きょうの昼、先祖の墓参りをした。我が家の墓地は実家の裏山にある。ほとんど土葬である。若くして亡くなった祖父の3人の墓地は離れた場所にあったが、数年前に遺骨を裏山に埋葬し治した。この3人はまとめられて埋葬されている。
私がひとつひとつの石塔の前かがむと、傍にいた父親が一人一人について説明してくれた。
父親は5人兄弟の末っ子であった。一人の兄と一人の姉は私が生れたとき既に亡くなっており、我が家の墓地に埋葬されていた。兄は戦死であった。終戦の一ヶ月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。父親のこの兄は私にとって伯父にあたるが、この伯父は生れたばかりの幼子を残して戦地に出向いた。残された伯父の妻とその幼子は、その後、貧困の中で一生を終えた。
(伯父が出征したのは我が子が生れて32日目であった。高知駅で親族全員が見送った。汽車が動き出しても伯父は顔が見えなくなるまで帽子を持った手を振り続けたという。母と子はその後、一回だけ広島県福山市の駐屯地を訪ねた。そこで伯父は一晩だけ息子と一緒に寝た。それが父子が顔を合わした最後となった。間もなく伯父は朝鮮に出征した。母子は朝鮮まで面会に出かけようとしていた。その矢先に今度はフィリピンに出兵。そして安否がわからなくなった。伯父がレイテ島で戦死したことが知らされたのはずっと後のことであった。)
もう一人の夭逝した姉の名は米尾といった。20歳で亡くなった。結核であった。発病後、死ぬまでの間、姉(私の伯母)は自宅の牛小屋の側の小部屋で養生したという。
伯母が息を引き取る直前、伯母は胸水が溜まって苦しんだ。胸水を抜くと死ぬと医師に言われていたが、あまりに伯母が苦しみ胸水を抜いてくれるようにと懇願する姿を見かねた私の祖父(米尾の父親)は、伯母の死を覚悟で胸水を抜いてくれるように医師に依頼したという。そして「気丈にしていなくてはいけないから」と言って酒を飲み始めた。伯母はほどなく息を引き取った。
伯母が亡くなったことを聞いた近所の方が駆けつけてきてくれた。そして酔っている祖父に向かって伯母の遺体の処理を手伝おうかと申し出てくれた。
当時、結核は忌み嫌われていた。伯母が闘病中は誰も我が家に近づこうとはしなかったという。そんな時期に結核で亡くなった伯母の遺体に触れようとする人などいようはずはない。
もちろん、その申し出は丁重に辞退した。しかしその方の親切は今も父親は忘れないと言う。
伯母は土葬であったのであろう。しかし伯母の遺品はことごとく自宅の庭で燃やした。
私の祖父は生前、何一つ愚痴を言ったことはなかった。自分の息子と娘の死は私の祖父にとってとてもつらい出来事であったに違いないが、その不幸な出来事についても祖父から聞かされたことはなかった。
伯母・米尾が亡くなって70年以上経った。祖父が亡くなってからも既に30年近く経つ。これほど時間が経って初めて父親が話してくれた伯父・伯母の小さな思い出話である。父親が亡くなれば、裏山の墓地で父親からこの話を聞かされたことが私にとって忘れることのできない父の思い出となるであろう。
戦死した伯父の遺影も結核で亡くなった伯母の遺影も、まだ実家の仏壇に掲げられている。その傍に私の祖父母つまり彼らの両親の遺影も一緒に飾られている。4人とも同じ墓地に眠る。
2009年11月28日土曜日
帰省
今月の25日から27日まで徳島市で学会が開かれた、その学会を利用して高知の実家に帰省した。
徳島駅前から高知駅前まではバスで2時間40分。途中、渋滞に巻き込まれることもなく、予定通り高知駅に着いた。高知駅までは父親が迎えに来てくれることになっていた。高知駅到着は午後6時20分。すでに空は真っ暗であった。
バスから降り立った私は、高知駅が様変わりしていることに驚かされた。私の記憶の中にある古ぼけた高知駅の建物は跡形もなく、近代的な鉄筋の建物が建っていた。駅のターミナルも整備され、駅前の景色もすっかり姿が変わっていた。私が乗ってきたバスが着いたのは高知駅の北口であった。しかしそれに気づくのにしばしの時間を要した。父親と携帯電話で話しながら父親を探したがどうしても父親を見つけることができない。父親は高知駅の南口で待ってくれていた。しかし南口に着いたと思っている私が父親を見つけられるはずがなかった。
