私は髪を染めた女性が好きではない。いや、髪を黄色く染めた女性を見ると嫌悪感を催すと表現した方が、より適切かもしれない。以前と比べると最近は髪を真黄色に染めた女性は減った。しかし茶色く髪を染めている女性はむしろ増えているかもしれない。
私には若い女性が髪を茶色く染める心理がよく理解できない。なぜ美しい黒髪をわざわざ染めて艶のない髪にしてしまうのであろうか。なぜ白髪のない美しい黒髪の艶をもっと出そうとしないのか。
かつて、ある先輩が、「あれは毛唐に対する劣等感だ!」と吐き捨てるように言ったのを今でも時折思い出す。
女性が時間とお金をかけてわざわざ髪を茶色く染める最も大きな理由は、髪を茶色く染めた方がより美しくなると彼女たち自身が思っているからであろう。自分の髪が黒いことに劣等感を感じていることが一番大きな理由ではないであろう。
しかし、髪を染めた女性を美しいと私は感じたことがない。髪を染めた女性のなかにも顔立ちの整った美人がいないわけではないが、それらの女性ももし髪を染めていなければもっと美しいだろうと思う。
話がとぶ。
私は1993年から1995年まで2年間、ドイツのミュンヘンに留学した。その2年間、私が精神的に最も必要としたのは自分自身のアイデンティティーを失わないことであった。
私は男であるから、自分の髪を茶色に染めることはないが、もし私が女性であったとしたらどうであったであろう。ドイツ人の金髪に近い色に自分の髪を染めたであろうか。考えられないことである。自分の黒い髪を失うことは自分の日本人としてのアイデンティティーを失うことである。アイデンティティーを失うことは自分の精神の芯を失うことである。
「ユダヤ教を信じるものがユダヤ人である」という表現はよく耳にする。この逆説的な表現を私は長い間理解することができなかった。この表現の意味を自分なりに理解できるようになったのは留学から戻ったあとであった。ユダヤ人は長きにわたって自分の国を持たなかった。自分の国を失ったユダヤ人にとって、ユダヤ教を信じ護ることが自らのアイデンティティーを失わないための唯一の選択肢であったのだ。
話を戻す。
日本で生まれ日本で暮す日本人であれば「アイデンティティー」などといった大げさなことに悩む必要はないであろう。しかし、自分の個性は何なのかとか自分の美しさはどこにあるのかといったことは考えることがあるのではないだろうか。
もしこれらの事柄についてひとりひとりの女性が真剣に考えているならば、これほど多くの若い女性が髪を茶色く染めることになるはずがないと私は思う。日本女性として身につけるべき美しさは髪を染めることによって得られるものではない。
この頃、私は化粧を落とした女性の顔を見るのが怖くなった。素顔はあまりにも醜い。眉毛もないことが多い。
若い女性が美しくなる秘訣は心を磨くことではないだろうか。外見だけをいくら飾り立てても美しく見えるわけではない。化粧では小皺や小さなシミを隠せても心の醜さは隠せない。電車の中で化粧をしている女性を見ればそれがよくわかるであろう。
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