生まれ育った高知を離れ上京してから35年経った。もちろんこの35年間、ずっと東京に住んでいたわけではない。東京に住んだのは通算27年である。それでも生まれ故郷である高知よりもずっと長く東京に住んだことになる。同僚は、私には訛りがないと言う。
しかし、今でも、東京の言葉で何かを表現しようとするともどかしく感じることが少なくない。土佐弁だと一言で微妙なニュアンスを伝えることができるのに東京の言葉ではいくら言葉を尽くしてもそのニュアンスを伝えることができないことがあるのだ。
「やしべる」という言葉は土佐弁であるが、この言葉のニュアンスを一言で伝えられる言葉は東京にはない。敢えて意訳すれば「弱いものいじめをする」ということになるであろうか。だが、「弱いものいじめする」という表現はあまりにも都会的であり、「やしべる」という言葉の持つ暗くてじめじめした雰囲気が伝わってこない。
「やしべる」に限らない。「およけない」、「やくがかかる」、「きしょくがわるい」、「ほたえる」、「しらった」、「くじをくる」、「ころがたつ」、「こみこんで」、「のうがわるい」、「しでる」、「たつくる」、「さがしい」、「たくのうで」などといった言葉の持つニュアンスも東京の言葉では言い表せない。
それだけではない。ひとつひとつの土佐の方言には私の思い出が染み付いている。たとえば、「およけない」という言葉をつぶやくと、いつも生前の祖母の顔が浮かぶ。祖母が「およけない」という言葉を使ったときの光景が目の前に浮かんでくるのだ。「ほたえる」という言葉は私の父を思い出させる。
「やしべる」という言葉はそれ自体、悪い意味しか持たない。しかし、「やしべる」という言葉を思い浮かべるたびに、私はこの言葉が本来持っている意味以上に不愉快な思いに取り憑かれる。幼い頃に「やしべられた」辛い思い出が今でもまざまざと蘇ってくるのだ。
「他人をやしべたらいかん。絶対、やしべられんでえ。」
私は父親から耳にタコができるほどこう言い聞かせられながら育てられた。
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