2022年4月8日金曜日

大崎瀬都さん

久しぶりに大崎瀬都さんについて書く。既に書いたとおり、彼女は私の高校の同期生である。彼女が詠んだ短歌は当時の高校生向きの月刊誌に毎月のように掲載されていた。彼女の感性の鋭さに私はいつも感銘を受けた。
 
しかし、在学中、私は彼女と一度も話したことがなかった。卒業後も、彼女と話したことは一度しかない。高校の同窓会の会場で彼女の話が持ち上がったときに会場から彼女に電話をかけた、そのときだけである。
 
ただ、その電話で彼女が出版したご自身の短歌集のことがきっかけになって時折彼女とメールや手紙で連絡をとりあうようになった。
 
下は、彼女がきょう送ってくれた手紙のなかにしたためられていた彼女の随筆である。この随筆の他、彼女が詠んだ短歌が印刷された書物のコピーも添えられていた。
 
私たちが高校を卒業してから50年が経とうとしている。
 

2022年3月30日水曜日

靖国神社

昨日の朝、短いメールが届いた。中学高校時代からの友人のメールであった。彼は名古屋に住んでいる。「挨拶回りに東京に出てきた。きょうの夕方の飛行機便で高知に帰る。しばらく高知に滞在する」と書かれていた。私も彼も高知県生まれの高知県育ちである。
 
私は「退職ですか。寂しいですね」と手短に返事を返した。
 
夕方になって再度、彼からメールが届いた。「もうしばらく東京に出てくることはないだろうと思って靖国神社に来た。高校の修学旅行を思い出す」と書かれていた。靖国神社の写真が貼付されていた。
 
そう、もう50年近く前のことである。
 

2021年8月27日金曜日

紙芝居

昨日、あるエッセイを読んでいたところ、「紙芝居」という言葉が出てきた。紙芝居。永く忘れていた。

思い出は私が小学校一年生の頃に遡る。保育園に通っていたときには、保母さんがよく紙芝居を観せてくれた。観せてもらった紙芝居の内容は何も憶えていない。ただ、とても楽しかったことだけは記憶に残っている。紙芝居が終わるたびに、いつも「次はいつまた紙芝居を観せてくれるだろうか」と思った。

小学校に入学しても紙芝居が観られるものと無意識に思っていた。ところが待てども待てども紙芝居の時間はなかった。物足りなく感じた。小学校一年生の頃はずっと紙芝居を観せてもらうのを心待ちにしていたように思う。

今の子供たちは紙芝居という言葉すら知らないかもしれない。

2021年8月11日水曜日

無葬社会

2日かけて「無葬社会」(鵜飼秀徳著、日経BP社)を読み終えた。この本は2年ほど前に自宅近くの書店で買ったが、冒頭の部分だけを読んだ後、書斎の本棚の中で眠っていた。軽井沢で時間があれば読もうと思って持ってきておいた。

東京と高知とを往復しながら両親を介護していたとき、私が願っていたことは、両親には尊厳ある死を迎えさせたいということであった。この世に生まれてきてよかったと思って死んでもらいたいと強く願った。

しかし私のその願いは、私に姉と姉の長女によって破壊された。

亡くなった両親が生き返ることはない。姉と姉の長女に対する私の憎しみは生涯消えないだろうと思う。

2021年8月9日月曜日

軽井沢において

4日前の8月5日に軽井沢に出かけてきた。今年は8月16日まで軽井沢に滞在する予定である。8月7日は母親の命日。8月12日は日航機墜落事故が起きた日。母親が自宅で倒れ救急車で病院に救急搬送されたのも8月12日であった。母親は結局、一度も退院できぬまま2年後に亡くなった。

両親とも亡くなった今、私がいつも考えるのは、両親は生前、幸せだっただろうかということである。両親は夫婦喧嘩が絶えなかった。すざまじい喧嘩であった。父親はすぐに暴力を振るった。母親の顔がアザだらけになったこともたびたびあった。

既に書いたことがあるが、母親が救急車で搬送される2週間ほど前に母親に尋ねたことがある。なぜ離婚しなかったのかと。母親は2つ理由を挙げた。この2つの理由も既に書いた。

私が死んだ後、私の一人息子が考えることもほぼ同じであろう。父親である私は幸せな人生を送ったであろうかと。


2021年7月6日火曜日

筒美京平

昨年、筒美京平氏が亡くなった。10月7日であったという。80歳であった。

私が初めて筒美京平氏の曲を聴いたのはヴィレッジシンガースのバラ色の雲であった。しかしつい最近まで、この曲が筒美京平氏の作曲だとは知らなかった。中学校1年生の時の夏合宿で私のクラスメートがブルーライトヨコハマを歌ったことを今も鮮明に憶えている。男である彼が女性の歌を歌うことが当時の私にはとても奇妙に感じられたからである。この曲も筒美京平氏が作曲したものであった。このこともつい最近知った。ブルーライトヨコハマを歌った同級生の名前は井上隆夫。

彼はおませであった。おませという表現は適切ではないかもしれない。中学1年といえば、既に思春期を迎えていてもおかしくない時期である。

井上とは親しかったわけではないが、次々と当時の彼の思い出が蘇ってくる。

2021年6月29日火曜日

みずほ銀行

内幸町にあるみずほ銀行健康開発センターが閉鎖されることになった。きょうはみずほ銀行を訪問する最後の日であった。みずほ銀行にお世話になるようになったのは平成16年7月のことであった。ちょうど17年になる。

みずほ銀行では楽しく仕事をさせていただいた。患者さんは皆、みずほ銀行員と関連企業の社員ばかりであった。私がここに勤めるようになった当初は、受診する患者さんは例外なく疲れ果てていた。銀行員の激務や心労がひしひしと伝わってきた。日本では、優秀な者は大企業就職を目指す。大企業の社員は勝者でありエリートであると思われている。しかしみずほ銀行の社員の方々から話を聞かされるにつれて、大企業に対する幻想は次第に失せていった。

私が勤務している間、みずほ銀行では不祥事が相次いで起きた。みずほ銀行は三大メガバンクの落ちこぼれであった。トラブルが起きるたびに社員には多大な負担がかかっていたのではなかろうか。ただ、私は、勤める期間が長くなるに比例して、みずほ銀行の社員に対する愛着は深まっていった。

全ての事柄には終わりがある。どんな長寿番組であろうといずれは終わるように。きょうは健康開発センターの人たちに笑顔で別れを告げることができた。17年間、皆、私に親切に接してくれた。楽しかった17年間の思い出をしっかり胸にしまっておこうと思う。