2012年5月6日日曜日

あさま山荘事件

きのうから「あさま山荘銃撃戦の真相」大泉康雄(著)講談社文庫(上下巻)を読んでいる。

軽井沢のレイクニュータウンにある浅間山荘を家内と二人で見に行ったことは、昨年のブログに書いた。浅間山荘はレイクニュータウンの南側に位置する山の北斜面にあることは以前から知っていた。しかしその山の中の道路は迷路のように複雑であり標識もほとんどない。地元の人に浅間山荘への道を尋ねたこともあったが誰もが口をつぐんだ。

事件が起きたのは1971年2月。当時、家内は小学校6年生だったという。その年の夏、家内は家族と一緒に浅間山荘を見に行った。その頃はまだ山の斜面に木は生い茂っておらず、レイクニュータウンの湖畔からも浅間山荘がよく見えたという。車で山の斜面を登り、山荘の前にも立ったことがあるということであった。当時、その建物はまだ修復されておらず、鉄球で開けられた壁の穴が残っていたらしい。

現在、山の斜面は樹木に被われており、浅間山荘ばかりでなく他の建物も下からは見えない。家内と私は、「あさま山荘事件の真実」(北原薫明(著)ほおずき書籍)に掲載されていたごく簡単な地図だけを頼りに、車でゆっくり坂を登りながらあさま山荘を探した。人気もほとんどなく木が生い茂り、さびしい道であった。一回目にその山を訪れたときには、あさま山荘を見つけることができなかった。建物を見つけることができたのは1ヶ月後、2度目にその山を訪れたときであった。その日も雨が降り、道は暗く、寂しかった。

私は山荘の前で車を停め、建物の前に立った。そのとき、めまいと吐き気が襲ってきた。そして何とも表現のしようのない不快な感覚に襲われた。この感覚は、私が留学中に訪れたミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所に行ったときに私を襲った感覚と同じであった。

家内と私は直ちにその場を離れた。そして坂を下りる途中、その山荘の真下で車を停め、坂の下からその建物を見上げた。

あさま山荘事件での死者は3人。しかしその事件の前に犯人らのグループは14人もの仲間を殺していた。私がいま「あさま山荘銃撃戦の真相」を読みながら、彼らが犯した殺人行為の中に何らかの必然性を見いだしたいと思う。殺された多くの人たちの死に、わずかであっても意味を見いだしてあげたいと思うからである。しかしこの本の3分の2を読み終えた今の段階で私が納得できる解答は見いだせない。

2012年5月3日木曜日

14回目の誕生日

きょう5月3日は憲法記念日。息子の誕生日である。息子はきょうで14歳になった。私たち一家は毎年、この日を軽井沢の別荘で過ごす。

息子が幼い頃は、この日に佐久の川べりで開かれる佐久バルーンフェスティバルを観によく出かけた。そして5月5日のこどもの日には、軽井沢や小諸で開催される子どものためのイベントに参加したものである。

息子が生まれた日のことは以前、このブログに書いた。

その日の朝5時すぎに私は家内の声で目を覚ました。私が目を開けると、暗い部屋のなかで私の布団の側に家内が立っていた。そして「お腹が痛くなったからこれから病院に行ってくるね」とささやくように小声で言った。家内は一人で病院に行くつもりであったらしい。家内は既に外出着に着替えていた。そして数日前からパッキングを済ませていたスーツケースを引いて部屋を出ようとした。私は慌てて起き上がり大急ぎで着替え、家内と一緒に家を出た。

当時、私たちは家内の実家に住まわせてもらっていた。家内の実家は三井記念病院の向かいにある。いつもタクシーが何台も並んでいた。しかし、その日は祭日であったためか、朝早かったためか、一台もタクシーが停まっていなかった。大通りまで走っていき、やっとタクシーの空車を止めることができた。霧雨が降っていた。

タクシーの運転手は、慶應病院までの道筋を知らなかった。私もそうであった。お腹の痛みをこらえながら家内がタクシーの運転手に指示をした。慶應病院に着いたのは午前7時であった。直ちに入院になった。

私は家内が陣痛室に向かった後、病室でずっとうとうとしていた。その日は一日中霧雨が降り、蒸し暑かった。しかし病室のエアーコンディショナーは故障していた。息子が生まれたことを知らせる分娩室からの電話で私は目を覚した。

私が分娩室に着いたとき、息子の体はすでにきれいに清められ産着に包まれていた。その息子を私は慣れない手つきで初めて抱いた。初めて見る息子は両目の間が離れており垂れ目であった。息子は、いまどこにいるのだろうというような表情を見せて目を左右にきょろきょろさせた。

その晩、家内は疲れのためぐっすり眠ったものとばかり私は思っていたが、安堵と喜びのために家内は興奮してなかなか寝つけなかったという。

息子が生まれた日のことは、まだ昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。私にとっても長い長い一日であった。

