2009年3月23日月曜日

父 その2

私はこのブログをマレーシアのコタキナバルに向かう飛行機の中で書いている。今朝、成田空港では、着陸時に貨物機が火災を起こし炎上した。その影響で欠航が相次いだが、運良く私たちの瓶はほぼ定刻に成田空港を発つことができた。

飛行機に搭乗する直前、私は父親に電話をかけた。父は成田空港での飛行機の炎上を既に知っており心配していたので、私の声を聞いてほっとしたようであった。

つい数年前まで、私は父親とも母親とも話すことはめったになかった。数か月以上、一度も話さないことも珍しくなかった。私にとって両親は関心の対象ではなかったのだ。両親はいつまでも若く健在であると無意識に思い込んでいたのだ。

しかし父はつい数日前に77歳になった。母親は74歳。両親に残された時間は、もうそれほど長くはない。

私が幼い頃、私は父親に遊んでもらったことがない。おそらくこれは私の記憶違いではないであろう。父親自身も私の幼少時の記憶は全くないと言っているからである。家族揃って食事をする際にも父親が私や私の姉に話しかけることはなかった。父親はいつも祖父母や母と仕事の話をしていた。一家が食卓を囲むこともほとんどなかった。両親とも土間に立ったまま漬け物だけをおかずとして茶漬けをかけこんだ。そしてあっという間にまた家から出て行った。当時の私にとって、父親は、いつも何かに苛立っており気むずかしく恐ろしい存在でしかなかった。父親が帰ってくるバイクの音に私は怯えた。

それでも、私が中学生になると、父親は山や海に何度か私を連れて行ってくれた。山に行く目的はメジロを捕まえることであった。当時家で飼っていたメジロを小さな鳥籠に入れて持って行く。そのメジロの鳴き声でほかのメジロを呼び寄せるのだ。鳥籠のそばに鳥モチを巻いた止まり木を用意しておく。鳥籠に近寄ってきたメジロがその止まり木にとまると足が鳥モチにくっつく。そうやってメジロを捕まえるのである。木陰に隠れて声を潜めながらじっとメジロが捕まるまで待つのだ。私にとっては単なる苦痛でしかなかった。

このようなことをして野鳥を捕まえることは、今は違法であるかもしれない。しかし当時、私の生まれた田舎では最も任期のある娯楽のひとつであった。

父はまた気分転換のためにひとりでもよく海釣りに出かけた。車のトランクの中には常に釣り竿が入れられていた。私も何度か父親と一緒に海釣りにでかけた。

ただ、残念なことに、私はどうしても魚釣りが好きになれなかった。いや、むしろ魚釣りは嫌いであった。船酔いのせいである。船に乗らず海岸で釣り座をを垂れているだけでも海の波のために気分がわるくなる。今でも当時のことを思い出すと頭痛がする。私は映画館に足を運んだことが20年以上ない。スクリーンを見ているだけも気分が悪くなるからである。

最近、私は、両親が辿ってきた人生をよく振り返る。仕事に全身全霊を傾けていた若かりし頃の父親はそれなりに満足感を得ていたのであろう。しかし、母親が病み、父親が母親の介護をしなくてはならなくなった数年前からの人生は、父親にとって最も心豊かに過ごせた時期ではなかろうかと私自身は思っている。老いること、病むこと、そして身近になった死。父親がこれらのことを考えない日はないであろう。そんな中で、父親は残り少なくなった母との人生を精一杯前向きに生きようとしているように見える。また、迫り来る自らの死をすら素直に受け入れている。

昨年、父親の膵臓に腫瘍が見つかった。また肺にも2か所に異常陰影が見つかった。検査を受けたが良性なのか悪性なのかすらまだわからない。父親は平然としている。むしろ動揺しているのは母親の方である。父親の介護なしには生活ができない母親にとっては当然のことであろうが。

父親は最近、信じられないほど気が長くなった。これは母親の言葉である。母親は歩行器なしでは歩けない。昨年8月に頸椎骨折を起こした歳にはほぼ完全な四肢麻痺に陥っていたのであるから、これでも見違えるほどに元気になったのであるが。のろのろと歩行器で歩く母親に細かな指示を与えながら父親はゆっくりと母親に付き添って歩く。自分の身体が思うように動かないことを母親は悔しがる。もどかしくて仕方がないという。しかしやっと歩いている自分に付き添う父親の姿といつも苛立っていた昔の父親の姿とを重ね合わせながら、わずかといえども母親が幸福感を味わっているのも事実であろう。夫婦の間の心のアヤに息子の私は立ち入れない。


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