「のりたま」といえば昔からある有名なふりかけだ。私が物心ついたときには既にあった。
この「のりたま」を1週間前の朝食時に家内が出してきた。私が「のりたま」に何らかのこだわりを持っていることをあたかも知っているかのごとく、「はい、のりたま」と言って、袋を私に差し出した。
私は何も言わず「のりたま」の袋を受け取り、開封した。「のりたま」を口にするのは何時以来であっただろうか。記憶がない。
私が子供の頃、わが家にとって「のりたま」は高級品であった。掌に少し乗せた程度の量で150円ほどした。当時のわが家の食卓に「のりたま」がのったことはなかった。代りに、「のりたま」の数十倍の量が入っているにもかかわらず、それよりもずっと安く売られていた、おかかのようなふりかけを母親がよく買ってきた。大きな袋にはち切れんばかりにふりかけが詰め込まれていた。
対照的に、隣の家の食卓には、いつも「のりたま」がのっていた。その家には、私より一歳年下の幼友達が住んでいた。私が「のりたま」の味を憶えているのは、その家で何かの折りに「のりたま」を食べさせてもらったことがあるからに違いない。「のりたま」は当時の私にとって富の象徴そのものであった。
そういえば、当時、わが家にはテレビもなかった。一週間に二度ほど祖母につれられて近所にテレビを観せてもらいにでかけた。「事件記者」という番組と「お好み新喜劇」という番組を祖母は好んだ。
隣の幼友達の家でもテレビを観せてもらうことがあった。「風のフジ丸」というアニメ番組であった。幼友達とテレビの前に並んで座り一緒に観た。
しかし、幼友達のお父さんが帰宅して私たちがテレビを観ているのを目にすると、必ずといっていいほど黙ってテレビを消してしまった。私へのいやがらせであった。いつしか私は、隣の家でテレビを観せてもらうときには、幼友達のお父さんの帰宅を無意識に恐れるようになった。
その家には卓球台もあった。私とその幼友達とはその卓球台を使って、よく卓球もした。しかし、その幼友達のお父さんが帰宅すると、いつも私はラケットを取り上げられた。そして親子で延々と卓球を続けた。私は黙ったまま、ずっとその親子の遊ぶ様を傍らで見ていた。
私は子供心にその幼友達のお父さんを憎んでいた。ただし、まだ幼かった私には、その当時、私が抱いていた感情が「憎しみ」といえるものであるという自覚はなかった。
私が幼い頃、わが家には親子で遊ぶということはただの一度もなかった。父親は仕事をしているか、気難しい顔で考え事をしているかのいずれかであった。家族に怒鳴り散らすこともよくあった。父親が笑っているのを見た記憶はない。私にとって父親は恐怖の対象でしかなかった。そのためか、私の幼友達とそのお父さんが卓球をしながら会話を交わしている姿は、一面では、私にとって憧れであった。
その幼友達のお父さんは20年ほど前に交通事故で亡くなった。即死であった。そして、その幼友達も数年前から大病を患っている。彼は離婚し、子供もいない。住む家もシロアリの巣となり、今にも崩れ落ちそうだ。それに引き換え、私の父親はまだ元気だ。母親も自由のきかない身体になっているが、命には別状がない。人生はわからないものだとつくづく思う。
「のりたま」のことを考えているうちに、思わぬ方向に考えが逸れてしまった。
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