2015年7月25日土曜日

祖母

これから書くのは母方の祖母のことである。この祖母は、晩年、夫つまり私の母方の祖父と同じ高知市内の病院に入院していた。そして二人ともこの病院で亡くなった。

私は高校時代、時々、この祖母を見舞った。東京の大学に入学したあとも、帰省する度に祖母の病室を訪れた。誰から促されたわけでもなかった。単に足が自然にそちらに向いただけであった。おそらく、幼い頃から私を可愛がってくれた祖母の笑顔を見たいという気持ちが私を病院へと向かわせたのであろう。

祖母は私の顔を見ると、たいそう喜んでくれた。長い入院生活は苦痛であったと思うが、祖母から愚痴がこぼれることはなかった。祖母は家族と離れて病院でひとりで生活し、その病院で自分の生を閉じることを自分にとってごく自然のことと感じているようであった。

ただ、そう感じたのは、多分、私がまだ若く、祖母の心情を十分理解できなかったからであろうと最近は思う。祖母も当然、家族と一緒に生活したかったに違いない。私が祖母を見舞う度に心から喜んでくれたのは、ほんとうに嬉しかったからであろう。

私が帰ろうとすると、祖母はいつも病室から私を追いかけてきた。そしてお金をくれた。いつも1万円くれたように思う。私は、お金をもらうために祖母を見舞いにきているように思われることがいやで何度も辞退したが、祖母は無理矢理、裸のお札を私に握らせた。「幸伸が来てくれて嬉しいから渡しゆうがやけ」といって、祖母はきかなかった。

祖母を見舞う度にお金をもらうことが心苦しくて、祖母から足が遠のいた時期もあった。

祖母が亡くなったことは、祖母が亡くなってしばらく経ったあと、両親から知らされた。私が帰省しても、両親の口からその祖母のことが話題として出されることはなかった。「年を取れば、誰もが死んでいくもの。死んでいった者は時間とともに家族からすら忘れ去られていくもの。」両親はこのような死生観を抱いているように私は感じた。

2015年7月20日月曜日

従兄の死

7月11日と12日の両日、介護帰省した。高知を発つ直前、母親が入院している病院からすぐ近くに住む従姉の家を訪れた。玄関のチャイムを鳴らしたが応答がない。留守かと思って立ち去ろうとしたとき、玄関の扉が少し開いているのに気付いた。誰かいるらしい。玄関の扉を開けて「こんにちは」と大きな声で呼んだ瞬間、茶の間で孫と一緒にいる従姉の姿が目に入った。チャイムが故障してたらしい。

従姉は玄関に出てくるや否や「幸伸、知っちゅう?」と話し始めた。そして一人の従兄が亡くなったことを私に告げた。その従兄の死を私は知らなかった。7月10日に亡くなったようだが詳細がわからないと従姉は話した。

亡くなった従兄は筋萎縮性側索硬化症を患って高知市内の病院に入院していた。2年ほど前にその従兄を見舞ったことがある。そのとき従兄は一生懸命私に話しかけようとした。しかし気管切開されていて声が出ない。結局、一言も理解することができないまま、私は病室を後にした。それが、私がその従兄の顔を見た最後であった。

従兄の葬儀は家族葬ですませたらしい。

従兄は二人兄弟であった。弟が一人いた。私が中学生になるまではよく従兄の家を訪ねたが、喧嘩ばかりしていた。夏休みには従兄宅に一週間ほど泊めてもらったこともあった。従兄の母親つまり私の伯母(私の父親の姉)は誰に対しても愛情深い女性であった。私が尋ねていったときには心から私を歓待してくれた。

すでに述べたように、伯母は若くして夫を亡くした。そして女手一人で二人の息子を育てた。伯母の人生は苦労の連続であった。しかし伯母が私にしかめ面を見せたことは一度もなかった。

晩年、この伯母は乳がんを患って左側の乳房切除術を受けた。私が見舞いに訪れると、伯母は胸を大きくはだけて術創を見せた。

この伯母のことを思い出すと今も心が和む。私の父親は五人兄弟であったが、私の父親も含めて五人全員がすでに亡くなっている。