高知駅から私の実家までは車で約1時間。高知県は過疎が進む。しかし帰省するたびに新しい道路ができあがっている。対照的に、かつての高知市内の繁華街にはチャッターを下ろした店が並ぶ。
自宅に帰る車の中で、私の実家の隣の家が空き家になったことを父親から聞かされた。その家には、93歳のおばあさんと30歳台の孫娘が二人で住んでいた。そのおばあさんが転倒し大腿骨を骨折した。手術を受けたが歩くことはできず、そのおばあさんの長女が住む東京に二人で移り住むことになったという。
私の実家は土佐市であるが、須崎市に近い。四方を山に囲まれた農村である。図書館や劇場などの文化施設はない。書店もない。
小学校6年生になるまでに私が手にすることができた本は学校の教科書と学校の図書館の蔵書、そして小学校の近くの文房具店で買うことのできた漫画本だけであった。しかし図書館で本を借りて読むことはなかった。だから学校の授業の予習や復習をすることもなかった。私が自宅で読むのは漫画本だけであった。私は月刊誌である「冒険王」という漫画本が発売になる日をいつも心待ちにしていた。
クラスメートのなかには小学校5年生のころから塾に通っていた人がいたように思う。私は小学校6年生になって塾に通うようになった。そこは自宅から10キロほど離れた場所にあった。バスで週3回その塾に通った。塾では参考書を渡された。私はその本の厚さとぎっしりと詰まった文字に圧倒された。結局、私がそれらの参考書を開くことはなかった。だからそれらの参考書に何が書かれていたのか全く憶えていない。
小学校6年の2学期になると運動会の準備が忙しくなった。当時、私は、児童会の会長を務めていた。私の関心は運動会の準備に奪われた。そして塾には行かなくなった。
私が再び塾に通うようになったのは、翌年の1月からであった。4か月近く無断欠席していた私はばつが悪く、復学の依頼を母親に頼んだ。私は塾に戻ることを許された。
私は中学校受験することにしていた。しかし今振り返ると、信じられないほど暢気であった。受験勉強といえる受験勉強は何もしないまま入学試験を受けるつもりでいたのだ。入学試験は3月。もういくばくも受験準備の日は残されていなかった。
さあ、明日は入学試験、という日の前の晩、私は父親から突然、受験を思いとどまるようにと言われた。あまりに突然のことであった。私は激しく怒り、父親と口論になった。
父親が私の受験に反対する理由は何であったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、経済的な理由からだったのだろうと思う。父親と私との口論の最中に、祖父が田畑を売ってもいいから私に受験させてやるように、と言った記憶が鮮明に残っているからである。
親から譲られた財産を売るということは父親には想像することすらできないことであった。77歳となった今も、父親は親から譲られた田畑を売ろうとはしない。
入学試験の朝、父親は私を受験会場まで車で送っていってくれた。母親もいっしょであったと思う。私は顔を泣きはらしたまま試験を受けた。受験会場の父兄控え室には、担任の先生も来てくれていた。隣のクラスの担任の先生も来てくれていた。受験したのは私のクラスでは私を含めて2人、隣のクラスでは3人であった。しかし、その3人のうちの2人は他の中学校を受験した。だから私と同じ中学校を受験したのは3人であった。
私は当時、「おとそ」という言葉を知らなかった。したがって、誤って「おそと」と書いてしまった。他の2人はきちんと「おとそ」と書いたとのことであった、また、「精を出す」と書くべきところを、私は「勢を出す」と書いてしまった。やはり他の2人は「精を出す」と書いていた。受験勉強をほとんどしなかっただけでなく、おとそを飲むような家庭に育たなかった自らの育ちの悪さを心のなかで私は恥ずかしく思った。
ただ、入学試験には運良く合格することができた。5人とも合格した。そして私と同じ中学校に入学した他の2人とは高校卒業までいっしょに学生生活を送ることになった。
