2009年10月27日火曜日

通信簿

私の息子が通う小学校では、4年生になると通信簿がつくようになる。

通信簿のことを私は子供の頃から「通知簿」と呼んできた。「通信簿」と「通知簿」とどちらが正しい呼び名なのか、私は知らない。どちらも正しい呼び名なのかもしれない。

私が子供の頃は、小学校1年生のときからずっと学期末に通信簿をもらった。学校で担任の先生から一人一人名前を呼ばれ教壇に立つ担任の先生から通信簿をもらう。これは私が小学校を卒業するまで毎回繰り返された終業式の日のお決まり行事であった。

私が初めてもらった小学校1年生の1学期の通信簿のことは、今もおぼろげに覚えている。私はその通信簿を自宅の囲炉裏端で母親と一緒に見た。5段階評価であった。算数は「5」であった。「5」の評価をもらったのは算数のみ。他の教科は「4」か「3」であった。母親は何も言わずその通信簿を棚にしまった。

私は高校を卒業するまで、自分の通信簿について親から何か言われたことは一度もなかった。親は私の学校での成績には関心がないものと私は思っていた。

定期試験の直前には「早く寝るように」と、親からよく諭された。しかし「もっと勉強するように」と言われたことはなかった。私と姉とは3歳違いであった。私が中学校に入った年に姉は高校生になった。私と姉の定期試験の時期はほぼ重なった。私たちふたりは定期試験の直前になるといっしょに勉強したが、二人ともいつも一夜漬けであった。勉強用の机は買ってもらっていた。しかし私たちが机に向かって勉強することはなかった。電気炬燵が私たちの勉強机であった。母親は時折、眠いだろうからと言って私たちにコーヒーを運んでくれたが、私たちが勉強している姿を見ても喜ぶことはなかった。私たちの勉強が終わりそうもないのを確かめると、逆に落胆したかのような表情を見せながら「早く寝なさいよ」と一言だけ言って立ち去り、先に寝た。

父親が私の通信簿を見ていた記憶は私にはない。私が社会人になってから、私の高校までの成績について知っていたのかと父親に尋ねたことがある。父親は「知っちょったよ(知っていたよ)」と答えた。ただ、それだけであった。私の通信簿を見た際にどのような感想を抱いたかについて語ることはなかった。

のんびりした時代であった。少なくとも親が自分の子の成績に一喜一憂する時代ではなかった。

ただ、私の両親と同じ世代の人たちはこう言うかもしれない。「自分が生きていくのに精一杯だっただけなんだよ。」

確かに貧しい時代であった。しかし将来への希望に満ちた時代でもあった。私自身もクラスメートも、そして誰もが、自分の将来にはきっといいことが待ち受けていると無意識に思っていた時代であった。

2009年10月23日金曜日

父 その3

幼い頃、私が父親に遊んでもらったことがなかったことはこのブログのなかで既に書いた。しかし、当時、そのことに私が強い不満を抱いていたわけではない。私は、父親と遊ぶことを想像したことすらなかった。私の父親は私に無関心であるが、世の父親も皆、自分の子にはさほど興味を抱かないものだろうと思っていた。

こんな私であったが、私と同年代の子供たちが父親と楽しそうに遊んでいるのを見て羨ましいと感じたことがないわけではなかった。

実家の隣に1歳年下の男の子が住んでいた。私が中学生になるまで彼とはよく一緒に遊んだ。

彼の家の庭には卓球台があった。手作りの卓球台であった。薄い黄緑色のペンキで塗られていた。10枚ほどの板を組み合わせて作られており、板と板との間には隙間があった。その隙間にピンポン球が落ちるとイレギュラーバウンドした。誰が作った卓球台であるのかを聞いたことはなかったが、私はその男の子の父親が作ったのだろうと思った。

その男の子と私とはその卓球台でよく卓球をした。彼と私が卓球をしているときに彼の父親が帰宅すると、彼の父親はいつも彼の父親は私たちのそばに近寄ってきて私からラケットを取り上げ、自分の息子と卓球を始めた。その間、私は卓球台のそばに佇んで二人が楽しそうに卓球するのを眺めた。

二人の卓球は長く続いた。いつまでも終わることがなかった。二人は私がそばにいるのをすっかり忘れているかのように卓球に興じた。実に楽しそうであった。彼らが私の方を振り返ることも私に話しかけることもなかった。私はただ黙って二人が仲良く笑いながら卓球を楽しむ姿を眺めた。私には無限に続く時間のように思えた。

息子との卓球を満喫すると、彼の父親は私には一言も話しかけず、無造作にラケットを卓球台の上に置いて立ち去っていった。

彼の父親は息子を心からかわいがっているように思えた。自分の父親に遊んでもらった記憶のない当時の私は少し羨ましく思った。と同時に、私は彼の父親に敵意のような感情も抱いた。彼の父親は自分の息子と私とが卓球をしている姿を見つけると必ず割り込んできた。子供同士が楽しく卓球をしているときには子供だけで遊ばせてくれてもいいのではないのではないかと私は思った。

