2009年12月7日月曜日

服装

7年ほど前に、現在住んでいる家に引っ越してきた。留学から戻って6~7年ほどは家内の実家に住まわせてもらっていた。つまり、世に言う「マスオ」さんの生活を送っていたのだ。

息子が2歳になったこともあり、引っ越しを機に車を買うことにした。8年間以上車を持っていなかった私は、車のことはまるでわからない。そこで外車、日本車を問わずさまざまなディーラーに出かけていって車を見せてもらった。

そんな時期、ある日曜日に芝でフォークスワーゲンのBeatleの試乗会が開かれると聞き、家内と息子を連れて試乗会場に出かけていった。そこには何台かのBeatleが停められていた。係員に試乗させてもらいたい旨を話した。しかしはっきりとした返事が返ってこない。私たちは順番が来るのを待った。そんなとき、一人の男性の担当者が私たちのところに歩み寄ってきて次のように私たちに告げた。「車を買うところで試乗してください。」

私たちは即座には意味を理解しかねた。私たちは、確かにビートルを買おうという強い気持ちを持っていたわけではなかった。その様子を係員たちに察知されたのかとも思った。しかし、買わないと決めていたわけでもない。そのときはまだ全く白紙の状態であった。ただ、私たちは追い払われたのだということは何となくわかった。

「買うのでなければ試乗させない」というのであれば試乗させてくれるように無理に頼むわけにはいかない。私たちは試乗させてもらえるフォークスワーゲンのディーラーがないかとその担当者に尋ねた。その担当者は池袋にあるディーラーを紹介してくれた。

私たちは地下鉄を乗り継いでそのディーラーに向かった。私たちが地下鉄を降りて紹介してもらったディーラーに電話をすると、担当者が車で私たちを迎えにきてくれた。そして「お帰りはどちらですか」と尋ねた。私たちがJR池袋駅に出たいと話すと、帰りはそこまで送り届けてくれるとのことであった。

そのディーラーではいくつかの車種を見せてもらった。Golfにも試乗させてもらった。(Beatleは置いていなかった。)ただ、どの車もあまり気に入らなかった。私たちのその様子を見てかどうか、私たちが帰ろうとすると、「あそこにバス停がありますので、そこでバスに乗ってください」とその担当者はそっけなく私たちに告げた。

私たちは「えっ」と思ったが、何も言わず、バス停に向かった。

帰宅途中、家内は、「もうフォークスワーゲンの車は絶対買わない」とつぶやいた。

私には、フォークスワーゲンの人たちの冷たい対応の理由がわかった。服装であった。私たちは、誰が見ても金を持っているようには見えないような服装をしていた。私も、家内も、そして息子も。私たちの服装を見て、金のない客に用はないと、フォークスワーゲンのディーラーの人たちは思ったのであろう。服装がその人を判断す一つの指標となることは至極尤もである。実際、私たちは金持ちではない。フォークスワーゲンに乗ることが富の証であるとするならば、私たちはそれにふさわしいとはいえない。したがって私は彼らに恨みはない。

この出来事は私にとっていい勉強になった。私は、世の中というものがどういうものかということについて、その一端を見たような気がした。ただし、私たちが貧乏ではないように見せようと翌日からドレスアップしてディーラー出かけようという気は起きなかった。私たちは、その後もずっとみすぼらしい格好のまま、あっちこっちのディーラーを回った。いいか悪いかは別にして、当時も今も私たちにはほとんど見栄というものがない。

(余談であるが、私の息子は穴があいても気にせずその靴を履き続ける。先日、両親が上京してきた際にその靴を見て、父親が「お医者さんの息子がこんな靴を履いているというのは恥ずかしいから、どうぞやめて」と息子に言ったということを後で家内から聞かされた。家内は、単に笑っているだけであった。息子はその破れた靴をまだ履き続けている。つい昨日もその靴を履いて出かけた。服も然り。先週の土曜日には、塾の先生に、また同じ服を着てきているとからかわれたと息子から聞かされた。息子はそんなことは全く気にならないらしい。私も私で、「来週の土曜日も同じ服で塾に行けばどう?」と息子をからかった。息子が幼い頃、息子に着せた服はほとんどバザーで買ってきた古着であった。一着10円から150円程度のものばかり。スキーウェアーも30年以上昔のものではないかと思われる知人のお下がりをずっと着せて、毎年、スキーツアーに行かせている。息子はそれらをいやがらずに着る。他人からいろいろのことを言われても全く無頓着である。)

