2015年12月8日火曜日

母が亡くなって4か月

母親が亡くなって4か月経った。まだたったの4か月か、というのが実感である。 昨夜、中学校・高校時代の友人2人と会食しながら夜遅くまで語り合ったが、話題は実家をどうやって管理していくか、先祖代々の墓をどうするか、定年後にどこでどうやって暮らすかといったことが主たる話題であった。還暦が近くなると、話題はこんなことに集中する。 こんな話の合間に、自分たちが幼かった時代の思い出話も出る。一人の友人は、毎日毎日、かぼちゃばかり食べさせられて辛かった思い出を語った。「もう食べられない」と母親に言ったところ、「なら、もうつくらん」と言われたということであった。「今になると母親の気持ちがよくわかる」と彼は言った。。私にも似た思い出があった。大きな土鍋に山のようなわらび。そのわらびがなくなるまで、おかずは毎日そのわらびであった。「もう、いや」と私は涙ぐんだことがあった。そのとき母親はじっと下を向いて黙った。しかし、他のおかずを用意してくれることはなく、母親は黙々とそのわらびを口に入れて食事を続けた。タケノコの季節には、おかずは毎日タケノコになった。 我が家だけが貧しかったわけではなかった。時代が貧しかったのだ。 私の実家は、私が小学校3年生になるまで藁葺き屋根のあばらやであった。柱は虫に食われて穴だらけ。地震が起きると屋根が大きく揺れた。夏になると大きな蛇が家の中をよく這っていた。ムカデに咬まれたこともあった。高知は毎年必ず台風に襲われる。台風が近づくと我が家はミシミシと音を立てた。家が倒れる恐れがあると思われたときには、隣の家に避難させてもらったこともあった。 こんな貧乏生活から抜け出そうと、両親は懸命に働いた。そして父親が33歳の時に実家の隣のミカン畑に新しく家を建てた。その家が完成したのは私が小学校3年生のときの夏であった。落成式の前日、私と私の姉はほぼできあがった新しい家の床の間に布団を敷いてもらって二人だけでそこに寝た。藁葺き屋根の家は私たちが新しい家に引っ越してからしばらくして壊された。そして数年後にはその土地に倉庫が建てられた。 晩年、両親は金に不自由することはなかった。都会の基準では大した財産ではないが、それでも親族の中では一番裕福であったと思う。しかし両親は決して派手な生活をしなかった。年老いた二人だけの生活に対する不安が強かったのだと思う。また、周囲からの嫉妬も恐れていたように感じる。土佐弁では嫉妬のことを「しょのみ」という。妬むことを「しょのむ」と表現する。両親、特に父親は周囲からしょのまれることを警戒していた。 残念なことに、両親とも貯めた財産を使うことなく亡くなった。