試験が終ったあと、同じ中学校に進学することになった3人は担任の先生のご自宅に招待された。1泊目は隣のクラスの担任の先生のご自宅に2泊目は私のクラスの担任の先生のご自宅に泊めてもらった。
「ナポレオン」というトランプゲームを教えてもらったのはそのときであった。ナポレオンを教えてくれた隣のクラスの担任の先生は、トランプゲームのなかで一番楽しいものであると説明してくれた。ナポレオンは独特の駆け引きを要求される知能ゲームであった。私はその先生の駆け引きのうまさに感嘆した。私たちは深夜までナポレオンを楽しんだ。
二日目は私と私のクラスメートの2人だけであったように思う。隣のクラスの先生もいらっしゃらなかった。私たち3人は布団を並べて眠った。先生は布団のなかで長時間にわたって私たちにいろいろの話を聞かせてくれた。何人かのクラスメートの家庭の事情などの裏話などもしてくれた。また、隣のクラスの担任の先生が、ご主人との関係で長年悩んでいたといったことも話してくれた。
私のクラスの担任の先生も隣のクラスの担任の先生も日教組の活動家であった。私はクラスの代表として日本国憲法第9条を暗記させられ、ある催しのなかで起立して大声でその条文を復唱したこともあった。二人とも私たちが私立の中学校に進学することには反対であった。ただ、私たちが進学することになった中学校ならば受験してもいいと言ってくれていた。
私は、先生のご自宅に招かれたこの3日間のことをその後ほとんど思い出すことはなかった。しかしいま、こうして文章を綴りながら当時の光景を振り返ってみると、2人の先生は心から私たちの前途を祝ってくれたのだろうと思う。
私が通ったのは片田舎の小さな小学校であった。過疎と少子化が進行し、いつ廃校になるともしれない。しかし私はここで育てられた。かけがえのない思い出をつくることができた心のルーツである。
徳島駅前から高知駅前まではバスで2時間40分。途中、渋滞に巻き込まれることもなく、予定通り高知駅に着いた。高知駅までは父親が迎えに来てくれることになっていた。高知駅到着は午後6時20分。すでに空は真っ暗であった。
バスから降り立った私は、高知駅が様変わりしていることに驚かされた。私の記憶の中にある古ぼけた高知駅の建物は跡形もなく、近代的な鉄筋の建物が建っていた。駅のターミナルも整備され、駅前の景色もすっかり姿が変わっていた。私が乗ってきたバスが着いたのは高知駅の北口であった。しかしそれに気づくのにしばしの時間を要した。父親と携帯電話で話しながら父親を探したがどうしても父親を見つけることができない。父親は高知駅の南口で待ってくれていた。しかし南口に着いたと思っている私が父親を見つけられるはずがなかった。
高知駅から私の実家までは車で約1時間。高知県は過疎が進む。しかし帰省するたびに新しい道路ができあがっている。対照的に、かつての高知市内の繁華街にはチャッターを下ろした店が並ぶ。
自宅に帰る車の中で、私の実家の隣の家が空き家になったことを父親から聞かされた。その家には、93歳のおばあさんと30歳台の孫娘が二人で住んでいた。そのおばあさんが転倒し大腿骨を骨折した。手術を受けたが歩くことはできず、そのおばあさんの長女が住む東京に二人で移り住むことになったという。
私の実家は土佐市であるが、須崎市に近い。四方を山に囲まれた農村である。図書館や劇場などの文化施設はない。書店もない。
小学校6年生になるまでに私が手にすることができた本は学校の教科書と学校の図書館の蔵書、そして小学校の近くの文房具店で買うことのできた漫画本だけであった。しかし図書館で本を借りて読むことはなかった。だから学校の授業の予習や復習をすることもなかった。私が自宅で読むのは漫画本だけであった。私は月刊誌である「冒険王」という漫画本が発売になる日をいつも心待ちにしていた。
クラスメートのなかには小学校5年生のころから塾に通っていた人がいたように思う。私は小学校6年生になって塾に通うようになった。そこは自宅から10キロほど離れた場所にあった。バスで週3回その塾に通った。塾では参考書を渡された。私はその本の厚さとぎっしりと詰まった文字に圧倒された。結局、私がそれらの参考書を開くことはなかった。だからそれらの参考書に何が書かれていたのか全く憶えていない。