顔を合わすなり、「私の主人はどこどこ大学の教授であり、私の息子はどこどこ大学の専任講師をしています」などと一人勝手に話し始める婦人がいる。私は「そうですか」としか答えない。私は、学歴、地位、財産などといったものでその人の価値を測ったりはしない。そんなことでどんなに自慢されても私の心には何も響かない。学歴、地位、財産といったものを自慢する人は、逆にそれらに劣等感を抱いているのではないのかとすら思える。

学歴にこだわる人は学歴を得ようとして努力するであろう。努力すればそれなりの成果は得られるものだ。しかし自分が目標とした学歴を得られたとしても世の中には上には上がいる。その人たちを見れば羨ましく思うであろう。逆に自分よりも学歴が劣る人に対しては侮蔑の感情を抱くに違いない。お金に関しても同様である。学歴、地位、財産などというものを他人との比較という視点から捉えると際限がなくなる。相対的な比較の世界でしか生きていくことができない人は、生涯、心が満たされることはない。その不満は顔に表れる。その人の心構えやそれまで生きてきた人生はその人の顔にそのまま表れるものだ。態度にも表れる。自分よりの上の人に対しては卑屈な態度をとり、自分よりも下の人たちに対しては横柄になる。何のことはない。これは単に自分が自分自身に弄ばれているだけのことである。

さらに話は飛ぶが、私の父親の最終学歴は青年学校(今の中学校)である。母親の最終学歴も中学校。父親も母親も高校には行っていない。戦争と貧困という環境が進学を許さなかったのだ。しかし、自分たちの置かれた恵まれない環境のなかで、これまで一度も他人から後ろ指を指されることもなく正直にまっすぐ生きてきた両親は、たとえ学歴も地位も財産もなかろうと、それだけで十分立派ではないかと息子である私は思っている。これ以上、何を求めるのか。自分たちが歩んできた人生を振り返り、自らを褒めてあげたい気持ちを両親が持てるかどうかが最も大切なことであろう。

高知の実家に帰ると、私は近所に住む90歳を過ぎた老婆からよくこんなことを言われる。「あんたんくが今えい生活をできるのは、おじいさんが結構な人とじゃったけえよ。」そして私の祖父との思い出を語り始める。私の祖父が保証人になっていたためにその人の多額の借金を背負うことがあったが、私の祖父がその借金を誠実に返済していったことを私は何度もその老婆から聞かされた。祖父が莫大な借財を背負った当時、祖父にたかられることを心配して、近所の人たちは我が家に誰も近づこうとはしなかったという。父親も似たことを近所の人たちから言われるらしい。「おんしゃんくが今えい生活をしゆうがは、おんしゃらあがだれっちゃあに迷惑をかけんずつきたからえや」と。

ただ、見栄を張ろうとしない私の家族の生き方はエネルギーに乏しい。向上心も劣るかもしれない。虚栄心は向上心の源でもあるのだろうから。

2009年12月1日火曜日

祖父 その2

私が物心ついた頃、祖父は既にびっこを引きながら歩いていた。特に右脚が不自由であったように記憶している。O脚でよたよたと歩いていた。ただし杖を必要とはしなかった。自転車に乗ることもできた。

祖父がなぜ膝を痛めたのかについてこれまで一度も家族の間で話が出ることはなかった。幼い頃からなぜだろうと私も思っていたが、祖父にも家族の誰にも尋ねなかった。祖父が自分の脚が不自由であることを難儀がっているのを見た記憶もない。

つい先日、帰省して両親と雑談している最中、母親が突然、父親に向かって、祖父はなぜ脚が不自由であったのかと尋ねた。母親も知らなかったのだ。母親が我が家に嫁いできたときには既に祖父の膝は歪んでいたのであろう。

父親は、「重いものを持ったからえや」と答えた。

祖父は若い頃、ある人の借金の保証人となっていた。その人が突然亡くなった。このことによって祖父は莫大な借金の返済を肩代わりしなければならなくなった。近所の人たちは皆、「これでヨイ(私の祖父の愛称)も終わりじゃねや」と噂したという。

借金を返済するために祖父は朝早くから深夜まで休まず働き続けた。焼いた木炭を自宅に運ぶために夜中に人里離れた寂しい山に出向くこともたびたびあったらしい。自分の身体の何倍ものカサのある荷物を背負って夜中に狭い山道を下ってきた。時折、人が叫ぶような不気味な声が聞こえてきたこともあるという。「ほー、ほー」という声が。怖かったにちがいない。