訃報 岡和義先生

昨夜9時30分過ぎに自宅を出て軽井沢に出かけてきた。高速道路は渋滞しており、途中、パーキングで4回休憩をとっった。軽井沢に着いたのは今朝の午前1時30分であった。4時間かかった。普段は眠気をこらえて休まず運転する。しかし数日前に起きた関越自動車道でのバスの衝突事故が私を慎重にさせた。その事故では7名が亡くなり、残る乗員乗客の全員が重軽傷を負った。

今朝目覚めたのは10時。家内も息子もまだぐっすり眠っていた。

パソコンの電源を入れ着信メールを確認すると高校時代の同級生からメールが届いていた。私の高校時代の恩師が亡くなられたことを知らせる内容であった。

恩師の岡和義先生。私が高校1年のときの担任。3年間、数学を教えていただいた。当時、すでに頭は真っ白であった。その白髪が実によく似合っていた。岡先生からは常に清潔感が漂ってきた。身だしなみも丹精であった。

岡先生は神父でもあるとクラスメートから聞いたことがあった。しかし岡先生の口からキリスト教の話が出たことは一度もなかった。宗教についての話を聞かされたこともほとんどなかった。

こんな岡先生が、授業中、次のような話をされたことがある。

「男性であっても女性であっても、人間らしく生きようとしていれば、自ずと男性は男性らしく女性は女性らしくなる。」

長い間、私は、この岡先生の言葉の意味を取り違えていた。私は、この岡先生の言葉は、男性と女性が生まれながらに持つ違いを否定するものであると思っていた。

最近になって、私は、そうではなく、この言葉は、逆に、いやおうなく生じる男女の違いを認めるものであったのでないだろうかと思うようになった。

幼児に電車のおもちゃを与えると、男の子はその電車を車の一種として取り扱う。その電車を床の上で走らせようとするのだ。一方、女の子はその電車を人形として取り扱い、ベッドの下に寝かせることもあるという。私には男児しかいないので真偽はわからないが。

生まれながらにして男と女は違う。これは自分の子を持てばたちどころにわかることである。男と女の違いを無視し、男女を無理に均一化しようとしているのが今の教育である。その結果はどうであったか。日本の現状を見れば一目瞭然であろう。男性は女性のがさつさや厚かましさにうんざりしている。女性は女性で、男性の頼りなさにフラストレーションをためている。

話を戻す。私が高校2年になったとき、クラス替えがあった。私は理科系のクラスを選択した。岡先生は文科系のクラスの担任となった。

この岡先生のクラスの学生2人(男女)が失踪したことがある。学校中が大騒ぎになった。二人は数日後、中国地方のある県で保護された。

駆け落ちであったのか、それとも急に思い立った単なる2人だけの無断旅行であったのか、クラスが違った私にはわからなかった。

二人が保護され高知に連れ戻されたあと、岡先生は、女子学生が自分のクラスに戻ることは許した。しかし一方の男の学生が同じクラスに戻ることを頑として認めなかった。その男の子は隣のクラスに「引き取られ」た。今もお元気でいらっしゃる谷脇先生(愛称:たにしん先生)が、「彼が可哀想だから」と彼を自分のクラスに受け入れたということであった。

当時の私は、その話を聞いたとき、岡先生はなんと厳しい先生なのだろうと思った。そして男子学生だけに厳しい岡先生の姿勢に反発心を抱いた。私は、岡先生の男子学生に対する姿勢は男というものに対する不当な措置であると思った。(今、冷静に考えれば、駆け落ちをした二人を元の同じクラスに戻すことは無理であった。)

大学に入学したあと、私は同じ大学(だだし、経済学部)に進学した同期生といっしょに岡先生のご自宅を訪問したことがある。

岡先生と奥様が私たちを歓待してくださった。この日、岡先生は饒舌であった。いくら数学が得意であっても生きていく上では何の役にも立たないことを嘆かれた。

お二人にはお子さまがいらっしゃらなかった。このことがお二人の人生を寂しいものにしていた。奥様はとても上品で物腰の柔らかい女性であったが、どこか自信なさそうであった。子を産まない女性がどれほど寂しいものかを私は初めて知った。

その後、岡先生とのご縁は薄くなった。岡先生の姿を同窓会の会場で1〜2回お見かけしたことがある。しかしお話しする機会はなかった。

白いヘルメットをかぶり、原付に乗って通勤されていた岡先生の姿が今も目に浮かぶ。授業中の岡先生の身振りや手振り、そしてその声も生涯忘れることはないであろう。そして岡先生の生き様は、私の生き方にも少なからぬ影響を与えていると思う。

私が中学校・高校の6年間にお世話になった3人の担任の先生は全て亡くなった。