小学校6年の2学期になると運動会の準備が忙しくなった。当時、私は、児童会の会長を務めていた。私の関心は運動会の準備に奪われた。そして塾には行かなくなった。
私が再び塾に通うようになったのは、翌年の1月からであった。4か月近く無断欠席していた私はばつが悪く、復学の依頼を母親に頼んだ。私は塾に戻ることを許された。
私は中学校受験することにしていた。しかし今振り返ると、信じられないほど暢気であった。受験勉強といえる受験勉強は何もしないまま入学試験を受けるつもりでいたのだ。入学試験は3月。もういくばくも受験準備の日は残されていなかった。
さあ、明日は入学試験、という日の前の晩、私は父親から突然、受験を思いとどまるようにと言われた。あまりに突然のことであった。私は激しく怒り、父親と口論になった。
父親が私の受験に反対する理由は何であったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、経済的な理由からだったのだろうと思う。父親と私との口論の最中に、祖父が田畑を売ってもいいから私に受験させてやるように、と言った記憶が鮮明に残っているからである。
親から譲られた財産を売るということは父親には想像することすらできないことであった。77歳となった今も、父親は親から譲られた田畑を売ろうとはしない。
入学試験の朝、父親は私を受験会場まで車で送っていってくれた。母親もいっしょであったと思う。私は顔を泣きはらしたまま試験を受けた。受験会場の父兄控え室には、担任の先生も来てくれていた。隣のクラスの担任の先生も来てくれていた。受験したのは私のクラスでは私を含めて2人、隣のクラスでは3人であった。しかし、その3人のうちの2人は他の中学校を受験した。だから私と同じ中学校を受験したのは3人であった。
私は当時、「おとそ」という言葉を知らなかった。したがって、誤って「おそと」と書いてしまった。他の2人はきちんと「おとそ」と書いたとのことであった、また、「精を出す」と書くべきところを、私は「勢を出す」と書いてしまった。やはり他の2人は「精を出す」と書いていた。受験勉強をほとんどしなかっただけでなく、おとそを飲むような家庭に育たなかった自らの育ちの悪さを心のなかで私は恥ずかしく思った。
ただ、入学試験には運良く合格することができた。5人とも合格した。そして私と同じ中学校に入学した他の2人とは高校卒業までいっしょに学生生活を送ることになった。
試験が終ったあと、同じ中学校に進学することになった3人は担任の先生のご自宅に招待された。1泊目は隣のクラスの担任の先生のご自宅に2泊目は私のクラスの担任の先生のご自宅に泊めてもらった。
「ナポレオン」というトランプゲームを教えてもらったのはそのときであった。ナポレオンを教えてくれた隣のクラスの担任の先生は、トランプゲームのなかで一番楽しいものであると説明してくれた。ナポレオンは独特の駆け引きを要求される知能ゲームであった。私はその先生の駆け引きのうまさに感嘆した。私たちは深夜までナポレオンを楽しんだ。
二日目は私と私のクラスメートの2人だけであったように思う。隣のクラスの先生もいらっしゃらなかった。私たち3人は布団を並べて眠った。先生は布団のなかで長時間にわたって私たちにいろいろの話を聞かせてくれた。何人かのクラスメートの家庭の事情などの裏話などもしてくれた。また、隣のクラスの担任の先生が、ご主人との関係で長年悩んでいたといったことも話してくれた。
私のクラスの担任の先生も隣のクラスの担任の先生も日教組の活動家であった。私はクラスの代表として日本国憲法第9条を暗記させられ、ある催しのなかで起立して大声でその条文を復唱したこともあった。二人とも私たちが私立の中学校に進学することには反対であった。ただ、私たちが進学することになった中学校ならば受験してもいいと言ってくれていた。
私は、先生のご自宅に招かれたこの3日間のことをその後ほとんど思い出すことはなかった。しかしいま、こうして文章を綴りながら当時の光景を振り返ってみると、2人の先生は心から私たちの前途を祝ってくれたのだろうと思う。
