2019年8月15日木曜日

御巣鷹山

一昨日(8月13日)、家内と一緒に御巣鷹山に登った。御巣鷹山に登るのは今年で5年連続。この時期に軽井沢に来ると、引き寄せられるように足が御巣鷹山に向かう。事故当時、私の家内は日本航空に勤めていた。家内の知人も2人この事故で亡くなった。

私の家内は国際線のCAであった。亡くなった2人のうちの1人は、2年間ほど家内と同じグループで働いた後、結婚し、子供が欲しいからという理由で国内線に移った。そしてその後、ほどなくその事故に遭った。彼女の関係者から家内が聞いた話であるが、事故の当日、彼女は、勤務(搭乗)するのを嫌がっていたという。何か不吉な予感があったのであろう。

私と家内は、必ず彼女の遺体が見つかった場所に建てられている墓標を訪れる。そして手を合わせる。残された彼女の夫はきっと再婚したのであろう。彼女の墓標には、人が度々訪れてきた形跡がない。

「人は死んだらおしまいよ。」この墓標の前で、私の家内はいつもこの言葉を口にする。

終戦記念日 特攻隊

終戦当時、私の父親は中学生であった。終戦の日、父親は近所の友人と釣りに出かけていたという。その帰り道にすれ違った人から、日本が戦争に負けたと告げられた。そんな話をにわかに信じられようはずがない。父親は友人と「あいつは気狂いだ」と話しながら帰宅したという。帰宅すると、これから玉音放送があるという。実家の隣の家にあったラジオの周りに近所の人たちが集まった。そして流れる玉音放送を聞いた。日本の敗戦を知り、涙する人もいたという。父親はきっとあっけにとられたに違いない。

父親は、中学校を卒業したら、特攻隊員に志願するつもりであった。しかし、晩年、父親は心から戦争を忌み嫌っていた。戦争がいかに人の人生を狂わせるのかを、自分の長兄(私の伯父)の死を通じ、身をもって体験したからであろう。

終戦記念日

きょうは8月15日。終戦記念日である。全国のあちこちで記念式典が開かれている。

幼い頃、この日に、私は毎年、祖父母に連れられて高知市内で開かれる慰霊祭に参列した。まだ小学生にもならない当時の私にこの式典の趣旨がわかろうはずはなかった。祖父母も何のために慰霊祭に毎年参列するのかについて私に何も話さなかった。式典は毎年、炎天下の下で開かれ、とても暑かったことは今も記憶に残っている。厳かな会であった。筵の上にじっと座って、当時の私には何のことかわからない行事が長時間にわたって続くことに私はじっと耐えていた。確か、正午であったと思う。鐘が鳴った。そのときは私もじっと目を閉じた。

私が小学校2年生のときの大晦日に祖母が亡くなった。以来、祖父も私も慰霊祭に参列することはなくなった。この式典が当時、高知市内のどこで開催されていたのか、わからない。また今も開催されているのかについても知らない。きっと開かれているに違いないが。慰霊祭というものが何のために行われるのかを私が知ったのは、ずっと後のことであった。祖父母がなぜ毎年慰霊祭に参列していたのかを知ったのもずっと後のことであった。

祖父母は長男(私の伯父)を戦争で亡くしていた。フィリピンのレイテ島で伯父は戦死した。終戦のわずか1ヶ月前であった。叔父の死は、遺された妻とひとりの幼子のその後の人生を大きく狂わした。叔父の墓には叔父の遺骨はなく、叔父の髪の毛と爪だけが埋葬されていると祖父からは聞かされていた。私の父親が亡くなる直前に行った改葬時に叔父の墓も掘り起こした。当然、何も出てこなかった。一握りの土を団子にし、東京に設けた新しい墓地に埋葬した。