桜が満開である。今朝、通りすがりに見た日比谷公園の染井吉野も見事な花を咲かせていた。思わずカメラを取り出しシャッターを切った。
写真を撮りおわってカメラをしまおうとしたとき、私の頭に妙な歌が思い浮かんだ。「同期の桜」である。「きさまと俺とは同期の桜」で始まる戦中の歌である。
私は戦後生まれであるが、私が子供の頃にはよくこの曲が流れていた。最近、この歌を耳にすることはない。放送禁止歌にでもなっているのであろうか。
私はこの曲を小声で口ずさんだ。そして、その歌詞をゆっくり頭の中で辿りながら、戦争で死んでいった多くの若者の思いを想像した。終戦の1か月前にフィリピンのレイテ島で戦死した伯父のことも脳裏に浮かんだ。伯父は、生まれて数か月にしかならない一人息子を残して戦地に飛び立った。その息子は私の従兄になる。その従兄も既に亡い。10年ほど前、膀胱癌で亡くなった。私はその従兄から、生前、小児期の寂しかった思い出を聞かされたことがあった。その従兄には4人の娘があった。娘全員を連れてその従兄が私の実家を訪れたとき、しみじみと私に語った言葉は今も忘れることができない。「貧乏じゃきに娘にはなんちゃあしちゃれん。けんど、親の愛情は伝えることができるけんのう。」
そんなことを思い浮かべているとき、私の頭に、ふと、コタキナバルの光景が浮かんだ。私は、ドキッとした。
コタキナバルはマレーシアの小さな町である。スマトラ島の北端に近いところに位置している。私は、家族とともに、この島を昨年の春と今年の春、2年続けて訪れた。
いうまでもなくマレーシアはイスラム教社会である。「イスラム教」という言葉を耳にして、私たち日本人が思い浮かべるのは、まず、テロ、そして男尊女卑の世界、といったイメージであろう。
今の日本は、キリスト教社会の価値観が社会を席巻している。一神教はイスラム教であれキリスト教であれ、非常に厳しい宗教である。世界では今もキリスト教とイスラム教との争いが絶えない。イラクでの戦闘も、アフガニスタンでの戦闘もキリスト教とイスラム教との間の宗教戦争である。日本人では古くから仏教という多神教が心の基盤となってきた。多神教を奉じてきた日本人には宗教戦争という観念はない。そして、日本は無批判にキリスト教国に荷担する。
しかし果たして、ほんとうにイスラム教社会は悪なのであろうか、男尊女卑だけの遅れた社会なのであろうか。ヘジャブは女性蔑視の象徴なのであろうか。大胆に肌を露出し路を闊歩する日本の若い女性。しかし肌をさらす自由と引き替えに日本の女性は自らの神秘性を放棄した。
コタキナバルで出会った多くの現地の人々の屈託のない笑顔を思い浮かべるたびに、私は、日本人は戦後、生きていく上で最も大切なものを失ってしまったのではないかと思わざるを得なくなる。それは、「信じること」と「信じられること」である。何が正義であり、何が善であり、何が価値のあることなのか、美とは何か、そういったことに関する心の拠り所を日本人は見失ってしまった。社会が共有する美意識や価値観は、日本にはもうない。
日本社会はどこに行っても「個性、個性」のオンパレードである。しかし、電車の中で化粧をするのは個性ではないであろう。成人式の最中に騒ぎ立てるのも個性ではないであろう。イスラム教の世界では祈りの儀式の最中に騒ぎ立てる者はいない。祈りは侵すべからぬ神聖なものである。そこには価値観の共有がある。今の日本社会には、もはや「神聖なもの」など存在しない。日本人が古くから培ってきた、世界に誇るべき、かけがえのない美意識も失われた。
信じるものを見失った日本社会。日本人の心は路頭に迷っている。誰もが慢性的な不幸感にさいなまれている。現在の日本は「総不幸社会」である。