私が通ったのは片田舎の小さな小学校であった。過疎と少子化が進行し、いつ廃校になるともしれない。しかし私はここで育てられた。かけがえのない思い出をつくることができた心のルーツである。
2009年11月21日土曜日
サン・サーンス 「白鳥」
私には音楽の素養がまるっきりない。しかし、耳に入るとつい聴き入ってしまう曲が何曲かはある。そのひとつがサン・サーンス「白鳥」である。
私がこの曲を初めて聴いたのは私が保育園に入園したときであった。私が2年間通った保育園では、午後4時の帰宅時刻の10分前になるとこの曲が園内に流れ始めた。私たち園児は、この曲が流れ始めると同時に片づけを始めた。片づけを終えると、正門前に集合した。そしてみんなで歌を歌った後、解散した。♭♭先生さよなら、皆さんさよなら、お手手つないで帰りましょう♭♭ 皆で声を合わせ、先生に向かって手を振りながらこの歌を歌った。
当時、帰宅の合図である「白鳥」が流れ始めると、私はいつもとても寂しい思いにとらわれた。この曲のメロディーそのものによる寂しさもあったかもしれない。しかしこの曲を聴くと、その日は友達ともうお別れだという思いが私をよけいに切なくさせた。
信じられないかもしれないが、私がこの曲の題名を知ったのは、その後、30年ほど経ってからであった。それまで私は、誰に対してもこの曲の題名を尋ねることすらしなかった。
クラシック音楽などとは全く縁のない幼小児期を過ごした私は、クラシック音楽を聴いてもほとんど曲名がわからない。教えてもらってもすぐに忘れてしまう。子供のころからクラシック音楽に馴染んでいる人たちであれば、一度曲名を聞けばきっと忘れることはないのではないか。
クラシック音楽の曲名を覚えることができないというのは私の育ちの悪さを示すひとつの証左である。「育ちの悪さ」というものは、ごまかすことができないものだ。無意識に発する言葉や表情、身のこなしにその人が生きてきた人生そのものが表れるのだ。
私は自分の親を責めているわけではない。
私の両親は決して教育熱心ではなかった。しかし、社会人として生きていくうえで必要とされる最低限のモラルは教えてくれた。「他人のものを盗んではいけない」、「他人のお金を横領してはいけない」、「借りたお金は必ず返さなくてはいけない」、云々。列挙すれば限りがない。
どれも当たり前のことばかりである。しかし、両親が私に言って聞かせたことは、確かに両親も確実に守って生きてきたと思う。それで十分である。
躾けとは繰り返しである。
「北枕で寝てはいけない」と子供のころ繰り返し両親や祖父母から言われた。北枕は死人を寝かせる向きであると説明された。死人と同じ向きに寝たらなぜいけないのか。誰も答えられはしないであろう。それでも多くの人は北枕を避ける。私もそうである。
「人を跨いではいけない」ということや、「夜、爪を切ってはいけない」といったことも繰り返し諭された。人を跨いではいけないのは、人を跨ぐとその人の背が伸びなくなるからだと祖母は私に説明した。「なら、成長が止まった大人を跨ぐのはかまわないではないか。」
当時の私はそんなことは考えもしなかった。躾けとはそのようなものであろう。繰り返し繰り返し諭されることによって理屈を超えてその教えは自分の心の中に染み渡っていく。そしてその人の人生を生涯支配する。
電車のなかで若い女性が化粧をする姿は醜い。そればかりではない。電車のなかで化粧をしている女性の中に美人だと思える人はいない。女性の美しさとは顔のつくりだけではない。顔にはその人がそれまで生きてきた人生が表れる。その人の人生観が表れる。顔にいくら化粧を施したところで、それまでの自分の人生を覆い隠せるわけではない。覆い隠せるのは白髪や顔の皺であって心ではない。
彼女らは幼い頃に「美」に対する感覚を磨く訓練を親から受けなかったのであろう。すでに成人してしまった彼女らを諭す言葉はもうない。「美」も「醜」も言葉で教えることはできない。
私がこの曲を初めて聴いたのは私が保育園に入園したときであった。私が2年間通った保育園では、午後4時の帰宅時刻の10分前になるとこの曲が園内に流れ始めた。私たち園児は、この曲が流れ始めると同時に片づけを始めた。片づけを終えると、正門前に集合した。そしてみんなで歌を歌った後、解散した。♭♭先生さよなら、皆さんさよなら、お手手つないで帰りましょう♭♭ 皆で声を合わせ、先生に向かって手を振りながらこの歌を歌った。
