私には母方の叔父が3人いた。正確には、伯父一人と叔父二人と書くべきである。
母親の兄つまり私の伯父は昭和34年に若くして亡くなった。私が3歳のときであった。幼い頃、私は母親に連れられてよく母親の実家を訪れた。生前、その伯父は、実家の茶の間の隣で病床に臥していた。ふたつの部屋は障子で仕切られていたが、その障子が開けられたことはなかった。だから私は伯父の顔を見たことがない。伯父は静かに寝ていた。だから伯父の声を聞いたこともない。
つい先日、その伯父の写真が私の実家の押し入れの中から出てきた。伯父がまだ20歳代の頃の写真と思われた。(伯父は30歳代前半で亡くなった。)私はその顔が伯父の長男つまり私の従兄弟とそっくりであることに驚かされた。うり二つであった。
伯父が亡くなったときのことを私は今でも憶えている。両親と一緒に私も葬儀に参列した。当時はほとんどの家が土葬であったが、伯父は火葬に付されたようだ。そして伯父の遺骨は伯父の自宅(母親の実家)から数百メートル離れた小高い山の頂近くにある墓地に埋葬された。今は四十九日の法要が終わるまでは遺骨は自宅に祭られるが、伯父は火葬直後に埋葬されたようだ。その葬儀のとき、私も急な山の斜面を墓地まで登った記憶が今も残っている。
伯父の妻は私の父親の姉であった。つまり伯父の家と私の家とは女が入れ替わっているのだ。だから最も近い親戚といえる。
しかし伯父の死後、私の母親の実家(私の父親の姉(私の伯母)の嫁ぎ先でもある)は傾いた。未亡人となった伯母は、農作業の傍ら日雇い労務者としても働いた。そして二人の男の子(つまり私の従兄弟)を懸命に育てた。
伯父の死後は、きっと貧しかったに違いない。しかし伯母が私の家(つまり伯母の実家)を訪ねてきた折りには、まだ幼かった私に時々お金をくれた。いつも50円玉一個であった。しかしその50円玉を私に差し出すとき、伯母は私に満面の笑みと愛情を示してくれた。50円といえど、当時の伯母にとっては決して少ない金額ではなかったのではないかと思う。
後に伯母は老人施設の介護士として住み込みで働いた。その施設に私はよく訪ねていった。そこにはほとんど口もきけない老人がすし詰めにされて横たわっていた。伯母はその老人たちが眠るベッドの間の床に布団を敷いて寝ていた。そしてひとりひとりの老人にやさしい声をかけていた。それらの老人から反応が返ることはなかったが。
その後、伯母は乳がんに罹患。乳がんは完治したが、新たに卵巣癌を患った。そして10年後に再発した卵巣癌のために亡くなった。
振り返ると、伯母の人生は苦労の連続であった。私の父親はその伯母をいつも不憫に思っていた。そして甥(伯母の長男)を何かにつけて手助けした。
生涯質素な生活を続けた伯母が残した財産は少なくはなかった。その財産は伯母の長男が全て相続した。しかし残念なことに、その財産が伯母の子孫のために有効に使われることはなかった。その甥とその妻とが無意味なことに使い果たしてしまったということであった。このことをその甥の長男(伯母の孫)から最近しみじみと聞かされた。
私にとっては、伯母が私に向けてくれた笑顔と愛情とが私の心のなかの生涯の宝物である。
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