私の書斎の棚には3冊の歌集が立っている。「海に向かへば」、「朱い実」、「メロンパン」の3冊である。いずれも大崎瀬都の歌集である。
過去にも書いたとおり、彼女と私は高校の同期生である。クラスがいっしょになったことはなく、在学中に彼女と会話を交わしたこともなかった。しかし彼女の歌は、高校生向けの雑誌に毎月のように掲載されており、当時から彼女の感性に深い感銘を受けていた。
彼女と話したことはこれまで一度しかない。高校の同窓会が毎年秋に東京で開かれる。その二次会の席で同級生と彼女を話題が出て、誰かが同窓会に出席していなかった彼女に電話をかけた。そのとき短時間会話を交わしたのが最初で最後である。
しかし、それ以後、彼女と年賀状のやりとりをするようになった。
下の切り抜きは、昨年9月に彼女が送ってきてくれたものである。消印は平成26年9月9日となっている。昨年3月に私の実父が亡くなり、残された母親の介護のためにたびたび帰省していた当時の私には、彼女が送ってきてくれた歌をじっくりと鑑賞する余裕はなかった。父親が倒れてから2年。この2年間は週末に自宅でのんびりできる日は全くなかった。
きのうは思い切って大切な会合への出席を取りやめて一日中家に籠もり、書類の山の整理をした。彼女が送ってくれた手紙は、リビングのiMacの下に置かれたままになっていた。その封筒の中には彼女の歌の切り抜きに加えて彼女の直筆の手紙が添えられていた。その添え書きには、彼女も2年前に実父を亡くしたと書かれていた。
「かつて父の身体でありし千の風千の分子を行き深く吸ふ」
「ゆっくりと水車の廻る四万十市安並に父と兄の墓あり」
「子どのものとき逝きし兄にはコーヒーを父にはやめてゐし酒を置く」
「ヘルパーさんに鍵を渡して何もかも明け渡したる母の起き臥し」
2015年6月13日土曜日
又従兄弟
私の父親は昨年3月7日に亡くなった。二度目の脳梗塞発作で倒れたのが一昨年の6月末。8ヶ月あまりで亡くなったことになる。
一昨年の6月に父親が倒れて以来、ずっと私を助けてくれている又従姉がいる。彼女は私と同い年。小学校、中学校、高等学校と12年間同じ学校に通った。小学校1年生と2年生のときにはクラスも同じであった。
彼女は大学在学中に結婚した。しかし数年後に離婚し小学校入学前の一人息子を連れて高知に帰ってきた。しかし実家には戻らず、息子と二人暮らしを始めた。彼女が離婚して高知に戻ってきた直後に一二度彼女に会ったことがあった。一人息子のかかとの形が元の夫のかかとにそっくりだと彼女が笑っていたことを思い出す。
彼女は薬剤師であった。したがって生活に困ることはなかった。今は、息子も結婚し、二人の孫がいる。自分自身は息子の家から歩いて5分ほどの場所に家を借りて住んでいる。以前、住んでいた家は売り払ったという。
彼女の家から高知龍馬空港までは車で10分ほど。父親が倒れたとき、彼女の家の駐車場に車を停めてもらってかまわないと彼女の方から申し出てくれた。そればかりではなかった。私が東京から帰省する際には、自宅の駐車場から空港まで車を届けてくれる。私が東京に戻る際にも車を空港の駐車場に乗り捨てておくと彼女が自宅の駐車場まで運んでくれる。もう2年間になる。
彼女がこんなことをしてくれるのは、自分自身の父親が脳出血で倒れたときの思い出があるからである。彼女は自分の父親とは決して仲良くなかった。しかし父親が初回の発作を起こしたあとは献身的に父親の面倒をみた。父親の最後の入院の際には、仕事を終えた後、一日も欠かさず数十キロ離れた病院を訪れた。そして父親のベッドのそばに消灯までいたという。父親に意識がある時期には、母親を説得して父親を車椅子に乗せ、母親、そして彼女の3人で沖縄旅行にでかけたこともあるということであった。
彼女は、私に、少しでも長い時間、両親(今は母親のみであるが)のそばにいてあげてもらいたいと話す。