当時、帰宅の合図である「白鳥」が流れ始めると、私はいつもとても寂しい思いにとらわれた。この曲のメロディーそのものによる寂しさもあったかもしれない。しかしこの曲を聴くと、その日は友達ともうお別れだという思いが私をよけいに切なくさせた。
信じられないかもしれないが、私がこの曲の題名を知ったのは、その後、30年ほど経ってからであった。それまで私は、誰に対してもこの曲の題名を尋ねることすらしなかった。
クラシック音楽などとは全く縁のない幼小児期を過ごした私は、クラシック音楽を聴いてもほとんど曲名がわからない。教えてもらってもすぐに忘れてしまう。子供のころからクラシック音楽に馴染んでいる人たちであれば、一度曲名を聞けばきっと忘れることはないのではないか。
クラシック音楽の曲名を覚えることができないというのは私の育ちの悪さを示すひとつの証左である。「育ちの悪さ」というものは、ごまかすことができないものだ。無意識に発する言葉や表情、身のこなしにその人が生きてきた人生そのものが表れるのだ。
私は自分の親を責めているわけではない。
私の両親は決して教育熱心ではなかった。しかし、社会人として生きていくうえで必要とされる最低限のモラルは教えてくれた。「他人のものを盗んではいけない」、「他人のお金を横領してはいけない」、「借りたお金は必ず返さなくてはいけない」、云々。列挙すれば限りがない。
どれも当たり前のことばかりである。しかし、両親が私に言って聞かせたことは、確かに両親も確実に守って生きてきたと思う。それで十分である。
躾けとは繰り返しである。
「北枕で寝てはいけない」と子供のころ繰り返し両親や祖父母から言われた。北枕は死人を寝かせる向きであると説明された。死人と同じ向きに寝たらなぜいけないのか。誰も答えられはしないであろう。それでも多くの人は北枕を避ける。私もそうである。
「人を跨いではいけない」ということや、「夜、爪を切ってはいけない」といったことも繰り返し諭された。人を跨いではいけないのは、人を跨ぐとその人の背が伸びなくなるからだと祖母は私に説明した。「なら、成長が止まった大人を跨ぐのはかまわないではないか。」
当時の私はそんなことは考えもしなかった。躾けとはそのようなものであろう。繰り返し繰り返し諭されることによって理屈を超えてその教えは自分の心の中に染み渡っていく。そしてその人の人生を生涯支配する。
電車のなかで若い女性が化粧をする姿は醜い。そればかりではない。電車のなかで化粧をしている女性の中に美人だと思える人はいない。女性の美しさとは顔のつくりだけではない。顔にはその人がそれまで生きてきた人生が表れる。その人の人生観が表れる。顔にいくら化粧を施したところで、それまでの自分の人生を覆い隠せるわけではない。覆い隠せるのは白髪や顔の皺であって心ではない。
彼女らは幼い頃に「美」に対する感覚を磨く訓練を親から受けなかったのであろう。すでに成人してしまった彼女らを諭す言葉はもうない。「美」も「醜」も言葉で教えることはできない。
2009年11月14日土曜日
熊本
きょうの昼、熊本市にやってきた。明日、熊本市内で開かれる、あるセミナーで講演をするためである。
熊本市を訪れるのは初めて。熊本県を訪れるのも33年ぶりである。
33年前に訪れたのは阿蘇であった。阿蘇郡高森町。そこには私が高校時代に地学を習った先生が住んでいた。名前は植田和男。
私は高校2年とき自宅を離れ、2年間寮生活を送った。寮生活を送るようになってからは、夜、よく植田先生の下宿にお邪魔した。植田先生は高校の近くの一軒家で独り住まいをしていた。当時はまだ20歳代後半であった。もちろん独身。
私が植田先生の下宿を訪ねるときには、徳永啓二という友人がいつもいっしょであった。彼は私とは入れ替わりに寮を出て下宿生活を送っていた。
私たちがいつも通された植田先生の下宿の居間には仏壇があった。「仏壇」と呼ぶのは誤りかもしれない。植田先生は当時、密教に凝っていた。密教の祭壇も仏壇と読んでいいのかどうか、宗教に造詣がない私にはわからない。
