昨夜、自宅で夕食をすませたあと、私は散歩に出かけた。いつもは巣鴨駅の方に向かって歩く。途中の公園で鉄棒にぶらさがって身体を伸ばしたり柔軟体操をしたり、巣鴨駅前の書店に立ち寄ったりしながら、閑静な住宅街をぶらぶらと散策するのだ。
ただ、昨夜は、自宅を出た直後に気分が変わり、巣鴨駅と反対方向に歩いてみた。当てはなかった。足が向くのに任せて歩いた。ふと気がつくと、飛鳥山公園の前の歩道を歩いていた。飛鳥山公園を見ると私はいつも浪人時代のことを思い出す。
私は浪人生活をしている時期、毎朝、この飛鳥山公園を横切って予備校に通った。当時、私は都内で唯一の路面電車である都営荒川線の滝野川一丁目駅の線路脇に住んでいた。私が住んでいた下宿は3畳一間。家賃は1月7千円であった。洗面所は共同。風呂もなかった。近くの銭湯に通った。ここには同世代の学生が5人住んでいた。大学生が3人。いずれも近くの東京外国語大学の学生であった。残りが私を含めて浪人生が2人。もう一人の浪人生も私と同じく、お茶の水にある駿河台予備校に通っていた。
私の部屋にあるのは、小さな冷蔵庫と机、そしてビニールファスナーと古ぼけたテープレコーダ。これらが全てであった。小さな押し入れは布団を入れるだけでいっぱいになった。そして、夜、寝る前に布団を敷くと、全く畳が見えなくなった。この狭い3畳の部屋が私が一人で占有することができる唯一の空間であった。
都会生活に慣れない私は、電車でお茶の水の予備校まで通うだけでへとへとになった。予備校の教室は学生ですし詰めであった。机は長机と長椅子。3~4人がその私が使用できる幅は50センチほどしかなかった。この狭さも疲労を増悪させる原因であった。予備校の授業は午前中だけで終了する曜日もあったが、そのような半日授業の日であっても、帰宅後、しばらく横たわって身体を休めなければその日の授業内容の復習をすることができなかった。救いは、授業がとても楽しいことであった。学問の楽しさを教えられた授業であった。浪人生は誰もが挫折感に苛まれていたが、予備校の講師は誰もが私たちの能力を高く評価してくれた。事実、私の通う予備校からは、日本中のどの有名高等学校よりも多い東大そして医学部への合格者を出した。
この下宿の大家さんは金坂さんといった。当時、既に70歳を過ぎているように見えたが、頭脳はすこぶる明晰であった。定年を迎えるまで、ある新聞社の記者をしていたということであった。金坂さんはご夫婦で1階に住んでいた。風通しが悪く薄暗い部屋であった。二人はいつも電気炬燵のなかに入ってテレビを観ていた。奥様は眼が不自由なように見えたが、そのことについて金坂さんから話を聞いたことはなかった。
私が大学に合格してその下宿を引き上げる日、田舎から私の両親が出かけてきた。母親はわずかばかりの私の荷物をまとめるのを手伝ってくれた。私の荷物をまとめながら、母親は私の部屋の狭さに驚いた。しかし父はずっと1階の大家さんと話し込んだまま、私の部屋にあがってくることはなかった。荷物をまとめ終わって私が1階に降りていくと、父親は上機嫌であった。そして炬燵から立ち上がって大きな声で私にこう言った。「えい大家さんのところに住んじょったねえ。」父親は、金坂さんの高い見識に触れて感動したようであった。
私は横浜で大学生活の第一歩を踏み出した。そして辛かった浪人生活を少しずつ忘れていった。
私が今住む家はこの下宿から徒歩で10分ほどの場所にある。浪人生活を送ったこの下宿のすぐそばに住むことになろうとは考えもしなかった。この下宿の建物は今も残っている。しかし建物の屋根と外枠だけである。この建物は材木置き場になっている。誰も住んではいない。
この下宿の前を通り過ぎて自宅に戻る途中、当時あった銭湯の煙はみえないだろうかと、私は、今は材木置き場となっている元の下宿の上空を見上げた。 煙はなかった。
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