私は地元の小学校を卒業後、高知市内の私立の中学校に進学した。私といっしょにその私立中学校に進学したのが、彼女ともうひとり。3人が同じ私立中学校に進学した。この二人とは長いつきあいになる。50年を越した。
高知に帰ると、時々、彼女といっしょに食事をする。彼女が地元のレストランを案内してくれる。つい先日帰省したときには、高知市内のホテルのレストランで彼女といっしょに食事しながら3時間ほど語り合った。
重い荷物をさげて一人で帰省し、病院の母親を見舞う。その合間をぬって空き家になった実家の草刈りや布団干し、実家の片付け。母親が元気になってもう一度実家に戻ることはもう期待できない。帰省しても心身の疲れが残るだけである。彼女との接点は、一抹の明かりを私の心に灯してくれる。
2015年6月9日火曜日
墓参
私は、高知に帰省すると、よく叔父の墓に参る。先日、高知に帰省した際にも叔父の墓を訪れた。そして墓の草をむしり墓前に手を合わせて墓地を後にした。
叔父はこの墓地ではなく実家の墓地に葬ってもらいたいと言っていたという。しかしその希望は叶わなかった。叔父にはふたり男の子がいるが、ふたりとも独身である。叔父の妻は、いずれこの墓の守をする人もいなくなるだろうと寂しげにつぶやくことがある。
私は叔父が愚痴を言うのを聞いたことがない。ただ、叔父が死んだ後、叔父の妻からこのようなことを聞いた。「まるで親戚中の不幸を我が家が一身に背負っているようだ」と叔父は嘆いていたという。
もう30年以上昔のことである。私はまだ多感な時期であり悩みも多かった。いつも考え込んでいた。そんなとき私はあることにはっと気がついた。どんなに悩んでも、あと50年すれば自分は死んでしまい、苦しむことすらできなくなると。50年という年月はあっという間ではないかと私は感じた。わずか50年ではないかと。
叔父がどれほどの不幸を背負っていたのか、詳しくは知らない。ただ、叔父がどれほどの不幸を背負っていたとしても、その苦しみは叔父の死とともに消えた。
自分の墓地を私がこれほど度々訪れようとは、生前、叔父は予期していなかったにちがいない。
2015年5月31日日曜日
叔父
この叔父について書くのは2度目になる。私の母親には3人の男兄弟がいたが、この叔父は上から2番目の男兄弟である。2年前の9月に亡くなった。
小さい頃から、私はこの叔父をとても尊敬していた。いやそれ以上に感謝していた。
私が地元の私立の中学に進学したとき、私の保証人になってくれたのはこの叔父であった。私が高校を卒業するまでの6年間、この叔父がずっと私の保証人になってくれた。この叔父に保証人になってくれるように依頼したのが実の姉である私の母親であったのかそれとも私の父親であったのかは知らない。いずれにしろ、私の父親も親族のなかではこの叔父を最も信頼していたことは間違いがない。
私は小学生になるかならないかの頃、この叔父が私の実家を訪れたときのことを今でも憶えている。当時、私の実家は藁葺きの今にも倒れそうなぼろ屋敷であった。家の中には電灯がともってはいたが、いろりのあった部屋はいつも薄暗かった。
叔父が私の実家を尋ねてきたとき、傍に家族の誰がいたのかは記憶がない。私が憶えているのは、叔父が私の家族との会話を少しの間中断して私の方に顔を向け、急に私の脇の下に両手を入れて私を高く持ち上げてくれたことだけである。そのとき、叔父は何か一言喋った。「よいしょっ」といったようなたわいのない言葉だったのかもしれない。
言葉はどうでもよい。私は、叔父の愛情をそのとき感じたのだ。
叔父の人生は必ずしも順調ではなかった。しかし決して義理を欠くことはなかった。何かの御礼にと私が叔父の家に何かを送ると、必ずそれ以上のお返しが返ってきた。
叔父の奥様にもひとかたならぬお世話になった。叔父と叔父の奥様とはいとこ同士であり私とも血のつながりがある。私とは従姉妹半の関係である。私が年末年始に帰省する直前には、この奥様は毎年、私の実家の掃除にでかけてきてくれた。母親の身体が不自由であったので手伝いに来てくれたのだ。
