先週に引き続いて大雪である。
雪を見ると今でもいつも思い出すことがある。一人息子が幼かったときのことだ。
息子が3歳の頃から小学校5年生になるまで、私たち夫婦は毎冬、息子を一人でスキー合宿に行かせた。息子の友達も一緒に行ったわけではない。全く知らない人たちばかりのツアーに参加させたのだ。その他にも、毎月1回、日曜日の昼、日本野外活動研究会(日野研)が開催するアクティビティーに一人で行かせた。
私たち夫婦が最も心配したのは、息子がそれらに参加して楽しかったかどうかということであった。息子は帰宅してもスキーツアー中の出来事や野外研究会でどんなことをして遊んだかということについて自ら語ることはなかった。しかし引率してくださるインストラクターの方々からは、息子がそれらの活動をとても楽しんでいたと報告を受けた。私たちは安堵した。
決して人懐っこいと思えなかった息子にとって、このような見知らぬ人との接触が必要であると考えた。ただ、息子の心理的負担になっているのではないかと、いつも心配した。だから、毎回、本人の希望を確認した。息子は、毎回、また行くと答えた。
息子が5歳の頃、私は息子を4泊5日のスキーツアーに参加させた。5歳児にとって、両親と離れて身も知らぬ人たちと5日間過ごすのはつらかったであろう。そのツアーから帰った直後は、数日間、息子は母親に甘えた。ただ、夫婦間でも息子との間でも、そのことについて話すことはなかった。
息子が幼い頃から見知らぬ人たちに混じって一人でいろいろの活動に参加できたのは、幼いなりに息子が私たちの愛情を感じていたからであろうと思った。
2014年2月9日日曜日
両親が倒れて 1
昨年6月27日に父親が出血性脳梗塞で倒れた。その日のことについては、改めて詳しく書くこととする。
私は、両親と40年間離れて暮らしてきた。わが家ではすべてを父親が取り仕切っており、母親は自分の預金通帳すら持たせてもらえなかった。当然、母親は自分名義の預金がどれほどあるのかすら知らなかった。そのうえ、母親は長年にわたって慢性間接リウマチを患い、手も足も目を逸らしたくなるほど変形している。右肘には人工関節が入っている。また、頚椎を骨折し、四肢マヒになったこともある。当然、歩くこともままならない。
こんな母親を介護していた父親が倒れたのだ。私は途方に暮れた。
悪いことは重なるものである。なんと、父親が倒れて入院してから2ヶ月も経たない8月13日に、今度は母親が脊椎の圧迫骨折で緊急入院した。その日、高知では日本での最高気温を記録していた。猛暑で弱った母は、椅子から腰を滑らせてしまったのであった。その連絡を私は軽井沢で受けた。しかしお盆の真っ最中であり、軽井沢から高知まですぐにかけるけることはできなかった。私は親戚や近所の人たちに両親の世話を頼んだ。ありがたかったことに、いろいろな人たちが母親の世話をしてくれた。
私が帰省したのは、それから数日後であった。
我が家は空き家となった。もう父親も母親もこの家に住むことはない。誰もいないひっそりとした実家で、私は、昼間はひたすら書類の整理を急いだ。掃除や庭の草むしりもしなくてはならなかった。朝と夕方には別々の病院に入院している両親を見舞った。夜は高知市内のホテルにひとりで泊まった。しかし、夜中に何度もうなされて目が覚めた。
父親の容体は一日ごとに悪化した。母親の背中の痛みもなかなか和らがなかった。寝返りすら打てない日が続いた。
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