きょうは大晦日である。今年は34通の喪中葉書をいただいた。喪中葉書をくださった方の一部にはお悔やみの返書をだした。
私の父親が亡くなったのは2014年3月。母親が亡くなったのはその翌歳の8月であった。両親の臨終の日のことは生涯忘れられないであろう。
私は、両親の死後、母親のことはなるべく思い出さないように努めている。母親の最晩年はあまりにも寂しいものであった。全ての責任は姉と姉の長女にある。今も私はふたりに対する憎しみを消すことができない。思い出すたびに彼らに対する怒りが煮えたぎる。
姉は、母親の生前、姉に対するよりも私に対して多めに遺産を残したいと姉に言ったことが許せなかったらしい。私は父親とも母親とも両親が亡くなった後の遺産相続について両親と話したことは一度もなかった。父親が死ねば母親が2分の1、姉が4分の1、私が4分の1を相続する。漠然とそのように思っていただけであった。両親の遺産など私の関心事ではなかった。祖父の時代、我が家には財産といえるものは何もなかった。父親の遺産は全て父親が一代で築いたものであった。私は、両親が一切遺産を残さず、使いたいようにお金を使って死んでいってもらいたいと望んでいた。
ただ、姉は両親の遺産に並々ならぬ執着を持っていた。姉と電話で話せば両親の悪口と遺産の話。私は辟易していた。
1993年6月下旬に父親が出血性脳梗塞で緊急した際に私は数日間帰省したが、その際に姉と姉の長女は私に対して母親との絶縁を私に告げた。そのときには理由がわからなかったが、私はいつもの親子喧嘩であろう程度にしか受け取らず、何も返答をしなかった。
その一ヶ月あまり後、今度は母親が自宅で転倒。緊急入院した。ご近所の人たちが救急車の後を追いかけて病院まで行ってくれた。その中の一人が母親の入院を姉に電話で告げて病院に来てくれるようにと頼んだ。しかし姉は「國弘家とは縁を切った。家族全員がもう國弘家とは付き合わない。弟ととも縁を切った。だから病院には行かない」と告げたという。結局、姉も姉の子供たちも誰一人としてその後、父親の見舞いにも母親の見舞いにも来なかった。8ヶ月後に亡くなった父親の葬儀にも姿を見せなかった。
私は東京と高知とを往復しながら2週間に1度の頻度で高知に帰った。母親の病室を訪れるたびに、母親から出る言葉は「お姉は?」であった。その言葉を聞くたびに、まだ姉は母親を見舞いに来ないのかと怒りが込み上げてきた。私は母親に返す言葉が見つからなかった。
母親は入院当初は繰り返し姉に電話していたようであったが、姉は電話に出なかった。数ヶ月して母親は電話を放り投げた。母親の表情がこわばり蝋人形のようになっていったのはその頃からであった。
姉と姉の長女が母親の病床を訪れたのは母親の臨終の後であった。母親の遺体にすがって姉は泣きじゃくったとそばにいた親戚から聞かされた。その親戚は泣きじゃくる姉に対してこう言ったという。「ちっくと遅かったねえ。」
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