2016年12月29日木曜日

墓参

12月23日から4日間、高知に帰省した。帰省中、母親の実家の墓参りに行った。従兄が道案内してくれた。

私がその墓を最後に訪れたのは昭和35年に叔父が亡くなったときであった。当時、私は3歳であった。私の伯母(父親の姉)は30歳の若さで未亡人となった。伯母夫妻には2人の男の子がいた。まだ小学生であった。彼らも幼なくして父親を亡くした。叔父(その子たちの父親)を荼毘に付すとき、下の子は伯父が納められた棺にすがりついて泣きじゃくったという話を、後年、私の父親から聞かされた。

伯母は実家である私の家には戻らず嫁ぎ先に留まり、女手ひとつで2人の男の子を育てた。義父母の介護もひとりで行なった。生活は苦しかっただろうと思う。しかし、伯母が悲しそうな表情を私に見せたことはなかった。不満を口にしたこともなかった。私の顔を見ると伯母はいつも笑顔を見せた。満面に笑みを浮かべて私を抱きしめてくれたこともあった。そして少額ではあったが、時々、小遣いをくれた。

今も鮮明に憶えているのは、私が小学校低学年だった頃のことである。天気のいい日であった。私は縁側で昼寝をしていた。そのとき、実家である私の家に帰ってきた伯母がにこにこ笑いながら私に近づき、「幸伸に小遣いをやろう(土佐弁:あげよう)」と言って50円玉をひとつ私に手渡してくれた。当時の50円玉は今の500円玉ほどの大きさがあった。そして今の5円玉や50円玉のように真ん中に穴が開いていた。

私の父親は、若くして未亡人となった伯母の不運を、自分のことのように悲しんでいた。伯母の2人の子にも同情していた。

その伯母が亡くなったことを私に知らせてきたのは一昨年亡くなった父親であった。「伯母ちゃんはよう良うならんかった(土佐弁:伯母ちゃんの病状は結局回復しなかった)」というのが父親の第一声であった。伯母が何日前に亡くなったのかも告げぬまま父親は電話を切った。そのときの寂しそうな父親の声は今も鮮明に憶えている。しかし伯母がいつ亡くなったのかは記憶が定かでなかった。今回の墓参りの際に伯母の墓石を見て、伯母が亡くなったのは平成2年であったことを知った。

伯母の命日を知った瞬間、ひとつの思い出が頭に蘇ってきた。

伯母が亡くなる前年(昭和64年・平成元年)に、私は伯母が入院している病院を家内といっしょに訪れたことがあった。私が結婚した翌年であった。伯母に家内を紹介することが目的であった。私は結婚披露宴を東京と高知で聞いたが、病気のため、おそらく伯母はどちらの披露宴にも出席していなかったのであろう。

私と家内が伯母を見舞ったとき、伯母は血液検査の結果が思わしくないことを話した。卵巣癌の再発を強く疑わせるデータであった。しかしそのことを語るときにも伯母は笑みを絶やさなかった。私たちが伯母の病室にいる間、伯母はずっとベッドの上で座って話した。

これが伯母と話す最後となった。

先日、伯母の墓の前に立ったとき、その墓石を見つめながら私は伯母との思い出に浸った。伯母は私の心の中に今も生きている。伯母を一言で表現すれば、非常に情のある女性であった。どんなときにも愚痴を言わなかったのは、伯母の父親(私の父方の祖父)譲りであった。

伯母の人生を振り返り、人生の価値はその人の生前の地位とも富とも関係がないと、改めて思った。




2016年12月23日金曜日

帰省

羽田空港に着いた。これから高知に帰省する。今年3度目の帰省である。昨年8月に母親が亡くなって以来、高知からはすっかり足が遠のいてしまった。

今朝、自宅を出たときにはまだ薄暗かった。玄関のドアを開け周りの暗い景色を見た瞬間、辛かった数年間の思い出が蘇ってきた。

父親が1993年6月下旬に2度目の脳梗塞の発作で倒れた。その1か月半後の8月中旬に母親が脊椎の圧迫骨折で緊急入院した。東京と高知とを往復しながら2人を介護せねばならなくなった。

我が家では全ての財布を父親が握っていた。母親の年金が振り込まれる口座の通帳までも父親が管理していた。母親は自分名義の預金がどれほどあるかすら知らなかった。父親の預金口座のことなど母親が知る由もなかった。母親は身体は動かせなかったが会話はできた。しかし肝心の父親からは何も聞き出すことができなかった。