こんなこともあった。当時、私の家にはテレビがなかった。毎週、日曜日の午後6時からは、彼の家の茶の間に置いてあるテレビの前に座って私たちは「風のフジ丸」というアニメを観た。しかし、私たちがその番組を観ているときに彼の父親が帰宅すると、毎回、彼の父親は無言でテレビの電源を切って立ち去った。父親が立ち去った後、父親に切られたテレビの電源を彼がもう一度入れることはなかった。彼と私との間には数分間の沈黙が訪れた。

彼の父親は生前、正面から私の目を見たことすら一度もなかった。当然、私に話しかけることもなかった。小学校を卒業すると、私は地元の中学ではなく高知市内にある私立中学校に進学した。それと同時に私が彼と遊ぶことはなくなった。彼の父親と顔を合わせることもなくなった。

彼の父親は20年ほど前、交通事故で急死した。私の父親からその訃報がもたらされたとき、私は右手をじっと胸に当てて目を閉じた。なぜ無意識にそのような動作をしたのか自分でもわからなかった。

2009年10月17日土曜日

「やしべる」

生まれ育った高知を離れ上京してから35年経った。もちろんこの35年間、ずっと東京に住んでいたわけではない。東京に住んだのは通算27年である。それでも生まれ故郷である高知よりもずっと長く東京に住んだことになる。同僚は、私には訛りがないと言う。

しかし、今でも、東京の言葉で何かを表現しようとするともどかしく感じることが少なくない。土佐弁だと一言で微妙なニュアンスを伝えることができるのに東京の言葉ではいくら言葉を尽くしてもそのニュアンスを伝えることができないことがあるのだ。

「やしべる」という言葉は土佐弁であるが、この言葉のニュアンスを一言で伝えられる言葉は東京にはない。敢えて意訳すれば「弱いものいじめをする」ということになるであろうか。だが、「弱いものいじめする」という表現はあまりにも都会的であり、「やしべる」という言葉の持つ暗くてじめじめした雰囲気が伝わってこない。

「やしべる」に限らない。「およけない」、「やくがかかる」、「きしょくがわるい」、「ほたえる」、「しらった」、「くじをくる」、「ころがたつ」、「こみこんで」、「のうがわるい」、「しでる」、「たつくる」、「さがしい」、「たくのうで」などといった言葉の持つニュアンスも東京の言葉では言い表せない。

それだけではない。ひとつひとつの土佐の方言には私の思い出が染み付いている。たとえば、「およけない」という言葉をつぶやくと、いつも生前の祖母の顔が浮かぶ。祖母が「およけない」という言葉を使ったときの光景が目の前に浮かんでくるのだ。「ほたえる」という言葉は私の父を思い出させる。

「やしべる」という言葉はそれ自体、悪い意味しか持たない。しかし、「やしべる」という言葉を思い浮かべるたびに、私はこの言葉が本来持っている意味以上に不愉快な思いに取り憑かれる。幼い頃に「やしべられた」辛い思い出が今でもまざまざと蘇ってくるのだ。

「他人をやしべたらいかん。絶対、やしべられんでえ。」

私は父親から耳にタコができるほどこう言い聞かせられながら育てられた。

2009年10月14日水曜日

飛鳥山公園

昨夜、自宅で夕食をすませたあと、私は散歩に出かけた。いつもは巣鴨駅の方に向かって歩く。途中の公園で鉄棒にぶらさがって身体を伸ばしたり柔軟体操をしたり、巣鴨駅前の書店に立ち寄ったりしながら、閑静な住宅街をぶらぶらと散策するのだ。

ただ、昨夜は、自宅を出た直後に気分が変わり、巣鴨駅と反対方向に歩いてみた。当てはなかった。足が向くのに任せて歩いた。ふと気がつくと、飛鳥山公園の前の歩道を歩いていた。飛鳥山公園を見ると私はいつも浪人時代のことを思い出す。

私は浪人生活をしている時期、毎朝、この飛鳥山公園を横切って予備校に通った。当時、私は都内で唯一の路面電車である都営荒川線の滝野川一丁目駅の線路脇に住んでいた。私が住んでいた下宿は3畳一間。家賃は1月7千円であった。洗面所は共同。風呂もなかった。近くの銭湯に通った。ここには同世代の学生が5人住んでいた。大学生が3人。いずれも近くの東京外国語大学の学生であった。残りが私を含めて浪人生が2人。もう一人の浪人生も私と同じく、お茶の水にある駿河台予備校に通っていた。

私の部屋にあるのは、小さな冷蔵庫と机、そしてビニールファスナーと古ぼけたテープレコーダ。これらが全てであった。小さな押し入れは布団を入れるだけでいっぱいになった。そして、夜、寝る前に布団を敷くと、全く畳が見えなくなった。この狭い3畳の部屋が私が一人で占有することができる唯一の空間であった。