それに対して、私の両親は何度も御礼をしようとしたが、決して受け取ってくれなかった。叔父夫婦には男の子が2人いた。ふたりともまだ独身である。だから、彼らが結婚したときにこそまとまった御礼をするつもりだと母親は口癖のように言っていた。
父親が病気で倒れたときには既に叔父は亡くなっていたが、その奥様は変わりなく私たち家族を助けてくれている。私は実家に帰るたびに実家を片づけている。不要なものを倉庫に仮置きしている。それらのゴミを誰かが少しずつ持っていってくれている。その奥様と息子さんとが運んでいってくれているようだ。
何かの時のためにと少しのお金をその奥様に差し上げたが、母親のためにいろいろと買ってくれたときの領収書を添えて残金を全額返してきた。どうしても受け取ってくれない。
この叔父の家族は、実にお金にきれいな一家である。
父親が倒れて以来、実家の近くに住む人たちや親戚たちには随分厄介をかけた。助けてくれた人もいれば、このときとばかりに私の足を引っ張った人もいる。誰が信頼でき誰が信頼できないかもよくわかった。
自分がほんとうに困っているときに心から私を助けてくれた人たちに対しては、母親が亡くなったあと、まとまった御礼をするつもりでいる。逆に、私の足を引っ張った人たちからは黙って立ち去るつもりだ。そして高知との縁を一切切るつもりでいる。
2015年4月11日土曜日
沈まぬ太陽
「沈まぬ太陽」は山崎豊子の小説である。このことは以前から知っていた。しかしこの小説が1985年に起きたJAL123便の墜落事故を取り扱ったものであるということを、つい最近、家内から聞かされるまで、私はこの小説のテーマを知らなかった。
いま、テレビで「沈まぬ太陽」のドラマが放映されている。家内はこのドラマをじっと観ている。
事故が起きた当時、家内は日本航空に勤務していた。私が家内と知り合ったのは、その2〜3年後であった。この事故では、家内の会社の知人も何人か亡くなっていた。私は、時折、家内からこの事故のことを聞かされた。事故機に乗っていた乗員の家族の苦しみも聞いた。
長い間、組合問題で日本航空の社内が荒れていることを私は知っていた。したがって、漠然とではあったが、その事故も職員の規律の乱れが主たる原因ではなかったのかと私は思っていた。しかしこの事故の原因を巡っては今でも様々な説が流れている。単純な事故ではなかったようだ。
日航機は群馬県上野村の御巣鷹山に墜落したと思われている。これは正確ではない。日航機が墜落したのは群馬県上野村の高天原山の尾根である。今はこの山の中腹まで車で登れる。私たちは、軽井沢から佐久市経由でこの山を目指した。しかし佐久から上野村に抜ける山道は狭い上に曲がりくねり道路標識もなかった。果たして無事、峠を越せるかどうかを不安に思いながら私は運転した。案の定、崖崩れのため、当初通るつもりであった道は閉鎖されていた。しかたなく別の道を進んだが、すれ違う車もほとんどなく、ずっと不安であった。
上野村に着いたあとも高天原山へのルートを見つけるのは容易ではなかった。車を停めては地元の人やすれ違う人たちに何度も道を尋ねた。
事故現場に向かう高天原山の中腹にある駐車場には多くの車が停められていた。雨模様の天気のなか、そこに車を停め、私たちは山を登った。かなりきつい坂道であった。事故当時はずっと下から登ってこなければならなかった。遺族はさぞかし大変であったことであろう。
事故現場は、A、B、・・と区画されていた。そしてご遺体が見つかった場所には犠牲者の名前を記した立て札が立てられていた。
私たちはひとつひとつの区画を回り、家内の知人の名前を探した。そして知人の立て札を見つける度にその前で手を合わせた。険しい山道を歩き回りながら、家内は、事故機の乗員の家族がどれほど辛い思いをしたのかをぽつりぽつりと喋った。事故現場には犠牲者全員の名前が石碑に刻まれていた。乗客の名前はあいうえお順であった。しかし乗員の名前は犠牲となった乗客の最後尾にまとめて刻まれていた。