私は途方に暮れた。両親ともいつまで生きるのかわからない。ひょっとしたら百歳まで生きるかもしれない。どうやって介護しようか。

両親を預かってくれる東京の施設を探すべく家内は手を尽くしてくれた。しかし、施設が見つかる前に父親の病状がどんどん悪化していった。東京に連れてくることは無理と判断した。それでも、私は、施設が見つかり次第、なんとかして両親を東京に連れてこようと思っていた。しかし、母親は、東京に住むことを頑として拒んだ。東京に行くようにと親戚が繰り返し母親を説得してくれたが、無駄であった。元気な頃から母親は、「高知で一生を終える。東京には絶対出ていかない」と私に何度も告げていた。父親ひとりが残っても、父親も東京には住まないだろうと、同様に母親から聞かされていた。理由は言わなかった。私にはふたつしか理由が思い浮かばなかった。生まれ故郷への愛着と私たち夫婦への遠慮であった。

ふたりが揃って入院することになった年の秋、私たちは両親を東京に連れてくることを断念した。高知で片づけなければならない雑務があまりにも多すぎたのだ。父親が所有していた山林や田畑の処分と墓地の移設(改葬)であった。予想どおり、これらに実に多くの時間と労力を取られることになった。それらを父親が生きているうちに片づけなければならなかった。帰省しても、両親が入院している病院に長時間いる余裕はなかった。父親の病状は帰省のたびに悪化した。時間との競走であった。私はどんどん精神的に追いつめられていった。

土曜日の早朝に自宅を出て始発便に乗り、月曜日の最終便で東京に戻る生活が父親が亡くなるまで続いた。平日に仕事を休まなければ、高知で何の手続きもできなかった。仕事に大きな皺寄せが来た。私は自分の仕事を犠牲にせざるをえないと心を据えた。学会出席も控えた。

嬉しかったことは、幼ななじみでもあるひとりの再従姉妹が自分の家の駐車場に父親の車を置かせてくれたことだ。私が帰省するときには毎回その車を高知空港まで届けてくれた。東京に戻るときにはその車を高知空港に乗り捨てておけばよかった。彼女が車を自宅まで運んでくれた。私は彼女に心から感謝した。

私の家内や親戚が奔走してくれたこともあり、幸運にも父親が亡くなった直後に新しい墓地が完成した。父親の四十九日の納骨にぎりぎり間に合った。父親の遺骨を代々の先祖の遺骨と一緒にできあがったばかりの墓に埋葬できた。

しかし、不動産が十数筆残った。 父親の訃報が届いたとき、私の頭にまず浮かんだのは売れ残った不動産のことであった。この残った不動産が私の姉との争いの種になるだろうとずっと不安に思っていた私は暗澹たる思いに襲われた。私の不安は的中した。




2016年12月19日月曜日

喪中の知らせ

今年も喪中の葉書が十数通届いた。そのうちの2通は大学時代の同級生からのものであった。奥様が亡くなったという。

2人の奥様とは会ったことがあった。彼らが結婚する前のことである。

ひとりのクラスメートは見合い結婚であった。婚約中、私たちの飲み会に奥様(当時はまだ婚約者)を何度か連れてきた。彼は元々、賑やかであったが、酔うとますます陽気になった。そして奥様の目も気にせずに職場の女性たちとチークダンスを踊った。奥様は終始無言で、踊っている彼をじっと見つめていた。私には、奥様が彼を睨みつけているように見えた。そのときの奥様の険しい表情が今も忘れられない。

その奥様が重病で入院していると聞かされたのは2年近く前であった。彼のお父様から聞かされた。見舞いに行きたかった。しかし彼は奥様の病気を家族以外には伏せておきたいと思っているということであった。

奥様の訃報が届いたのは1年ほど前であった。

2か月ほど前に彼に会ったとき、彼はすっかり元気になっていた。しかし奥様が亡くなった直後には、体重が10キロ減っていたということを、その後、他の同級生から聞いた。

もうひとりのクラスメートの奥様は、彼が大学生のとき、ダンスパーティで知り合った女性であった。彼女の実家は埼玉県。そこから文京区の女子大学に通っていた。

彼はよく彼女の自宅を訪れたという。彼らしいのは、彼は玄関からではなく、トイをよじのぼって彼女の部屋にこっそり忍び込んでいたということである。

私は結婚と同時に武蔵境から西荻窪に転居したが、彼らはちょうどその頃、吉祥寺に住んでいた。学生結婚した彼らには、すでに一人の男の子がいた。一度だけであるが、私の妻といっしょに彼らの家を訪ねたことがあった。そのとき、彼の奥様はずっと自分の息子の自慢話を私と私の家内にし続けた。いかに自分の息子がお利口な子であるかを事細かく語った。

私たちにはまだ子がなかった。しかし、来客に対して自分の息子の自慢話しかしない彼の奥様はきっと女性として「正常」であり、母としてもきっと幸せなんだろうと思いつつ私は帰宅した。30年近く昔のことである。

その奥様も亡くなった。

人生は短い。