都会生活に慣れない私は、電車でお茶の水の予備校まで通うだけでへとへとになった。予備校の教室は学生ですし詰めであった。机は長机と長椅子。3~4人がその私が使用できる幅は50センチほどしかなかった。この狭さも疲労を増悪させる原因であった。予備校の授業は午前中だけで終了する曜日もあったが、そのような半日授業の日であっても、帰宅後、しばらく横たわって身体を休めなければその日の授業内容の復習をすることができなかった。救いは、授業がとても楽しいことであった。学問の楽しさを教えられた授業であった。浪人生は誰もが挫折感に苛まれていたが、予備校の講師は誰もが私たちの能力を高く評価してくれた。事実、私の通う予備校からは、日本中のどの有名高等学校よりも多い東大そして医学部への合格者を出した。

この下宿の大家さんは金坂さんといった。当時、既に70歳を過ぎているように見えたが、頭脳はすこぶる明晰であった。定年を迎えるまで、ある新聞社の記者をしていたということであった。金坂さんはご夫婦で1階に住んでいた。風通しが悪く薄暗い部屋であった。二人はいつも電気炬燵のなかに入ってテレビを観ていた。奥様は眼が不自由なように見えたが、そのことについて金坂さんから話を聞いたことはなかった。

私が大学に合格してその下宿を引き上げる日、田舎から私の両親が出かけてきた。母親はわずかばかりの私の荷物をまとめるのを手伝ってくれた。私の荷物をまとめながら、母親は私の部屋の狭さに驚いた。しかし父はずっと1階の大家さんと話し込んだまま、私の部屋にあがってくることはなかった。荷物をまとめ終わって私が1階に降りていくと、父親は上機嫌であった。そして炬燵から立ち上がって大きな声で私にこう言った。「えい大家さんのところに住んじょったねえ。」父親は、金坂さんの高い見識に触れて感動したようであった。

私は横浜で大学生活の第一歩を踏み出した。そして辛かった浪人生活を少しずつ忘れていった。

私が今住む家はこの下宿から徒歩で10分ほどの場所にある。浪人生活を送ったこの下宿のすぐそばに住むことになろうとは考えもしなかった。この下宿の建物は今も残っている。しかし建物の屋根と外枠だけである。この建物は材木置き場になっている。誰も住んではいない。

この下宿の前を通り過ぎて自宅に戻る途中、当時あった銭湯の煙はみえないだろうかと、私は、今は材木置き場となっている元の下宿の上空を見上げた。 煙はなかった。

2009年10月12日月曜日

小さな思い出

私は小学校入学前、2年間、保育園に通った。私が保育園に通っている時期、一人の男の子が同じ保育園に入ってきた。彼は、母、姉と3人で私の住む田舎に引っ越してきたのだ。両親が離婚したためと人づてに聞いた。彼の母も同じ保育園に勤務するようになった。彼女は、私たちの通う保育園で私たちの給食をつくってくれた。

私たちは同じ、地元の公立小学校に進学した。私たちの学年の児童ははわずか45人。それでも2クラスに分かれた。彼と私とは同じクラスになった。

2年生のときであった。いや、1年生のときであったかもしれない。彼の母が交通事故に遭って亡くなった。私たちが通っていた保育園のすぐ近くの国道で自動車にひかれたのだ。彼はしばらく学校を休んだ。担任の先生から、彼が高知市内の小学校に転校することになったことを知らされた。

彼が転校していく日、彼は朝から学校に出てきた。教室では彼とのささやかなお別れの会が開かれた。その会が終わると彼はお昼前に帰宅していった。私たちは彼を学校の正門で見送った。ランドセルを背負った彼は、何度も私たちの方を振り返りながら笑顔を見せ、手を振った。私たちも競って手を振った。まだ子供であった私にも、彼の笑顔は痛々しく感じられた。彼は母と死別し、仲良くなったクラスメートとも別れていくのだ。彼は父親に引き取られることになっていた。しかし彼が一緒に暮らすことになる父との生活は、母との生活と比べれば、ずっと寂しいものになるであろう。なぜ彼は笑顔を見せられるのだろうと私は不思議に思った。

私が手を振りながらふっと左側を振り返ると、担任の先生がじっと彼の方を見つめながらハンカチを顔にあて、涙ぐんでいるのに気がついた。担任の先生はずっと無言であった。

彼を見送った後、私たちは教室に戻った。担任の先生はもう泣いてはいなかった。私たちは、その日の午後、いつもと変わらぬ授業を受け、帰宅した。その後、彼の思い出話が私たちの間で話題にのぼることはなかった。担任の先生も彼のことを口にすることはなかった。

彼とは2度か3度、手紙のやり取りをした。その後、彼との接触は途絶えた。

40数年前のことである。