亡くなった家内の同僚のひとりの立て札の前で、家内は「死んだらおしまいよ」と吐き捨てるようにつぶやいた。この言葉は、妙に私の胸に突き刺さった。
事故現場には2時間ほど滞在したように思う。この間、当然のことながら私の心は沈んでいた。しかし不快感はなかった。犠牲者の魂が関係者や犠牲者の遺族によって慰められているのがその理由であろうと私は思った。浅間山荘に立った際に襲われためまいや吐き気に悩まされることはなかった。
今度は、息子も連れて3人で来ようと家内と話しながら私たちは事故現場を後にした。痛ましいあの事故が起きた当時、息子はまだ生まれていなかった。しかし、私たちがその事故から受けた衝撃を息子に伝えておきたいと思った。
ソフトデンチャー
きょうは朝から神奈川県の小田原市にでかけてきた。ある高齢の歯科医師にお会いすることが目的であった。
その歯科医師は昭和7年生まれ。83歳。私が時々訪れる銀座のエステサロンの経営者のお父様である。
この歯科医師は自分自身が日本に導入したソフトデンチャーの技術を後進に伝えようと数年前から後継者を探していた。そのことをその歯科医師のお嬢様であるエステサロンの経営者から聞かされ、ある歯科医師をご紹介したことがきっかけとなって繋がりができた。残念ながら私がご紹介した歯科医師とのご縁は結ばれなかったが、ご家族の皆様からとても感謝された。私に一度会いたいと何度も繰り返しおっしゃられ、本日の訪問となった。
ご自宅の一部が歯科のクリニックとなっていた。私がクリニックに着いたとき、ちょうど午前中の診療が終わった。その歯科医師はソフトデンチャーの実物やその素材の原料、関連する書類などを待合室に持ってきて私に対して熱心にソフトデンチャーについて熱く語った。そして、数年前、小田原中の歯科医院を回り、無償でソフトデンチャーを作製する技術を教えようとしたが、ひとりとしてソフトデンチャーに興味を示してくれなかったと嘆いた。
私はインプラント治療を手がけている歯科医師の知り合いが多い。しかしインプラント治療は危険が大きい。インプラント治療が適さない患者に対してはソフトデンチャーは有力な治療の選択肢ではないかと私は感じた。その歯科医師の説明を聞きながら、若い歯科医師の誰かがその歯科医師からソフトデンチャーの技術を学んでくれないだろうかと強く思うようになった。もし私が歯科医師であったならば、ぜひ教えを乞いたいと思った。
ソフトデンチャーの話が一段落したあと、その歯科医師とお嬢様(エステサロンの経営者)と私の3名で食事に出た。カウンターで寿司をご馳走になりながら、引き続きソフトデンチャーの話を聞いた。日本ではソフトデンチャーを作製できる技工士がいないことも聞かされた。中国の技工所に依頼しているとのことであった。その技工所に1年に3回以上出かけた時期もあったという。「ソフトデンチャー」という名称は商標登録されている。さまざまな書類手続きを進める上での苦労話も聞かせていただいた。
寿司屋を出た後、小田原駅のすぐそばにあるコーヒーショップに連れていってもらい、そこで更に話を続けた。ここでの話題の中心は、今の若い歯科医師に対する嘆きであった。そして今の若い人たちのモラルのなさやマナーの悪さについても語り合った。私も日頃から同じ印象を抱いていたので、その歯科医師の言葉のひとつひとつが胸に響いた。
その歯科医師を一言で表現すれば「堅物」である。私は全く正反対の性格であるので、逆にこのような一本筋の通った正義漢に共感を抱く。
その歯科医師は近日中にソフトデンチャーの見本を私の自宅に送ってくださるという。冒頭で述べたようにその歯科医師は83歳。時間の余裕がないと本人もご家族も感じていらっしゃる。ソフトデンチャーの技術をその歯科医師から学び、日本で普及させようと考える歯科医師はいないものか。
登録:
投稿 (Atom)