私たちがお邪魔すると、植田先生はいつもコーヒーを入れてくれた。そのコーヒーをすすりながら、私たちは植田先生の話を聞いた。
植田先生は登山が大好きであった。だから登山の話はよく聞かされた。ただ、登山の話をするとき、植田先生はきわめて冷静であった。対照的に、密教の話をするときにはいつも語り口が熱くなった。密教の話を一度始めると、植田先生の話は尽きなかった。しかし残念なことに、当時の私たちは、植田先生が語る内容をあまり理解できなかった。ただただ、植田先生の表情や身振り手振りに呑み込まれているだけであった。だから密教について植田先生がどんな話をしてくたのか、ひとつのことを除いて全く憶えていない。
そのひとつのこととは、密教の話の途中で植田先生が次のようなことを言ったことだ。「男の価値は才能である。女性の価値は宇宙を包み込むような母性があるかどうかで決まる。」
私は植田先生の口から「才能」という言葉が発せられたことに驚いた。植田先生は「人の価値は才能の有無では決まらない」という思想の持ち主であるとそれまで私は思い込んでいたからだ。
ただ、植田先生は、「男の価値は才能である」という部分よりも「女性の価値は宇宙を包み込むような母性が持てるかどうかで決まる」という後半の部分を強調したかったのだと思う。
私が通っていた高校は、高知県内では進学校として知られていた。しかし植田先生はその進学指導に強い違和感を抱いていた。教員の中で植田先生はひとり浮いているように見えた。
進学指導に対する反発心からか、地学を専攻する教員としての興味からであったのかは今もわからないが、先生は、天気がいい日には、教室のなかでの授業を途中で切り上げて、「城山」と呼ばれていた学校のすぐ側の小高い山にクラス全員を連れていってくれた。私たちは嬉々として山道を駆け回った。
私は高校を卒業と同時に東京に出てきた。その2年ほどあとに植田先生は私の母校を去った。そして熊本県の阿蘇の高校に移った。
植田先生が阿蘇に行った後も何年間か私と植田先生との間の手紙のやり取りは続いた。そして大学時代に二度、植田先生が住んでいる阿蘇の高森町を訪れた。東京から阿蘇まで休まずに行くのは難しかった。二度とも私は京都で一泊し、京都駅前で植田先生にさしあげるお土産を買った。東京から熊本までは比較的楽であった。しかし熊本から阿蘇の高森町までは一両編成のローカル電車を乗り継いでの心細くて長い一人旅であった。
最初に私が植田先生に買っていったお土産はタイチェーンであった。タイチェーンが入った箱を開けると同時に、植田先生が困ったように、「これを着ける機会がここであるかなあ」と何度かつぶやいた。その通りであった。高森町は阿蘇の外輪山に囲まれたなかにある田舎町であった。
私が大学を卒業する間際になって植田先生から一枚の写真が届いた。ひとりの女性といっしょの写真であった。テントの傍らで植田先生とその女性が並んでしゃがんでいる姿が写っていた。その写真に添えられていた手紙には、「私と一緒に山に登ってくれる女性ができました」と書かれていた。私はきっとこの小柄な女性が植田先生の将来の奥様になる女性であろうと思った。その女性はさして美人ではなかった。しかし写真のなかの植田先生はとてもうれしそうに微笑んでいた。この女性は、それまで孤独であった植田先生をきっと真から理解しようとしてくれている方なのだろうと私は思った。
植田先生からもらった手紙はそれが最後となった。
植田先生に伴侶ができた。植田先生はもう独りぼっちではない。そういう安心感からか、私もいつしか植田先生に手紙を書かなくなった。
33年ぶりに熊本を訪れ、急に植田先生に会いたくなった。しかし植田先生の所在はわからない。
熊本市を訪れるのは初めて。熊本県を訪れるのも33年ぶりである。
33年前に訪れたのは阿蘇であった。阿蘇郡高森町。そこには私が高校時代に地学を習った先生が住んでいた。名前は植田和男。
私は高校2年とき自宅を離れ、2年間寮生活を送った。寮生活を送るようになってからは、夜、よく植田先生の下宿にお邪魔した。植田先生は高校の近くの一軒家で独り住まいをしていた。当時はまだ20歳代後半であった。もちろん独身。