祖父は自分の身体の何倍もある荷物をいつも背中に負って運んでいた。だからその姿を見ると遠くからでもそれが私の祖父であることが一目瞭然であったという。

祖父が脚を痛めたのはこの重労働が原因であった。

祖父の身体が不自由であることは父親にも影響を与えた。祖父が脚を痛めると、その作業は父親が代わってしなければならなくなった。祖父は父親が17歳の時に父親に家督を譲った。

父親はふんどしひとつでキンマを引いた。若い女性とすれ違うと、とても恥ずかしかったと父はその当時の思い出を語る。

父親はまた、農家から栗やエンドウ豆を買い集めてそれを出荷する仕事もしていたという。夏のある晩、120キロもある栗の荷を自転車で引きながら山里離れた道を歩いているとき、突然、大雨が降り始め、雷も鳴り始めた。しかし重い荷物を引いている父親はゆっくりゆっくりとしか進めない。周囲には街灯もない。寂しい山道を大雨に打たれびしょびしょに塗れながら一歩一歩必死で自転車を押したという。

私が幼い頃、我が家にはアルミでできた大きな弁当箱があった。片手では持てないほどの大きさであった。深さも7センチほどあったであろうか。父親が野良仕事にでかけるときには、その弁当箱にぎっしりとご飯を詰めた。味付けは塩。それに沢庵が載っているだけであった。

私が小学校に持っていく弁当も大同小異であった。おかずは毎日同じ。「鯛でんぶ」と呼ばれていた一袋10円の甘い粉末だけがご飯の上に載せられていた。鯛でんぷに飽きた私はよく母親に愚痴をこぼした。しかし別のおかずが載ることはなかった。

母親もよく働いた。母親は病気を患うまでゆっくりとくつろぐことは片時もなかった。姑と嫁とはあまり仲が良くないものであるが、私の祖母は近所で「うちのミッチャン(私の母の愛称)は毎日ずっと走りゆうで」と嫁を褒めていたという。確かに私が母親と祖母とが言い争うのを見たことは一度もない。祖母が脳卒中で倒れたときも母親は自宅で献身的に祖母の介護をした。

当時、我が家は藁葺きで、かつ古く、いつ倒れるともしれなかった。家にはよく蛇が入ってきた。ムカデに噛まれることもよくあった。そんな家に住むことしかできないことは父親にとっても家族の誰にとっても恥ずかしいことであった。倹約に倹約を重ね、睡眠時間を削って働き、父親は家を新築するお金を蓄えた。いよいよ家を建てることになり少しずつ買い集めた材木が高く積み上げられていくのを見て、祖母は新しい家ができるのを心待ちにしていた。しかしその家の落成を見ることもなく、祖母は寒さの厳しい日の午後に脳卒中で倒れ、2週間後に息を引き取った。祖母が亡くなったのは私が小学校2年生であった年の12月30日であった。

貧困から抜け出すこと。これが祖父母と両親の大きな目標であった。家を建てることはこの貧困からの脱出のひとつの象徴的な出来事になるはずであった。しかし祖母はそれを見ずして亡くなった。祖母が亡くなったとき、母親は祖母を不憫に感じて涙が止まらなかったという。

新しい家が完成し引っ越しするまで、母親は毎晩深夜まで夜なべ仕事としてむしろを編んでいた。いつ母が床につくのか私は全く知らなかった。私が目覚めたときにはいつも母親は既に朝食の支度を終えていた。朝食が済むと近くの川まで洗濯にでかけた。冬、川の水は冷たい。手が凍える。それでも思い洗濯物をかかえて母親は川と自宅とを毎日何往復もし、山のような洗濯物を片づけた。冬になると母親の手はあかぎれと霜焼けで鳥の足のようであった。

「貧困」がマスコミを賑わせている。しかし現在の貧困など本当の貧困といえるのであろうか。私の両親は若い頃、もっとずっと貧しい生活に耐えた。そして窮乏の中でもできるかぎり他人に迷惑をかけないようにと心を砕きながら生きた。借金をしたこともない。ローンを組んだこともない。家を建てたときにもその費用は現金で一括で支払ったという。藁葺きの、いつ倒れるともしれない家に住み、倹約に倹約を重ねて、家を新築する費用を現金で一括払いできるようになるまで両親は近所の人たちからの嘲笑に耐えた。両親はこの家に今も住む。この家は、両親の終の住み処となるはずだ。