昨夜、職場からの帰宅途中、一通のメールが届いた。差出人欄には「匿名」と書かれていた。私が前回書いたブログ「うげる」に対するコメントとして私に送信されていた。しかしそのメールは「うげる」に対するコメントではなく、昨年11月に書いた私のブログ「熊本」に対するコメントであった。そのメールを読み、私は強い衝撃を受けた。「熊本」の中に書いた恩師、植田和男先生の死を知らせるメールであった。
以下は、原文のとおり。
「突然失礼いたします。私は熊本で科学展という事業のお手伝いをしている者です。科学展が今年70回を迎えることから、この10年の功労者の足跡を調べていましたら、あなたのブログに行き当たりました。
2009年の11月、熊本にいらっしゃった時のブログを見てコメントしました。
話題に上がっていましたU先生は、昨年お亡くなりになっています。最後の勤務校は大津高校という学校で、亡くなられた経緯は良く存じませんが、誰に対しても威張らず、いつでも子どものように好奇心一杯で、学究肌の先生でした。先生がフィールドワークされたデータはウェブでも公開されて(今は閉鎖していますが)大学の先生方も参考にされる程でした。先生は、学校が嫌いだったり、勉強が苦手な生徒達を連れてよく岩石採集のフィールドワークに連れて行くなどされていました。生徒とそういう関わり方をずっとされてきた方でした。先生の教職生活の中で、あなたのような感じ方をしていただいた方がいらっしゃったということだけでも救われる思いがいたしました。 」
昨年11月、私は、熊本市に行ったついでに阿蘇にある高森町を訪れた。30年余り前、私が大学生だった頃、植田和男先生はこの高森町に住んでいた。当時、先生はまだ独身であり、一人暮らしをしていた。
私は高森町駅に車を止め、しばし駅の周りを歩いた。しかし30年前の高森町駅舎がどうであったのか、当時の光景を思い出すことはできなかった。私が思い出すことができたのは、植田先生私に向かって見せた、恥ずかしそうな笑顔だけであった。
上に紹介したメールを読むと、植田先生は最晩年まで職場の同僚からはうとんじられていたのではないかと思われる。植田先生はロマンチストであった。常に弱いものの味方であった。きっと孤独であっただろうと思う。しかし植田先生が支えようとした子供たちの心のなかで植田先生は生き続けるに違いない。
私の中学高校時代の恩師はこれで皆亡くなられた。