私が植田先生の下宿を訪ねるときには、徳永啓二という友人がいつもいっしょであった。彼は私とは入れ替わりに寮を出て下宿生活を送っていた。
私たちがいつも通された植田先生の下宿の居間には仏壇があった。「仏壇」と呼ぶのは誤りかもしれない。植田先生は当時、密教に凝っていた。密教の祭壇も仏壇と読んでいいのかどうか、宗教に造詣がない私にはわからない。
私たちがお邪魔すると、植田先生はいつもコーヒーを入れてくれた。そのコーヒーをすすりながら、私たちは植田先生の話を聞いた。
植田先生は登山が大好きであった。だから登山の話はよく聞かされた。ただ、登山の話をするとき、植田先生はきわめて冷静であった。対照的に、密教の話をするときにはいつも語り口が熱くなった。密教の話を一度始めると、植田先生の話は尽きなかった。しかし残念なことに、当時の私たちは、植田先生が語る内容をあまり理解できなかった。ただただ、植田先生の表情や身振り手振りに呑み込まれているだけであった。だから密教について植田先生がどんな話をしてくたのか、ひとつのことを除いて全く憶えていない。
そのひとつのこととは、密教の話の途中で植田先生が次のようなことを言ったことだ。「男の価値は才能である。女性の価値は宇宙を包み込むような母性があるかどうかで決まる。」
私は植田先生の口から「才能」という言葉が発せられたことに驚いた。植田先生は「人の価値は才能の有無では決まらない」という思想の持ち主であるとそれまで私は思い込んでいたからだ。
ただ、植田先生は、「男の価値は才能である」という部分よりも「女性の価値は宇宙を包み込むような母性が持てるかどうかで決まる」という後半の部分を強調したかったのだと思う。
私が通っていた高校は、高知県内では進学校として知られていた。しかし植田先生はその進学指導に強い違和感を抱いていた。教員の中で植田先生はひとり浮いているように見えた。
進学指導に対する反発心からか、地学を専攻する教員としての興味からであったのかは今もわからないが、先生は、天気がいい日には、教室のなかでの授業を途中で切り上げて、「城山」と呼ばれていた学校のすぐ側の小高い山にクラス全員を連れていってくれた。私たちは嬉々として山道を駆け回った。
私は高校を卒業と同時に東京に出てきた。その2年ほどあとに植田先生は私の母校を去った。そして熊本県の阿蘇の高校に移った。
植田先生が阿蘇に行った後も何年間か私と植田先生との間の手紙のやり取りは続いた。そして大学時代に二度、植田先生が住んでいる阿蘇の高森町を訪れた。東京から阿蘇まで休まずに行くのは難しかった。二度とも私は京都で一泊し、京都駅前で植田先生にさしあげるお土産を買った。東京から熊本までは比較的楽であった。しかし熊本から阿蘇の高森町までは一両編成のローカル電車を乗り継いでの心細くて長い一人旅であった。
最初に私が植田先生に買っていったお土産はタイチェーンであった。タイチェーンが入った箱を開けると同時に、植田先生が困ったように、「これを着ける機会がここであるかなあ」と何度かつぶやいた。その通りであった。高森町は阿蘇の外輪山に囲まれたなかにある田舎町であった。
私が大学を卒業する間際になって植田先生から一枚の写真が届いた。ひとりの女性といっしょの写真であった。テントの傍らで植田先生とその女性が並んでしゃがんでいる姿が写っていた。その写真に添えられていた手紙には、「私と一緒に山に登ってくれる女性ができました」と書かれていた。私はきっとこの小柄な女性が植田先生の将来の奥様になる女性であろうと思った。その女性はさして美人ではなかった。しかし写真のなかの植田先生はとてもうれしそうに微笑んでいた。この女性は、それまで孤独であった植田先生をきっと真から理解しようとしてくれている方なのだろうと私は思った。
植田先生からもらった手紙はそれが最後となった。
植田先生に伴侶ができた。植田先生はもう独りぼっちではない。そういう安心感からか、私もいつしか植田先生に手紙を書かなくなった。
33年ぶりに熊本を訪れ、急に植田先生に会いたくなった。しかし植田先生の所在はわからない。
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