなかった。文字通り、7が4つ並ぶ日を祝うパーティであった。ある店のワンフロアーを借り切り、部屋の周囲に椅子が並べられているだけの簡素な部屋の中で会は進行した。田舎者である私はその会場の華やかな雰囲気にのまれてパーティが終わるまでずっと片隅でじっとしていたに違いない。そのパーティがどのように進められたのかとんと思い出せない。
一次会が終わり、二次会の会場に移動することになった。二次会の場所は渋谷であった。東横線に乗って移動した。その電車の中で隣同士になったのが「みどりちゃん」と呼ばれていた女性であった。彼女は群馬県の前橋市から出てきたということであった。人懐っこい女性であった。彼女を挟んで隣の隣には他の大学の医学部生が座った。彼は私よりもずいぶん年上に見えた。彼女と私とはその後数年間この医学生にずいぶんと可愛がってもらった。
「みどりちゃん」とはその後、グループでよく会うようになった。彼女は同じフェリス女子学院の同級生と3人で一軒家を借りきって住んでいた。この家には誰も使っていない部屋が一部屋あった。私はアルバイトの帰りにこの家に立ち寄り、何人かの友人といっしょにこの部屋で何度か寝泊まりさせてもらった。布団がなかったので、いつも炬燵の中に足を入れて雑魚寝であった。この部屋にはテレビが置いてあり、全員揃ってテレビを観ることもよくあった。小さな炬燵を囲んで膝をぶつけながら食事をし酒を酌み交わしながら夜中まで騒ぐことも珍しくなかった。
程なく私は専門課程に進みキャンパスが彼女たちの家から遠くなった。自ずと彼女たちからは縁遠くなった。しかし、その後、この家には私の友人が連れてきた男連中がたくさん出入りするようになったようだ。なんと私のクラスメートの一人は、この部屋で一ヶ月間ずっと寝泊まりしながら大学に通っていたということをずっとあとになって彼自身の口から聞かされた。
彼女たちが大学を卒業するまでの間、彼女たちと彼女たちの家に出入りしてくる大学生たちの間ではさまざまな人間模様が繰り返されたようだ。恋愛関係になったカップルもあったと聞いた。しかし、私だけはそのような世界からは無縁であった。
この「みどりちゃん」の結婚式にはこれらの仲間が集った。そしてその数年後の私の結婚披露宴にも彼らは集まってくれた。「みどりちゃん」は今、埼玉県に住む。3児の母だ。たまに電話で話すことがあるが、声もしゃべり方も30年前と全く変わらない。当時、「みどりちゃん」を介して知り合った「のりこさん」という女性ともまだ親交がある。彼女は私よりも1歳年上である。知りあった当時、彼女は食道がんでお父様を亡くしたばかりであった。いつもどこかに暗さを持つ女性であった。彼女の持つこの暗さは今も変らない。なぜか私は彼女よりもむしろ彼女のお母様から慕われた。「みどりちゃん」と「のりこさん」はこの30年間、実に対照的な人生を歩んできた。いま大学時代のことを振り返ると、ふたりがその後担うべき運命は既にその時期から定められていたようにも感じる。
二人は今も私にとってかけがえのない異性の友人である。1977年7月7日。30年も前のことである。
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